第65話 断られた父は、ようやく娘がもう従わないと知る
フォルセイン侯爵家の書斎には、冬の午後の光が斜めに差し込んでいた。
重厚な机。壁一面の書棚。磨き込まれた床。代々の侯爵たちの肖像画が、薄暗い壁の上から現当主を見下ろしている。
この部屋で、フォルセイン侯爵グラントは長く家を動かしてきた。
縁談を決め、領地の収支を確認し、王宮との距離を測り、娘の教育方針を定めてきた。家のために必要なことを選び、不要な感情は切り捨てる。それが侯爵家の当主として当然の務めだと信じてきた。
だから、娘から届いた返書を読んだ瞬間も、最初に湧いたのは怒りではなかった。
理解できない、という感覚だった。
――ご厚意には感謝いたします。
ただし、冬の灯火所および渡り灯は、王宮慈善局と現場関係者、各支援家の記録に基づき運営されるものです。
いずれの家名も、実際の支援内容を超えて掲げることはできません。
グラントは眉を寄せた。
実際の支援内容を超えて掲げることはできない。
それは筋の通った文だった。
あまりに筋が通っていた。
だからこそ、不快だった。
娘から父へ送られる手紙ではない。
まるで王宮慈善局の官吏が、貴族家からの申し出を処理するために書いた文のようだった。
グラントはさらに読み進める。
――フォルセイン侯爵家よりご寄付をいただく場合も、他家と同じく、用途別記録にて正確に記載いたします。
後援名として事業全体へ掲げることはいたしかねます。
指先に力がこもった。
他家と同じく。
リディアはそう書いてきた。
フォルセイン侯爵家を、他家と同じに扱うと。
父である自分の家を。
彼女を育て、王太子妃候補にまで押し上げた家を。
宰相家へ送り出した家を。
他家と同じに。
「……何を考えている」
低く漏れた声は、書斎の中で硬く響いた。
そして最後の一文が目に入る。
――私個人の名も、フォルセイン家の名誉のために用いるものではございません。
その瞬間、グラントは手紙を机へ置いた。
音は大きくなかった。
だが、その静かな動作に怒りがこもっていた。
私個人の名。
リディアが、自分の名を“家のものではない”と書いてきた。
娘の名は家の名と結びついている。生まれ、育ち、教育、縁談、社交界での立場、そのすべてが家によって形づくられる。貴族令嬢である以上、それは当然のことだ。
それなのに、彼女は今、自分の名を父の手から切り離そうとしている。
「宰相家に行ってから、ずいぶんと……」
言いかけて、グラントは口を閉じた。
生意気になった。
そう言いたかった。
だが、その言葉は書斎の空気の中で、どこか軽く響きそうだった。
リディアの返書は感情的ではない。
礼を欠いてもいない。
むしろ、文面だけなら完璧に近い。
だからこそ、こちらが怒れば怒るほど、こちらのほうが感情的に見える。
それがさらに不快だった。
扉が控えめに叩かれた。
「あなた、入っても?」
妻セレスティアの声だった。
グラントは少し間を置いてから答えた。
「入れ」
扉が開き、セレスティアが入ってくる。薄紫のドレスに、真珠の耳飾り。いつも通り整った侯爵夫人の姿だったが、目元にはかすかな緊張があった。
「リディアから返事が来たのですね」
「ああ」
グラントは手紙を差し出した。
セレスティアは慎重に受け取り、文面へ目を落とす。
読み進めるにつれ、その表情が少しずつ変わった。
驚き。
戸惑い。
そして、ほんのわずかな痛み。
「……はっきり書いてきましたね」
「父親に対する手紙とは思えん」
グラントの声は低かった。
「王宮の通達のようだ。誰に物を言っているつもりなのか」
セレスティアは手紙から目を離さなかった。
「でも、失礼な文ではありませんわ」
「失礼な文でないから問題ないと?」
「そういう意味ではありません」
彼女は静かに首を振った。
「ただ……リディアらしいと思いました」
グラントは妻を見た。
「これが?」
「ええ。あの子は昔から、線を引くときほど丁寧になる子でした」
その言葉に、グラントは眉をひそめた。
昔から?
そんなものを、彼は覚えていない。
リディアは従順だった。物わかりがよく、間違えず、言われたことをこなす娘だった。父の指示に逆らうような子ではなかった。
少なくとも、彼はそう見ていた。
「線を引くなど、あの子に必要なことではない」
「本当に?」
セレスティアの声は小さかった。
だが、その問いには珍しく棘があった。
グラントは不快そうに視線を向ける。
「何が言いたい」
「あの子は、ずっと線を引けなかったのではありませんか」
書斎の空気が、少し冷えた。
セレスティアは手紙を胸元でそっと持ったまま続ける。
「王太子殿下とのことも。侯爵家のことも。あの子は、嫌だとも、苦しいとも言わなかった。言えなかったのかもしれません」
「貴族の娘が、いちいち嫌だ苦しいだと言って何になる」
「何にもならないと、私たちが教えてきたのですわ」
グラントは言葉を詰まらせた。
セレスティアは、普段こんな言い方をしない。
彼女はいつも侯爵夫人として控えめで、当主であるグラントへ正面から異を唱えることは少なかった。娘の教育についても、多くは彼に任せてきた。
その妻が今、静かに彼を責めている。
「リディアは、王太子妃候補としてよくやっていました」
「だからこそ、今の評価がある」
「ええ。でも、そのためにどれだけ息を詰めていたのか、私は見ていませんでした」
「今さら何を」
「今さらです」
セレスティアは目を伏せた。
「本当に、今さらなのですわ」
その声には、後悔が滲んでいた。
グラントは苛立ちを覚えた。
なぜ今、妻までそんなことを言い出すのか。
リディアが宰相家で評価された途端、まるでこちらが悪者のようではないか。
「私は家のために最善を尽くした」
彼は低く言った。
「あの子を王太子妃候補にするために、どれほど手を尽くしたと思っている。教育にも、社交にも、金と人をかけた。それがあったからこそ、今あの子は宰相夫人として王宮慈善局で名を上げているのだ」
「その通りです」
セレスティアは否定しなかった。
「でも、それを理由に、あの子の今の仕事を家のものにしてよいわけではないのでしょう」
グラントは机に手を置いた。
「家のもの、などと」
「あなたは、リディアの名声をフォルセイン家の功績として語ろうとなさいました」
「事実だ。あの子はフォルセイン家で教育された」
「でも、今あの子がしている仕事は、あの子自身が現場を見て、考えて、決めたものです」
セレスティアの声は震えていなかった。
「それを、後から家の名誉として覆うのは……あの子が嫌がっても、不思議ではありません」
グラントは返す言葉を探した。
だが、言葉より先に怒りが来た。
「お前まで、あの子の肩を持つのか」
「肩を持つのではありません」
「では何だ」
「今度こそ、見たいのです」
セレスティアは静かに言った。
「娘が何を守ろうとしているのかを」
グラントは妻を睨んだ。
しかし、彼女は目を逸らさなかった。
書斎の外で、軽い足音がした。
次いで、扉の向こうから若い声がする。
「お父様、お母様。……入ってもよろしいでしょうか」
エレノアだった。
グラントは眉を寄せた。
「何だ」
「リディアお姉様から、お返事が来たと聞きました」
「誰から聞いた」
「侍女たちが、少し騒がしかったので」
正直な答えだった。
グラントは深く息を吐いた。
「入れ」
扉が開き、エレノアが入ってくる。
彼女はリディアより年下で、まだ少女らしさの残る顔立ちをしている。だが今日の表情は、いつになく真剣だった。
「お姉様は、何と?」
「お前には関係ない」
グラントが即座に言うと、エレノアは小さく唇を噛んだ。
以前ならそこで引き下がったかもしれない。
だが今日は、引かなかった。
「関係あります。お姉様のことですもの」
「リディアはもう宰相家の人間だ」
「なら、なおさらお父様が勝手にお姉様のお名前を使うことはできないのではありませんか」
その言葉に、グラントの顔が強張った。
「エレノア」
セレスティアがたしなめるように名を呼んだが、声は強くなかった。
エレノアは父を見たまま続けた。
「お姉様は、断られたのですね」
グラントは答えなかった。
それだけで、エレノアは理解したようだった。
「やっぱり」
「何が、やっぱりだ」
「お姉様なら、そうなさると思いました」
その声には、驚きよりも小さな誇らしさがあった。
グラントはさらに不快になる。
「いつからお前は、姉をそんなにわかったように語るようになった」
「わかっていませんでした」
エレノアは即座に言った。
「ずっと、わかっていませんでした。お姉様は完璧で、何でもできて、お父様に認められていて、私はいつも比べられる側だと思っていました」
彼女の声が、少しだけ揺れた。
「だから、お姉様が羨ましかった。少し嫌でした。お姉様ばかりが正しくて、私は足りない子なのだと……そう思っていました」
セレスティアが悲しそうに目を伏せる。
グラントは黙っていた。
「でも、宰相家へ嫁がれたあと、お姉様の噂を聞くようになって……変だと思ったのです」
「変?」
「お姉様は、王太子妃候補だった頃より、今のほうが生きているように見えると、皆が言います」
エレノアは胸元で手を握った。
「私も、以前お会いしたときそう思いました。お姉様は前より少しだけ、息をしているみたいでした」
息をしている。
その言葉は、グラントの胸に奇妙な不快感を残した。
王妃も、エドワードも、似たようなことを言ったらしいという噂を耳にしていた。まるでフォルセイン家にいたリディアが、息をしていなかったかのような言い方だ。
そんなはずはない。
彼は娘に、最高の教育を与えた。最高の立場へ進ませようとした。
それを“息をしていなかった”などと。
「お姉様は、もうお父様の言葉だけで動く方ではないのですね」
エレノアが言った。
静かな声だった。
だがその一言は、グラントの胸を鋭く刺した。
もう父の言葉だけで動かない。
それは、当主としても、父としても、彼が認めたくなかった事実だった。
リディアは、従う娘だった。
少なくとも、そうであるべきだった。
家のために、父の意向を読み、王宮で正しく振る舞う。それが彼女の役目であり、フォルセイン家の娘としての務めだった。
だが今、その娘は宰相家の名で、王宮慈善局の仕事をし、自分の名を家の名誉のためには使わせないと書いてきた。
それは、ただの反抗ではない。
彼女がもう、自分の管理下にいないということだった。
「……リディアは、宰相家に染まったのだ」
グラントは低く言った。
「グランディス卿が、あの子を利用しているのかもしれん」
その言葉に、エレノアがはっきり首を振った。
「違うと思います」
「何がわかる」
「わかりません。でも、お姉様の返事は、お姉様の言葉だと思います」
エレノアは真っ直ぐ言った。
「誰かに言わされたものではなくて、お姉様が初めて、自分で嫌だと書いたのだと思います」
グラントは無言になった。
その沈黙が、書斎の中に重く落ちる。
セレスティアはリディアの手紙を、そっと机の上へ戻した。
「あなた」
「何だ」
「寄付は、条件なしで出してはいかがですか」
グラントは妻を見た。
「何を言っている」
「リディアの条件を受け入れるのです。用途別記録に載せてもらう。それで十分ではありませんか」
「フォルセイン家が、他家と同じ扱いで満足しろと?」
「同じ支援者として扱われることは、不名誉ではありません」
セレスティアは静かに言った。
「むしろ、そこで家名を強く押し出せば、今の社交界では逆効果になるかもしれません。リディアは王妃陛下にも認められています。宰相閣下もおそばにいる。あの子の線を無理に越えようとすれば、こちらが浅ましく見えるでしょう」
それは、妻の情ではなく、侯爵夫人としての冷静な判断だった。
グラントにも、それはわかった。
わかったから、余計に苛立った。
リディアの返書に怒っても、表立って責めることはできない。
宰相家を敵に回せない。
王妃が関わる慈善事業に水を差すわけにもいかない。
社交界で娘の名声を利用しようと焦れば、かえって自分たちが笑われる。
つまり、身動きが取れない。
リディアはそれをわかって書いてきたのだろうか。
わかっていたなら、ますます腹立たしい。
わかっていなかったとしても、結果は同じだ。
「お父様」
エレノアが一歩前へ出た。
「私、今度お姉様に手紙を書いてもよろしいですか」
「何のために」
「お姉様が何をしているのか、ちゃんと知りたいのです」
「噂で十分だ」
「噂ではなく、お姉様の言葉で知りたいのです」
グラントは娘を睨んだ。
だがエレノアは、先ほどから一度も大きく目を逸らしていない。
あの子も、変わり始めている。
そう思った瞬間、グラントの胸に嫌な焦りが生まれた。
リディアだけではない。
妻も、エレノアも、自分の思う通りの位置から少しずつ外れている。
すべては、リディアが宰相家で名を上げ始めたせいだ。
そう考えかけて、グラントは奥歯を噛んだ。
違う、とも言えない。
だが、それだけではないのかもしれない。
彼女が引いた線を見て、残された家族もまた、自分たちの立ち位置を見直し始めている。
それが、グラントにはたまらなく不快だった。
「……勝手にしろ」
彼は低く言った。
エレノアの顔が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただし、余計なことは書くな。フォルセイン家の娘として恥ずかしくない文にしろ」
「はい」
エレノアは頷いた。
だが、その返事の奥に、以前のようなただの従順さはなかった。
グラントはそれに気づき、さらに口を結んだ。
セレスティアが静かに尋ねる。
「返書は、どうなさいますか」
グラントは机の上のリディアの手紙を見下ろした。
破り捨てたい衝動が、一瞬だけ湧いた。
だが、できない。
これは宰相家へ嫁いだ娘からの、正式な返書だ。
しかも文面に非はない。
ここで感情的に動けば、負けを認めるようなものだった。
「寄付は出す」
グラントは言った。
「ただし、用途別記録で構わないと伝えろ」
セレスティアが頷く。
「わかりました」
「だが」
グラントは声を低くした。
「リディアには、いずれ直接会って話す必要がある」
その言葉に、セレスティアの表情がわずかに曇った。
エレノアも緊張したように父を見る。
グラントは椅子へ深く座り直した。
「あの子は、自分がどれほど危うい立場にいるかをわかっていない。宰相家で評価され、王妃陛下に認められたからといって、実家との線を切れるわけではない」
自分で言いながら、グラントはその言葉が少し空虚に響くのを感じた。
実家との線を切れるわけではない。
そうだ。
貴族の娘は、完全に実家と切り離されることはない。
だが、リディアは切ろうとしているのではない。
利用される線を、引き直そうとしているだけだ。
その違いを、グラントは認めたくなかった。
認めれば、自分がこれまで娘をどう扱ってきたかを見なければならなくなるからだ。
セレスティアは、そっと目を伏せた。
「直接会うなら、どうか……」
「何だ」
「今度は、あの子の話を聞いてあげてください」
グラントは答えなかった。
エレノアも何か言いたそうにしていたが、結局口を閉じた。
書斎には、また冬の光が差し込んでいた。
机の上には、リディアの手紙がある。
丁寧で、隙のない、けれど確かに父を拒む手紙。
グラントはそれを見下ろしながら、ようやく理解し始めていた。
リディアはもう、父の言葉だけで動く娘ではない。
そしてその事実は、彼が思っていた以上に、フォルセイン侯爵家の内部を静かに揺らし始めていた。




