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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第61話 帰りの馬車で、私は震えていたことを知られていた

 馬車の扉が閉まった瞬間、王宮のざわめきが遠くなった。


 厚い扉と窓硝子一枚を隔てただけなのに、廊下の足音も、従者たちの声も、磨かれた床を滑る衣擦れの音も、急に別世界のものになる。


 リディアは座席に腰を下ろし、膝の上で両手を重ねた。


 王宮から出た。


 王妃の前で報告をした。

 王太子と話した。

 謝罪を受け取り、けれど戻らないと告げた。


 それだけのことを、つい先ほど自分がしたのだと思うと、どこか現実味が薄かった。


 馬車がゆっくり動き出す。

 車輪が石畳を踏む小さな振動が、足元から伝わってきた。


 リディアは窓の外へ目を向けた。


 王宮の白い壁が、少しずつ後ろへ流れていく。高い門。槍を持った衛兵。冬の光に淡く霞む庭園。かつて、あそこは自分の未来が決まる場所だと思っていた。


 王太子の隣に立つこと。

 王妃に認められること。

 侯爵家の期待に応えること。


 それが、自分の人生の行き先だと思っていた。


 けれど今、その門の外へ出ている。


 戻れと言われても、もう戻らない。


 その事実に、胸の奥が静かに痛んだ。


 未練ではない。

 たぶん、喪失でもない。


 ただ、長く自分を形づくっていたものに別れを告げたあとの、鈍い痛みだった。


「手」


 向かい側から、アルベルトの声がした。


 リディアははっとして顔を上げる。


「手?」


「震えている」


 言われて、初めて気づいた。


 膝の上で重ねた指先が、細かく揺れている。自分では落ち着いていたつもりだった。王太子の前でも声は震えなかった。礼も乱れなかった。歩き方も、たぶんおかしくなかったはずだ。


 けれど、馬車の中へ戻った途端、体のほうが正直に反応していた。


「……本当ですね」


 リディアは小さく笑おうとした。


 うまく笑えなかった。


 アルベルトは何も言わず、座席の横に畳まれていた膝掛けを取った。厚手の柔らかな布だ。彼はそれをリディアへ差し出す。


「使え」


「大丈夫です」


 言いかけて、リディアは途中で止まった。


 大丈夫。


 その言葉は便利だ。

 言えば、それ以上聞かれにくくなる。

 自分でも本当に大丈夫な気がしてくる。


 でも今日は、違う気がした。


 リディアは小さく息を吸い直し、差し出された膝掛けを受け取った。


「……ありがとうございます」


 膝の上に広げると、手の震えが布の下に隠れた。けれど隠れたからといって、震えがなくなったわけではない。


 それでも、少しだけ安心した。


 アルベルトは、その様子をじっと見すぎない。

 見ているのに、見張らない。


 その距離が、今はありがたかった。


「よく言った、とは言わない」


 しばらくして、彼が低く言った。


 リディアは膝掛けの端を握ったまま、顔を上げる。


「なぜですか」


「君が言うべきことを言っただけだ」


 前にも聞いた言い方だった。


「褒めるより、まず休ませるべきだろう」


 胸の奥が、少しだけ詰まる。


 普通なら、褒める場面なのかもしれない。

 勇気があった、よく耐えた、立派だった。


 そう言われれば、リディアはきっと礼を言っただろう。

 そして少し困っただろう。


 けれどアルベルトは、真っ先に休ませると言う。


 言葉より先に、体が震えていることを見る。

 心の整理より先に、膝掛けを差し出す。


 この人はいつもそうだ。


 優しさより先に、安心を置く。


「……私は、ちゃんと言えていたでしょうか」


 リディアはぽつりと尋ねた。


 アルベルトはすぐには答えなかった。


 ほんの短い沈黙。

 けれどその沈黙は、言葉を選ぶためのものだった。


「言えていた」


 短い返答。


 リディアは、少しだけ目を伏せた。


「途中で、何を言っているのかわからなくなりそうでした」


「そうは見えなかった」


「見えなかっただけです」


「なら、見せずに言えたということだ」


 その返しに、リディアは困ったように息を漏らした。


「旦那様は、そういうふうにおっしゃるのですね」


「他にどう言えばいい」


「もっと……優しく慰めるとか」


「必要か」


 真顔で尋ねられて、リディアは少し考えた。


 必要か。


 優しく慰められたい気持ちが、ないわけではない。

 けれど今、たぶん自分が必要としているのは、甘い言葉ではなかった。


 王太子の謝罪を受け取ったこと。

 戻らないと告げたこと。

 それでよかったのだと、事実として支えてくれる言葉だった。


「……今は、これでいいです」


「ならいい」


 アルベルトは短く頷く。


 その淡々としたやり取りだけで、少し呼吸が戻った。


 馬車は王宮の外郭を抜け、王都の通りへ入る。窓の外には、店先の看板や行き交う人々が流れていく。遠くで馬の嘶きがした。誰かが薪を荷車に積んでいる。子どもが母親の手を引いて、菓子屋の前で立ち止まっている。


 王宮の中では大きく思えたことも、外へ出れば王都の生活の一部に紛れていく。


 それが少し不思議だった。


 自分が過去に線を引いても、街は動いている。

 北区の火は今夜も守られなければならない。

 東区の橋には、これから渡り灯を置かなければならない。


 過去だけに立ち止まってはいられない。


 そう思った瞬間、リディアの手がまた小さく震えた。


「怖かったか」


 アルベルトが尋ねた。


 今度は、すぐには答えられなかった。


 怖かった。


 その言葉を認めるのに、まだ少し時間がいる。


 王太子に会うことが怖かったのか。

 過去を口にすることが怖かったのか。

 謝罪を受け取ってしまうことで、自分の中の何かが揺らぐのが怖かったのか。


 どれも少しずつ合っている。


 リディアは膝掛けの布を指で押さえながら、ゆっくり口を開いた。


「……少し、怖かったです」


 声にした瞬間、胸の奥の硬いものがわずかにほどけた。


 怖かった、と言っても、何も崩れない。

 責められない。

 弱いと笑われない。


 ただ、それが事実としてそこに置かれる。


 アルベルトは、やはり大げさに慰めなかった。


「だろうな」


 それだけだった。


 けれど、その一言が今は何よりありがたかった。


 怖いのは当然だ。

 震えるのも当然だ。

 そう言われている気がした。


「殿下は……後悔していらっしゃいました」


「ああ」


「謝ってくださいました」


「ああ」


「私は、それを受け取りました」


「ああ」


「でも、苦しくなりました」


 言葉が少しずつ出てくる。


 自分でも整理しきれていないものが、馬車の揺れに合わせてこぼれていく。


「謝られて、少しだけ楽になるのかと思っていました。でも、楽になるだけではありませんでした。あのとき苦しかったことが、本当にあったことなのだと、改めてわかってしまって」


 リディアは窓の外へ目を向けた。


 街並みが滲むほどではない。

 涙は出ていない。


 でも、目の奥が少し熱かった。


「殿下が謝ってくださったことで、私はあの頃の自分が傷ついていたのだと認めなければならなくなった気がします」


 ずっと、そうしないようにしていた。


 傷ついていないふりをした。

 仕方のないことだと思った。

 自分にも至らないところがあったのだと考えた。

 王太子の選択を理解できない自分が未熟なのだと。


 でも、謝罪はその言い訳を剥がした。


 彼が謝ったということは、傷つけられたことは確かにあったのだ。


 それを認めるのは、思っていたより痛かった。


「謝罪は、傷をなかったことにはしない」


 アルベルトが言った。


 リディアは頷いた。


「はい」


「むしろ、傷の形をはっきりさせることがある」


「……そうですね」


「だが、それは悪いことだけではない」


 リディアは彼を見る。


 アルベルトはまっすぐこちらを見ていた。


「形がわかれば、君が自分を責めずに済む」


 その言葉が、胸の奥へゆっくり落ちた。


 自分を責めずに済む。


 王太子に愛されなかった自分。

 息が詰まると言われた自分。

 正しすぎて可愛げがないと思われた自分。


 そうやって自分を責め続けていた場所へ、アルベルトの言葉が静かに入ってくる。


 傷ついたのは、リディアが悪かったからではない。

 傷つけられたからだ。


 そんな当たり前のことを、彼は何度でも言葉にしてくれる。


「旦那様は、ずるいです」


 思わず、そんな言葉が出た。


 アルベルトの眉がわずかに動く。


「ずるい?」


「はい」


「何がだ」


「私が自分を責めようとすると、先に道を塞いでしまわれるところです」


 言いながら、少しだけ笑ってしまった。


 アルベルトは一瞬、何とも言えない顔をした。


「それは、ずるいのか」


「少し」


「なら、必要なずるさだ」


 真面目に返されて、リディアは今度こそ小さく笑った。


 馬車の中の空気が、ほんの少しだけ軽くなる。


 指先の震えは、まだ完全には止まっていない。

 けれど、最初よりは小さくなっていた。


 リディアは膝掛けを少し引き寄せる。


「殿下に、グランディス卿は私を大事にしているのだな、と言われました」


 言ってから、頬が少し熱くなる。


 アルベルトの表情が、ほんのわずかに固まった。


「そうか」


「私は、はい、と答えました」


「……そうか」


 同じ返事なのに、二度目は少しだけ低かった。


 リディアは膝掛けの上で指を重ね直す。


「間違っていませんよね」


 聞いてしまってから、自分で何を確認しているのだろうと思った。


 アルベルトが自分を大事にしてくれているかどうか。

 それを本人に尋ねるのは、少し奇妙だ。


 けれど、言ってしまった。


 アルベルトはしばらく何も言わなかった。


 馬車の車輪の音だけが続く。


 やがて、彼は静かに答えた。


「間違っていない」


 胸が、どくんと音を立てた気がした。


 彼は視線を逸らさない。


「少なくとも、私はそのつもりだ」


 そのつもり。


 なんて不器用な言い方だろう。


 愛しているでもなく、君が大切だでもなく。

 ただ、大事にしているつもりだ、と。


 けれど、その不器用さがひどく彼らしくて、リディアの胸を静かに揺らした。


「……ありがとうございます」


 リディアは小さく言った。


 今度は、礼を言う声が少し震えた。


 アルベルトは一瞬、何か言いかけたようだった。


 けれど結局、短く返しただけだった。


「ああ」


 その一音に、リディアはなぜか少し安心した。


 長い言葉はいらなかった。


 王宮で過去に線を引いたあと、隣にこの沈黙がある。

 それだけで十分だった。


 馬車は宰相家へ向かって進む。


 途中、北区へ続く道の方角が少しだけ見えた。まだ昼だが、あの場所では今夜のために薪が運ばれ、灯火守りの交代表が確認されているはずだ。


 東区では、職人が橋の滑り止めを見に行っているかもしれない。

 施療院長は、渡り灯の試験運用に向けて人員を数えているかもしれない。

 ミナは咳が少し楽になっただろうか。


 そう思うと、胸の痛みとは別の場所に、小さな芯が戻ってくる。


 やるべきことがある。


 それは逃げ道ではない。

 過去を忘れるための仕事でもない。


 今のリディアが、自分で選んだ現在だった。


「戻ったら休め」


 アルベルトが言った。


 リディアは少しだけ背を伸ばす。


「でも、東区の記録票の試作が」


「休め」


「……はい」


 即座に負けた。


 アルベルトは淡々と続ける。


「記録票はオスカーに任せればいい。君が今日やる必要はない」


「オスカーにまた負担を」


「彼は仕事を任されると喜ぶ。休ませると不安になる類だ」


 リディアは思わず目を瞬いた。


「旦那様、それはご自分にも言えるのでは」


 言った瞬間、馬車の中が一瞬静かになった。


 アルベルトが、明らかに言葉を失った。


 リディアは自分の発言に気づき、少し慌てる。


「すみません、少し出過ぎたことを」


「いや」


 アルベルトは遮った。


「……事実だ」


 その認め方があまりにも真面目で、リディアは口元を押さえそうになった。


「では、旦那様もお休みになってください」


「私の話ではない」


「でも、事実なのでしょう?」


「君は最近、私の言い方を覚えたな」


「旦那様の下におりますので」


 オスカーの言葉を借りるように返すと、アルベルトは今度こそ少しだけ困った顔をした。


 ほんの一瞬。

 けれど、リディアは見逃さなかった。


 その顔を見たら、王宮で張っていたものがさらに少し緩んだ。


 笑ってもいいのだと思った。


 怖かったあとでも。

 震えたあとでも。

 過去と向き合ったあとでも。


 リディアは小さく笑った。


 アルベルトは何も言わなかった。


 ただ、窓の外へ視線を向けた。


 けれど、その横顔は少しだけ柔らかかった。


 宰相家の門が見えてきた。


 リディアは膝掛けの下で、もう一度自分の手を見た。


 震えは、ほとんど止まっていた。


 完全に平気になったわけではない。

 王太子との会話は、まだ胸のどこかで痛い。

 今夜、思い出して眠れなくなるかもしれない。


 でも、もしそうなったら。


 言えばいい。


 眠れないと。

 怖かったと。

 少しだけ茶がほしいと。


 それを言ってもいい場所へ、自分は帰ってきたのだ。


 馬車が止まる。


 扉が開き、冷たい外気が流れ込んだ。


 アルベルトが先に降り、いつものように手を差し出す。


 リディアはその手を見た。


 以前なら、形式として取っていた手。


 今は、少し違う。


 彼女はその手に、自分の指を重ねた。


 しっかりと。


 アルベルトの手が、ほんのわずかに強く支え返す。


 何も言わない。


 けれどそれだけで、リディアは今日一日を越えられたのだと思った。

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