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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第64話 父の言葉に、初めて“いいえ”を書いた

 封蝋が固まるまでの時間は、ほんのわずかだった。


 けれどリディアには、それがひどく長く感じられた。


 赤い蝋が紙の合わせ目を閉じ、フォルセイン侯爵家へ向かう返書が、一通の正式な手紙になる。そこに書かれているのは、丁寧な言葉だけだ。声を荒らしたわけでも、父を責めたわけでもない。過去を持ち出して詰ったわけでもない。


 それでも、あの手紙は確かに拒絶だった。


 ご厚意には感謝いたします。

 けれど、私の名を家の名誉のために使わせることはできません。


 その意味を、父は間違いなく読み取る。


 ハロルドが封書を受け取り、部屋を出ていったあと、作業室にはしばらく紙の匂いと茶の香りだけが残った。


 リディアは椅子に座ったまま、自分の指先を見ていた。


 震えはもうほとんど収まっている。

 けれど、胸の奥にはまだ小さな揺れがあった。


 父に逆らった。


 たったそれだけのことが、こんなにも体を内側から揺らすとは思わなかった。


「奥様」


 オスカーが控えめに声をかけた。


 リディアは顔を上げる。


「顔色が少し悪いです。お休みになりますか」


「大丈夫です」


 言ってから、またその言葉を使ったことに気づく。


 大丈夫。


 便利な言葉。

 自分を黙らせる言葉。


 リディアは小さく息を吐き、言い直した。


「……少しだけ、落ち着きたいです」


 オスカーはすぐに頷いた。


「では、作業は一度止めましょう」


「でも、東区の記録票が」


「試作は進んでいます。奥様が今すぐ確認なさらなくても崩れません」


 その言い方が、少しアルベルトに似ていて、リディアは思わず目を瞬いた。


 オスカーは自分でも気づいたのか、苦笑する。


「旦那様の下で働いていると、言い方が移るようです」


「そうね。少し似ていたわ」


「光栄……でしょうか」


「そこは迷うところね」


 短いやり取りだったが、胸の緊張が少しだけほどけた。


 エマが新しい茶を持ってきてくれる。

 今日は香りの弱いものではなく、少し甘い香りがした。けれど重すぎない。落ち込んだときに飲みやすい、柔らかな茶だった。


「ありがとう」


「少し蜂蜜を入れております」


「気づかれていたのね」


「奥様は、緊張が解けたあと、甘いものを少しだけ召し上がると落ち着かれますので」


 リディアはカップを両手で包んだ。


 この屋敷では、自分の小さな癖が少しずつ拾われていく。


 食べられる量。

 疲れたときの字の小ささ。

 温室へ行きたくなるタイミング。

 緊張のあとに甘いものが欲しくなること。


 それは、時々くすぐったいほど恥ずかしい。

 けれど、怖くはなかった。


 父の手紙とは違う。


 あちらは、リディアを家の名誉へ変えようとする。

 こちらは、リディアがリディアでいるための小さな形を覚えてくれる。


 その違いは、もう痛いほどわかる。


「……父は、怒るでしょうね」


 ぽつりと、リディアは言った。


 オスカーは答えなかった。

 エマも、無理に慰めなかった。


 ただ、二人ともその場にいてくれた。


「怒るでしょうし、きっと……私が変わってしまったと言うと思います」


 変わった。


 父がそう言う声が、容易に想像できた。


 宰相家へ行ってから生意気になった。

 王宮で評価された途端、実家を軽んじるようになった。

 父の恩を忘れた。

 侯爵家の教育があったからこそ今があるのに、感謝を知らない。


 そんな言葉が、手紙の紙面から飛び出してくるようだった。


「変わられたのは、悪いことではないと思います」


 エマが静かに言った。


 リディアは顔を上げる。


 エマはいつも通り控えめな表情だったが、その声には妙な確かさがあった。


「少なくとも、奥様は以前より、ご自分が嫌だと思うことを嫌だとお考えになるようになりました」


「それは……いいことなのかしら」


「私は、よいことだと思います」


 エマはまっすぐ答えた。


「嫌だと思うことを、全部飲み込んでいらした頃よりも」


 リディアは黙った。


 胸の奥に、静かな痛みが走る。


 自分はそんなふうに見えていたのだろうか。


 何でも飲み込む人間として。

 嫌だと思うことすら、なかったことにする人間として。


 けれど、否定はできない。


「……ええ」


 リディアは小さく頷いた。


「きっと、そうだったのね」


 嫌だと言うこと。


 それは簡単なようで、リディアにはずっと難しかった。


 父の期待が嫌だ。

 王太子に見られないことが嫌だ。

 家名のために使われるのが嫌だ。

 支援を受ける人々の前に貴族の紋章を並べるのが嫌だ。


 今は少しずつ、それを言葉にできるようになっている。


 怖さはまだある。

 それでも。


「手紙を送ったのなら、もう戻せませんね」


 リディアはカップへ視線を落とした。


「はい」


 オスカーが答える。


「戻したいですか?」


 その問いに、リディアは少しだけ考えた。


 手紙を取り戻して、もっと柔らかく書き直す。

 父が怒らないように、曖昧にする。

 フォルセイン家の厚意へ最大限感謝を示し、後援名の扱いは今後検討すると逃がす。


 そうすれば、今この胸の揺れは少し軽くなるかもしれない。


 だが、その代わりに何かが戻ってきてしまう。


 父の言葉に従う自分。

 嫌だと言えない自分。

 家名のためなら自分の仕事も差し出す自分。


 それは、もう嫌だった。


「戻したくありません」


 リディアは静かに言った。


「怖いけれど、戻したくはないです」


 オスカーは深く頷いた。


「では、正しい手紙だったのだと思います」


 その言葉は少し単純すぎるかもしれない。

 けれど今のリディアには、ありがたかった。


 その日の午後、リディアは予定通り東区の記録票の確認に戻った。


 休んだとはいえ、完全に気持ちが落ち着いたわけではない。時折、父の手紙の文面が頭をかすめる。そのたびに、胸の奥が少し締めつけられた。


 けれど、目の前の仕事があった。


 渡橋成功。

 途中停止。

 付き添い必要。

 施療院到着。

 帰路確認。

 引き返し。


 紙面に並ぶ項目を見ると、不思議と気持ちが戻ってくる。


 父がどう怒るかより、まず東区の橋を渡る人がどう記録されるか。


 自分の名をどこへ載せるかより、引き返した人数をどう見落とさないか。


 そう考えられることが、今のリディアを支えていた。


「この欄ですが」


 オスカーが記録票の試作を差し出す。


「付き添い必要を、子ども、老人、怪我人に分ける形にしてみました」


「いいと思います。ただ、妊婦や体調不良者もいるかもしれません」


「では、その他欄を」


「文章を書く欄を増やすと負担になります。印をつけるだけにして、備考欄は一行で十分かと」


「承知しました」


 淡々と話し合う。


 けれど、その淡々とした時間がありがたかった。


 怒りも怖さも、仕事の中で少しずつ形を変えていく。

 父への返書で引いた線も、渡り灯で守りたい線も、根は繋がっているように思えた。


 人を、家名や役割のために使わないこと。

 支援を、誰かの名誉だけに変えないこと。

 記録から、届かなかった人を消さないこと。


 そのどれもが、今のリディアにとって大切な線だった。


 夕方近く、ハロルドが戻ってきた。


「奥様。フォルセイン侯爵家への返書は、予定通り届けさせました」


 リディアの手が一瞬止まる。


「……そう」


 とうとう届いた。


 もう父の手元へ行ったのだ。


 胸の奥が、また少しだけ揺れた。


「ありがとうございます」


 ハロルドは一礼し、すぐに続けた。


「旦那様がお呼びです。お時間がよろしければ、執務室へと」


 リディアは頷き、立ち上がった。


 執務室へ行くと、アルベルトは窓際に立っていた。


 日が落ちかけている。王都の屋根が暗い青に沈み始め、遠くの煙突から細い煙が上がっていた。


 彼は振り返る。


「返書が届いた」


「はい。ハロルドから聞きました」


「気分は」


 そう問われ、リディアは少し考えた。


「落ち着いてはいません」


「そうか」


「でも、戻したいとは思いません」


「ならいい」


 また、その一言。


 けれど今は、その短さがありがたい。


 アルベルトは机の上の一枚の紙を指で押さえた。


「フォルセイン侯爵家から、すぐに返答が来る可能性がある」


「はい」


「感情的なものもあり得る」


「父は、感情的な文章を書かない人です」


「表面上はな」


 その言い方に、リディアは少しだけ苦笑した。


 たしかに父は、声を荒らす人ではない。怒りをそのまま手紙へ書くこともしないだろう。だが、丁寧な文面の中に、いくらでも圧を込めることはできる。


 家の恩。

 娘としての務め。

 侯爵家の教育。

 父としての失望。


 そういう言葉で。


「次の手紙が来たら、すぐ読む必要はない」


 アルベルトが言った。


「え?」


「届いた瞬間に開く必要はない。心身が疲れているなら、翌日に回せ」


 そんな発想はなかった。


 手紙は届いたらすぐ読むもの。

 父からならなおさら。

 返事を待たせてはならない。


 そう思っていた。


「……父からの手紙でも?」


「父親だろうと、国王だろうと、君が倒れるほど疲れているなら後回しでいい」


「国王陛下でも、ですか」


「内容による」


 真顔で言われ、リディアは思わず少し笑ってしまった。


 アルベルトはほんのわずかに目を細める。


「笑うところか」


「すみません。旦那様らしいと思って」


「事実だ」


「はい」


 そのやり取りで、また少し肩の力が抜ける。


 リディアは窓の外を見た。


 遠く、王都のどこかに北区があり、東区がある。

 そして別の方角に、フォルセイン侯爵家がある。


 昔は、侯爵家が自分の中心だった。


 父の言葉が、母の沈黙が、家名が、王太子との婚約が、自分の世界を形づくっていた。


 けれど今は違う。


 自分の世界は、もっと広がっている。


 北区の火。

 東区の橋。

 作業室の書類。

 エマの茶。

 オスカーの記録票。

 マーサの軽食。

 そして、隣に立つこの人。


 そのどれもが、リディアの現在を支えている。


「旦那様」


「何だ」


「私は、父に“いいえ”と書いたのですね」


「ああ」


「初めてです」


 そう言うと、胸の奥が少し熱くなった。


 怖さではない。

 悲しみでもない。


 静かな実感だった。


「口で言ったわけではありません。でも、初めて父の言葉に、そのまま従いませんでした」


「従わないことは、反抗とは限らない」


 アルベルトは言った。


「君が守るべきものを選んだだけだ」


「守るべきもの」


「自分の名と、仕事だ」


 リディアはその言葉をゆっくり受け取った。


 自分の名。

 仕事。


 その二つを父から守る日が来るとは思わなかった。


 けれど今は、それをした。


「……少し、誇らしいと思ってもよいのでしょうか」


 恐る恐る尋ねると、アルベルトは即答した。


「いい」


 早すぎる返答に、リディアは目を瞬く。


「迷われないのですね」


「迷う理由がない」


「そうですか」


「ああ。君は自分で線を引いた。誇っていい」


 その言葉に、リディアの目の奥が少し熱くなった。


 父に“誇らしい”と言われても、心は温まらなかった。

 けれどアルベルトに“誇っていい”と言われると、こんなにも胸が揺れる。


 その違いが、少し可笑しく、少し苦しい。


「ありがとうございます」


 リディアは小さく言った。


 アルベルトは、また少しだけ視線を外した。


「……礼を言われることではない」


「言いたかったのです」


「そうか」


 その声が、ほんのわずかに柔らかかった。


 夜、リディアは自室で日記帳を開いた。


 日記を毎日つけているわけではない。けれど、最近は何か大きなことがあった日には、短く記すようになっていた。


 今日の欄に、彼女はしばらくペンを置けなかった。


 何を書けばいいのだろう。


 父へ手紙を送った。

 寄付は受けるが、私の名を家名のためには使わせないと書いた。

 怖かった。

 でも、後悔はしていない。


 そう書こうとして、少し違うと思った。


 リディアは、ゆっくり文字を記した。


 ――今日、初めて父に“いいえ”を書いた。

 声には出していない。

 けれど、私の線はそこにあった。

 怖かった。

 それでも、私は私の名を守りたいと思った。


 書き終えると、胸の奥が少し静かになった。


 日記を閉じ、窓の外を見る。


 王都の夜は暗い。


 でも、どこかで北区の火が灯っている。

 もうすぐ、東区の橋にも小さな灯りが置かれる。


 そしてリディアの中にも、消してはいけない小さな火がある。


 怒りでもあり、誇りでもあり、自分を守ろうとする意志でもある火。


 それを、今夜は静かに抱えて眠ろうと思った。

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