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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第62話 初めて怒っていいと言われた日

 宰相家へ戻ると、屋敷の空気はいつも通り静かだった。


 玄関ホールには余計な人影がなく、足音も控えめで、暖炉の火だけが低く揺れている。王宮の硬い光と、人の気配が詰まった廊下から帰ってくると、この屋敷の静けさは少しだけ別の世界のものに思えた。


 エマが一礼して迎えてくれる。


「お帰りなさいませ、奥様」


 その声を聞いた瞬間、リディアは自分の肩から力が抜けるのを感じた。


 帰ってきた。


 そう思った。


 まだ嫁いでから長い月日が経ったわけではない。幼い頃から過ごした場所でもない。それなのに、王宮から戻って最初に息が深く入るのは、もうこの屋敷になっていた。


「ただいま戻りました」


 そう答える声が、思ったより柔らかくなった。


 エマは一瞬だけ目元を和らげる。


「お茶をお部屋へお持ちいたしましょうか」


 リディアは少し迷った。


 部屋で休むべきだとは思う。アルベルトにも休めと言われた。実際、体は疲れている。王妃の前で話し、王太子と向き合い、馬車の中でようやく震えが止まったばかりだ。


 けれど、胸の奥がまだ落ち着いていなかった。


 休むには、心の中が少し騒がしすぎる。


「……温室へ行ってもいいかしら」


 口にしてから、もう許可を求める言い方になっていることに気づいた。


 だがエマは、いつものように穏やかに頷く。


「もちろんでございます。温かいお茶をそちらへお持ちいたします」


「ありがとう」


 そのまま温室へ向かう。


 廊下を歩く足取りは重くない。けれど、軽くもなかった。自分の中に、何か形の定まらないものが残っている。それが歩くたびに胸の内側で揺れる。


 温室の扉を開けると、湿った土と葉の匂いがした。


 王宮の花は、どれも完璧に整えられている。香りも色も、客人の目に触れることを前提に選ばれている。


 けれどこの温室の花は、もう少し静かだった。


 咲いているものも、まだ蕾のものも、葉ばかり茂っているものもある。手入れはされているが、見せるためだけの場所ではない。ここにある花は、ただそこに根を張っている。


 リディアはブルースターのそばの椅子に腰を下ろした。


 青い花が、小さな星のように揺れている。


 以前、この花が好きだと口にした。母が空の欠片みたいだと言ったことを、アルベルトが覚えていた。自分でさえ忘れかけていた小さな記憶を、彼は覚えていた。


 そういうことを思い出すと、胸の奥が静かに温かくなる。


 だが今日は、その温かさの下に別のものがあった。


 もっと熱く、扱いに困るもの。


 悲しみではない。

 怖さだけでもない。

 寂しさとも少し違う。


 王太子に謝られたときから、それはずっと胸の奥で燻っていた。


 エマが茶を置いてくれたあと、温室には一人きりになった。


 カップを手に取る。


 香りは弱く、温かい。


 それでも、今日は一口飲んでも胸の奥の熱は鎮まらなかった。


「……どうして」


 小さな声が漏れた。


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。


 どうして今さら謝るのか。

 どうしてあの頃に見てくれなかったのか。

 どうして自分は、謝罪を受け取ったあとでもこんなに苦しいのか。


 どうして、あの人が後悔している顔を見て、少しも可哀想だと思わなかったのか。


 いや、まったく思わなかったわけではない。王太子の苦しげな顔には、確かに胸が痛んだ。かつて自分が婚約者として支えようとした人だ。完全に何も感じないほど、薄い関係ではなかった。


 けれどそれ以上に、胸の奥で何かが言っていた。


 遅い、と。


 今さらだ、と。


 その声は、冷たいのではなく、熱かった。


 その熱に、リディアは戸惑っていた。


 温室の扉が静かに開く。


 リディアは振り返らなくても、誰かわかった。


「ここにいたか」


 アルベルトの声だった。


「はい」


 彼はいつものように、近づきすぎない位置で足を止めた。


「休めと言ったが」


「休んでいます」


「考え込んでいる顔だ」


「……それは、休みには入りませんか」


「場合による」


 あまりにも真面目な返事に、リディアはほんの少しだけ笑いそうになった。


 けれど今日は、笑みになりきらなかった。


 アルベルトはそれを見て、何も言わず、少し離れた椅子に腰を下ろした。座る場所は、いつもよりわずかに近い。けれど、手を伸ばせば触れるほどではない。


 その距離が、今のリディアにはちょうどよかった。


「王太子のことか」


 アルベルトが言った。


 リディアはカップを両手で包んだまま、少しだけ俯いた。


「はい」


「謝罪を受け取ったのに、落ち着かないか」


 なぜ、そう簡単に言い当てるのだろう。


 リディアは息を吐いた。


「……落ち着かない、というより」


「より?」


「自分でも、よくわからないのです」


 それが正直なところだった。


「殿下は謝ってくださいました。私は、それを受け取りました。戻るつもりはないとも言えました。だから、もっと気持ちが整理されると思っていたのです」


「整理されなかったか」


「はい」


 リディアはブルースターへ視線を落とす。


「胸の奥が、まだ熱いままです。悲しいのとは少し違います。怖いのも、もう少し違う気がします。寂しい……とも、たぶん違って」


 そこまで言って、言葉が止まった。


 これを何と呼ぶのか、知らない。


 アルベルトはしばらく黙っていた。


 沈黙の中で、温室の葉が小さく揺れる。ガラス越しの空は暮れかけていて、薄い光が花の輪郭を青白く浮かび上がらせていた。


 やがて、アルベルトが言った。


「怒っているのだろう」


 リディアは顔を上げた。


「怒って……?」


「ああ」


 あまりにも自然に言われ、かえって意味が胸に入ってこなかった。


 怒る。


 自分が、王太子に?


「私は……怒っているのですか」


「そう見える」


「でも」


 反射的に否定しかける。


「殿下は謝ってくださいました」


「謝罪と怒りは両立する」


 すぐに返された。


 リディアは言葉を失う。


 謝られたら、許さなければいけないと思っていた。

 少なくとも、怒りを引っ込めなければならないのだと。


 相手が後悔しているなら。

 謝罪してくれたなら。

 もう責め続けるのは冷たいことだと。


 そう思っていた。


 だがアルベルトは、謝罪と怒りは両立すると言う。


「……怒っても、よいのですか」


 自分でも驚くほど頼りない声だった。


 アルベルトは迷わなかった。


「当然だ」


 当然。


 その一言は、あまりにも強く胸を打った。


「君は傷つけられた」


 アルベルトは静かに続けた。


「傷つけられて、後から謝られた。それで傷がなくなるわけではない。怒りが残るのは当然だ」


 リディアはカップを持つ手に力を込めた。


 温かいはずの茶が、急に手の中で遠く感じる。


 怒っていい。


 そんな許可を、これまで誰かにもらったことがあっただろうか。


 侯爵家では、怒る前に反省を求められた。

 王宮では、怒りは未熟さとされた。

 婚約を解かれたときでさえ、自分は王太子の選択を理解しなければと思った。


 怒る権利があるなど、考えもしなかった。


「でも、私にも至らないところはあったと思います」


「それと怒りは別だ」


「殿下も、苦しかったのかもしれません」


「それも怒りとは別だ」


「私がもっと柔らかく振る舞えていれば」


「それは君を傷つけてよい理由にはならない」


 ひとつずつ、逃げ道を塞がれていく。


 自分を責めるための道。

 相手を許さなければいけないと思う道。

 怒りをなかったことにする道。


 アルベルトは、それらを容赦なく閉じていく。


 ずるい。


 本当に、ずるい。


 リディアは唇を引き結んだ。


 そうしなければ、何かがこぼれそうだった。


「私は……」


 声が小さく震える。


「怒っていたのですね」


「ああ」


「ずっと?」


「おそらくな」


 リディアは目を伏せた。


 胸の奥の熱に、ようやく名前がついた。


 怒り。


 そうだ。


 自分は怒っていた。


 息が詰まると言われたことに。

 冷たい女のように扱われたことに。

 何年も隣で支えたものを、当然のように見過ごされたことに。

 捨てられたあとになって、価値に気づかれたことに。


 そして何より。


 あの頃の自分が傷ついていたことに、誰も気づいてくれなかったことに。


「……遅いです」


 ぽつりと、言葉が落ちた。


 アルベルトは黙って聞いている。


「今さら謝られても、遅いです。見ていなかったと言われても、そんなこと……私はずっと、見てほしかったのに」


 声が震えた。


 けれど、止めなかった。


「息が詰まると言われた夜、私は……私は、それでも礼をしました。殿下を困らせないように。侯爵家に迷惑をかけないように。王宮でみっともなくならないように」


 胸の奥が熱い。


 痛い。


 でも、言葉が出る。


「あの場で怒ればよかったのに。ひどいと、悲しいと、言えばよかったのに。私は何も言えませんでした。ただ、受け入れました。物わかりのいい女のように」


 その言葉を口にした瞬間、リディアの目の奥が熱くなった。


 涙が出るかもしれないと思った。


 けれど、涙より先に怒りがあった。


「あの頃の私が、可哀想です」


 初めて、そう言えた。


 自分で自分を、可哀想だと思えた。


 それは哀れむことではなく、ようやく味方になれたような感覚だった。


 アルベルトは、静かにリディアを見ていた。


 その目には、同情の押しつけはない。

 ただ、彼女の怒りを、そのまま置いておく場所を作ってくれている。


「怒っていい」


 彼はもう一度言った。


「君が今さらだと思うなら、今さらだ。遅いと思うなら、遅い。それを相手の後悔に合わせて薄める必要はない」


 リディアは、ゆっくり息を吸った。


 喉が痛い。


 泣いたわけでもないのに、泣いた後のような疲れがあった。


「旦那様は……」


 彼女は顔を上げた。


「怒ってくださったのですか」


 アルベルトの表情が、わずかに動いた。


 ほんの少しだけ。


 普段なら見逃したかもしれない。

 けれど今は、わかった。


 彼は何かを隠そうとした。


「君が怒れない分まで、私は怒っていた」


 低い声だった。


 リディアの胸が、大きく揺れた。


 何も言えなくなる。


 アルベルトは視線を逸らさない。


「君が初めてこの屋敷へ来た日からだ。何に怯えているのか、何に謝っているのか、何を飲み込んできたのか。すべてはわからなくても、理不尽に削られてきたことは見えた」


 リディアは息を止めた。


「そのたびに、腹が立った」


 アルベルトの声は静かだった。


 静かなのに、底に熱がある。


「君が食べられないことを自分のせいにしたときも、褒められて謝ったときも、眠れない夜に一人で我慢しようとしたときも。君をそういう形にしたもの全部に、腹が立った」


 そんなふうに思われていたなんて、知らなかった。


 リディアはカップを机に置いた。


 手が少し震えていた。


 怒ってくれた。


 自分が怒れなかった分まで。


 それは、甘い愛の言葉ではない。

 綺麗な慰めでもない。


 けれど、リディアの胸には、どんな甘い言葉より深く刺さった。


「……そんなことを言われたら」


 声が小さくなる。


「どうしていいか、わからなくなります」


「わからなくていい」


 即答だった。


「今すぐ処理する必要はない」


「旦那様は、いつもそうです」


「何がだ」


「私が混乱すると、混乱していいようにしてくださる」


 そう言うと、アルベルトは少しだけ黙った。


「混乱するのは当然だ」


「また、当然ですか」


「ああ」


 リディアは、今度こそ少しだけ笑った。


 笑いながら、目元が熱い。


 泣きたいのか、笑いたいのか、自分でもわからない。


 でも、怒っている。

 傷ついている。

 少し救われてもいる。


 その全部が同時にあっていいのだと、今は思えた。


「殿下を、憎んではいません」


 リディアは静かに言った。


「でも、怒っています」


「それでいい」


「謝罪は受け取りました。でも、まだ怒っています」


「それでいい」


「……いつか、この怒りは消えるのでしょうか」


 アルベルトは少し考えた。


「消す必要がなくなったとき、形が変わる」


「形が」


「ああ。仕事になるかもしれない。線になるかもしれない。誰かに同じ思いをさせないための判断になるかもしれない」


 リディアは、その言葉をゆっくり受け止めた。


 怒りが、仕事になる。


 それは少し怖い考えだった。

 でも、わかる気もした。


 北区の火を消さないこと。

 東区の橋を渡れるようにすること。

 支援家の名誉を現場に持ち込ませないこと。


 その根底には、もしかすると怒りもあったのかもしれない。


 人を役割でしか見ないことへの怒り。

 善意の名で誰かを見世物にすることへの怒り。

 困っている人の声を、帳簿の外へ追いやることへの怒り。


 それは悪いものではないのかもしれない。


「私は、怒り方を知りません」


「少しずつ覚えればいい」


「怒り方も、覚えるものなのですか」


「君の場合はな」


 あまりにも真顔で言われ、リディアはまた小さく笑った。


「では、旦那様が教えてくださいますか」


 言ってから、少し大胆だったかもしれないと思った。


 アルベルトはしばらく黙った。


 そして、低く答える。


「必要なら」


 その返事が真面目すぎて、リディアは胸が温かくなった。


「でも、旦那様の怒り方は少し怖そうです」


「否定はしない」


「否定してください」


「嘘はよくない」


 今度は、笑いが自然にこぼれた。


 温室の空気が、少しだけ軽くなる。


 けれど、胸の奥の熱は完全に消えたわけではない。


 怒りはまだある。


 でも、もう得体の知れないものではなかった。


 名前がついた。

 置いていい場所ができた。


 それだけで、少し息がしやすくなった。


「旦那様」


「何だ」


「今日は、少しだけ……怒っているままでいたいです」


 アルベルトは頷いた。


「そうしろ」


「休まなくても?」


「怒ったまま休め」


 その言い方が少し可笑しくて、リディアはまた笑ってしまった。


「難しそうです」


「やってみればいい」


「はい」


 リディアはカップを手に取った。


 茶は少しぬるくなっていた。

 けれど、今の自分にはそれでちょうどよかった。


 ブルースターが静かに揺れている。


 王宮での謝罪。

 馬車の中の震え。

 そして今、初めて知った怒り。


 どれも今日一日の中にある。


 リディアはゆっくり茶を飲み、胸の奥にある熱を消そうとはしなかった。


 それは、自分が傷ついたことを忘れないための火だった。


 いつか形が変わるとしても、今はまだここにあっていい。


 そう思えた。


 アルベルトは、何も言わずにそばにいた。


 ただ、怒っている彼女を、そのままにしてくれた。


 それが、今夜のリディアには何よりありがたかった。

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