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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第63話 侯爵家は娘の名声を、家の功績に変えようとした

 怒っていい。


 その言葉をもらった翌朝、リディアは不思議なほど静かな気持ちで目を覚ました。


 怒りが消えたわけではない。


 むしろ、胸の奥にはまだ小さな熱が残っている。王太子の謝罪を思い出せば、あの東の回廊の冷たさも、彼の「息が詰まる」という言葉も、今でもはっきり蘇る。


 けれど、その熱はもう得体の知れないものではなかった。


 怒り。


 そう名づけられたことで、リディアの中でそれは暴れるものではなく、扱うべき火のようになっていた。


 消さなくていい。

 なかったことにしなくていい。

 けれど、誰かを焼くためではなく、何かを照らすために使えばいい。


 アルベルトは昨夜、そうとは言わなかった。

 けれど彼の言葉は、リディアにそう思わせた。


 朝食は、小食堂で取った。


 温かなスープと、薄く焼いたパン。果物は少しだけ。いつものように無理のない量で、食べきれないことを責められる気配はない。


 リディアがスープを半分ほど飲んだころ、ハロルドが小食堂の入口に姿を見せた。


「奥様。お食事中に失礼いたします」


「どうかしたの?」


「フォルセイン侯爵家より、お手紙が届いております」


 その名を聞いた瞬間、匙を持つ手がほんのわずかに止まった。


 だが、以前のように胸が凍ることはなかった。


 父からの手紙。


 それはもう、娘を案じる手紙ではないとわかっている。少なくとも、無条件にそう期待してしまう自分は、かなり小さくなっていた。


「こちらへ」


 リディアは静かに言った。


 ハロルドは封書を盆に載せて差し出す。


 見慣れた封蝋。フォルセイン侯爵家の紋章。整いすぎた筆跡。


 リディアは封を切った。


 文面は、予想通り丁寧だった。


 ――リディア。

 近頃、王都ではお前の名を聞く機会が増えた。北区の冬の灯火所、東区の渡り灯についても、宰相夫人としてよく務めているそうだな。父として誇らしく思う。

 思えば、お前が幼い頃より慈善や家政、王宮儀礼を厳しく学ばせてきたことが、今になって実を結んだのだろう。フォルセイン家の教育が王都のために役立っていることは、我が家にとっても大きな名誉である。

 ついては、冬の灯火所および渡り灯への支援として、フォルセイン侯爵家から相応の寄付を申し出たい。支援の際には、我が家がこの事業を後援していることを記録に明記してもらいたい。

 また、今後の慈善婦人会や王宮慈善局との調整においても、必要であればフォルセイン家として協力する用意がある。

 お前の働きが、今後も家名を高めることを期待している。


 読み終えたあと、リディアはしばらく黙っていた。


 スープの湯気が、静かに薄れていく。


 ハロルドは一歩下がった位置で控えている。エマも口を挟まない。ただ、リディアが手紙を読み終えたことだけを見届けている。


 リディアはもう一度、文面へ視線を落とした。


 父として誇らしく思う。

 フォルセイン家の教育が王都のために役立っている。

 我が家にとっても大きな名誉。

 家名を高めることを期待している。


 美しい言葉だった。


 けれど、そこにはリディア自身がいなかった。


 父が見ているのは、娘が何を感じ、何に悩み、どうやって北区や東区へ向き合ってきたかではない。


 王都で高まり始めた評判。

 宰相夫人としての立場。

 慈善事業に貼れる、フォルセイン侯爵家の名札。


 それだけだ。


 思ったほど、傷つかなかった。


 そのことに、リディアは少し驚いた。


 以前なら、同じ文面を読んだだけで胸が冷えたかもしれない。父に利用されているとわかっていても、どこかで「誇らしい」という言葉に縋ろうとしたかもしれない。


 けれど今は、違う。


 これは父の愛情ではない。


 そう見分けられるようになっていた。


「奥様」


 エマが静かに声をかける。


「お茶をお替わりいたしましょうか」


 リディアは少しだけ息を吐いた。


「お願い」


 エマが新しい茶を注ぐ。


 その温かさを見ながら、リディアは思う。


 この屋敷では、温かいものは温かいまま出される。

 見栄えのためではなく、飲む人が落ち着くために。


 父の手紙には、その温度がない。


「旦那様は?」


「執務室にいらっしゃいます」


「……この手紙を、お見せしても?」


 ハロルドが一礼する。


「旦那様より、フォルセイン侯爵家から手紙があった場合は、奥様のご判断を優先するよう申しつかっております」


 また、先に整えられていた。


 リディアは少しだけ苦笑した。


「では、食後に伺います」


「かしこまりました」


 朝食を終えて執務室へ向かうと、アルベルトは机の前で書類を読んでいた。


 彼は顔を上げると、リディアの表情を一目見ただけで何かを察したらしい。


「フォルセインか」


「はい」


「座れ」


 促され、リディアは椅子へ腰を下ろした。


 手紙を差し出す。


「読んでいただけますか」


「ああ」


 アルベルトは封書を受け取り、短い時間で文面に目を通した。


 読み終えたあと、彼の表情は変わらなかった。

 だが、机の上へ手紙を置く動作が、いつもより少しだけ静かだった。


「予想通りだな」


 低い声だった。


 リディアは頷いた。


「はい。父は、私の仕事にフォルセイン家の名を載せたいのだと思います」


「そうだ」


 アルベルトは否定しなかった。


「寄付自体は、受けてもよいのでしょうか」


「条件による」


「後援として記録に明記してほしい、とあります」


「断ればいい」


 あまりにも即答だった。


 リディアは思わず彼を見る。


「そんなに簡単に」


「簡単ではない理由があるか」


「……父です」


「それは理由ではなく、相手だ」


 実にアルベルトらしい言い方だった。


 リディアは少し困ったように息を吐く。


「旦那様は、時々とても容赦がありません」


「容赦して、君がまた自分を責めるなら意味がない」


 その返しに、言葉が詰まる。


 たしかにそうだ。


 父の申し出を断ることに、まだ怖さはある。

 侯爵家の娘として育った自分の中には、父の意向に逆らうことへの恐れが残っている。


 だが、その恐れを理由にしてしまえば、また父の価値観へ戻ることになる。


 家名。

 面目。

 利用価値。


 リディアが今守ろうとしているのは、それではない。


 北区の火。

 東区の橋。

 灯火守りの体調。

 橋を渡る人の安心。

 支援を受ける人が俯かずに済むこと。


 そこへ、フォルセイン家の名誉を大きく貼るわけにはいかない。


「父は、私が逆らうとは思っていないでしょう」


 リディアは静かに言った。


「そうだろうな」


「私も、少し前なら逆らえなかったと思います」


「今は?」


 問われて、リディアは自分の胸の奥を確かめた。


 怖い。

 それは確かだ。


 だが、嫌だと思っている。


 父の申し出をそのまま受け入れたくない。自分の仕事を、フォルセイン家の功績として語られたくない。北区や東区で動いている人々の上に、後から来た家名をかぶせたくない。


 その「嫌だ」は、以前よりずっとはっきりしていた。


「今は、断りたいです」


 アルベルトは短く頷いた。


「なら断れ」


「ですが、寄付そのものを拒むべきでしょうか」


「そこは分けろ」


 彼は机の上に指を置いた。


「寄付は受けられる。条件は受けられない。それだけだ」


「それだけ……」


「余計な感情を混ぜると、相手に入り込む隙を与える」


 リディアは手紙を見つめた。


 父は、おそらく感情を使ってくる。


 父として誇らしい。

 幼い頃から教育してきた。

 フォルセイン家の名誉。

 家族として協力したい。


 そういう言葉で、リディアを娘の位置へ戻そうとする。


 だが今、必要なのは娘としての返事ではない。


 制度を守る者としての返事だ。


「私は……父を責める手紙を書きたいわけではありません」


「書かなくていい」


「でも、従いたくもありません」


「なら線を引け」


 アルベルトは静かに言った。


「怒りをぶつける必要はない。だが、線は必要だ」


 線。


 その言葉が、胸にすっと入ってきた。


 王太子に対しても、昨日ひとつ線を引いた。

 謝罪は受け取る。けれど戻らない。


 父に対しても、きっと必要なのだ。


 寄付は受ける。

 だが、私の仕事を家名のために使わせない。


「書いてみます」


 リディアは言った。


 アルベルトは頷く。


「必要なら確認する」


「はい。……でも、最初は自分で書きたいです」


「そうしろ」


 その返答は短く、けれど尊重があった。


 リディアは自室ではなく、作業室で返書を書くことにした。


 そこには、北区と東区の資料がある。

 冬の灯火所の記録票。

 渡り灯の草案。

 支援家の用途別記録。


 それらを見ながら書きたかった。


 オスカーは最初、遠慮して部屋を出ようとしたが、リディアは首を振った。


「いてください。文面が曖昧なら、指摘してほしいの」


「私が、侯爵閣下へのお手紙を?」


「ええ。実務文として見て」


 オスカーは一瞬驚いた顔をしたあと、真剣に頷いた。


「承知しました」


 リディアはペンを取った。


 最初に書いた文は、あまりにも丁寧だった。


 ――父上のお心遣い、まことにありがたく存じます。

 フォルセイン侯爵家のご厚意は、王都の冬季支援にとって大きな助けとなるものと……


 そこまで書いて、手が止まる。


 違う。


 これでは、父の申し出を全面的に歓迎しているように読める。後援名を出す条件も、あとから都合よく解釈されるかもしれない。


 リディアは紙を横へ置いた。


 書き直す。


 ――ご支援のお申し出には感謝いたします。

 ただし、冬の灯火所ならびに渡り灯は、王宮慈善局の記録に基づき……


 また手が止まる。


 まだ弱い。


 父なら、「記録に基づき」の範囲へ家名を入れればいいと解釈するだろう。


 オスカーが控えめに言った。


「奥様」


「ええ。言って」


「この文ですと、侯爵閣下は“正式記録に後援として名を載せればよい”と解釈なさるかもしれません」


「そうね」


 リディアは小さく頷いた。


「私も、そう思ったところです」


 もう一枚、紙を取る。


 ペン先を整え、ゆっくり書き出した。


 ――ご厚意には感謝いたします。

 ただし、冬の灯火所および渡り灯は、王宮慈善局と現場関係者、各支援家の記録に基づき運営されるものです。

 いずれの家名も、実際の支援内容を超えて掲げることはできません。


 そこまで書くと、胸が少し苦しくなった。


 だが、手は止めなかった。


 ――フォルセイン侯爵家よりご寄付をいただく場合も、他家と同じく、用途別記録にて正確に記載いたします。

 後援名として事業全体へ掲げることはいたしかねます。


 オスカーが静かに読み、頷いた。


「かなり明確です」


「まだ足りない気がするわ」


 リディアは父の手紙を横に置いた。


 家名を高めることを期待している。


 その一文が、どうしても胸に引っかかっていた。


 父にとって、リディアの仕事は家名を高めるためのものなのだ。

 だが違う。


 それは違う、と言わなければならない。


 リディアは最後に一文を書き加えた。


 ――私個人の名も、フォルセイン家の名誉のために用いるものではございません。


 書いた瞬間、指先が震えた。


 オスカーも、息を呑んだようだった。


「奥様」


「強すぎるかしら」


「……いいえ」


 彼は少し考え、慎重に答えた。


「強いですが、必要です。これを入れなければ、侯爵閣下は奥様のお名前を“家の教育の成果”としてお使いになると思います」


 リディアは目を閉じた。


 やはり、そうだ。


 なら、この一文は必要だ。


「このまま、旦那様に見ていただきます」


 リディアは返書を持って執務室へ向かった。


 アルベルトは最後まで黙って読んだ。


 読み終えると、彼は紙を机の上へ置く。


「よく書いた」


 そう言われると思った。


 だが、彼は違う言葉を選んだ。


「これは君の線だ」


 リディアは顔を上げた。


「よく引いた」


 胸の奥が、静かに震えた。


 褒められたのとは少し違う。

 守られたのとも違う。


 自分が引いた線を、確かに認められた。


「……怖いです」


 リディアは正直に言った。


「父は怒ると思います」


「怒るだろうな」


「また、私が冷たいと言われるかもしれません」


「言うかもしれない」


「旦那様は、本当に慰めませんね」


「君が冷たくないことは、もう言った」


 当たり前のように返され、リディアは少しだけ言葉を失った。


 ああ、そうだった。


 この人は、必要なことはもう言ってくれている。


「それに」


 アルベルトは続けた。


「相手が君の線を不快に思うなら、それは線が機能している証拠だ」


 リディアは手元の返書を見る。


 この線を、父はきっと嫌がる。


 それは、ここから先へ勝手に踏み込ませないための線だからだ。


「送ります」


 リディアは言った。


「私の名前を、フォルセイン家の名誉のためだけに使わせたくありません」


「ああ」


「北区や東区のためにも」


「ああ」


「……私自身のためにも」


 最後の言葉が、一番小さかった。


 だがアルベルトには届いた。


 彼は静かに頷く。


「それが一番重要だ」


 リディアは返書を封筒へ入れ、封蝋を落とした。


 フォルセイン侯爵家へ送る手紙。


 娘としてではなく、一人の人間として。

 そして、自分の仕事を守る者として。


 赤い封蝋が固まっていくのを見ながら、リディアは息を吐いた。


 怖さはまだある。


 けれど、その怖さの中に、奇妙な静けさもあった。


 父に従わない自分。

 家名より先に、現場と自分の線を守る自分。


 そんな自分を、少し前のリディアは想像もできなかった。


 だが今は、その手紙を自分の手で送り出すことができる。


 ハロルドが封書を受け取り、一礼して部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 リディアはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。


 アルベルトも急かさない。


 やがて、彼女は小さく言った。


「旦那様」


「何だ」


「少し、手が震えています」


「そうか」


「でも、後悔はしていません」


 アルベルトは、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。


「ならいい」


 その一言で、リディアはようやく椅子に座ることができた。


 侯爵家は娘の名声を、家の功績に変えようとした。


 だが、リディアは初めてそれを拒んだ。


 怒鳴らず、泣かず、言い訳もせず。


 ただ、線を引いた。


 その線は細いかもしれない。

 けれど、たしかに自分の手で引いたものだった。

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