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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第60話 過去が謝っても、現在はもう席を空けていない

 王妃の私的会議室を出たあと、リディアはしばらく廊下の空気が冷たいことに気づかなかった。


 胸の奥に、まだ会議室の緊張が残っていたからだ。


 王妃の前で報告をした。

 北区の灯火所について説明し、東区の渡り灯について話し、王太子の前で、自分の考えを言葉にした。


 昔なら、それだけで膝から力が抜けていたかもしれない。


 けれど今は違う。


 疲れてはいる。肩も少し重い。喉も乾いている。

 それでも、足はちゃんと前へ進んでいた。


 隣にはアルベルトがいる。


 彼は何も言わず、リディアの歩調に合わせていた。王宮の廊下を歩くときでさえ、この人は急がない。いや、本当は急げる人なのだろう。けれど今は、リディアが無理なく歩ける速さを選んでいる。


 そういうところに気づくたび、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。


「馬車へ戻る前に、水を飲むか」


 アルベルトが尋ねた。


「大丈夫です」


「大丈夫ではないときの声だ」


 即座に返され、リディアは思わず小さく息を漏らした。


「……では、少しだけ」


「そうしろ」


 その言い方はいつも通りだった。


 甘くはない。

 けれど、こちらが倒れる前に立ち止まらせてくれる。


 廊下の角を曲がったところに、王宮付きの従者が控えていた。アルベルトが目で合図すると、すぐに水が用意される。リディアは杯を受け取り、ゆっくりと口をつけた。


 冷たすぎない水だった。


 それだけで、少し喉がほどける。


「ありがとうございます」


 従者へ返してから、リディアはアルベルトへも小さく礼を言った。


 アルベルトは短く頷くだけだった。


 そのまま二人は、馬車寄せへ向かうため歩き出す。


 王宮の廊下は長い。


 白い石の壁。高い窓。壁際に置かれた彫刻。磨かれた床に映る冬の光。

 かつて何度も歩いた場所のはずなのに、今日は少し違って見えた。


 昔のリディアは、この廊下を“正しく歩く”ことばかり考えていた。歩幅、姿勢、視線の高さ、誰とすれ違うか。王太子妃候補として見苦しくないように、常に気を張っていた。


 今日は、同じ廊下を仕事を終えた人間として歩いている。


 それだけの違いなのに、足元の硬さが少しだけ別物に感じられた。


「リディア」


 背後から声がした。


 足が止まった。


 声の主を間違えるはずがなかった。


 王太子エドワード。


 昔なら、その声に呼ばれただけで、反射的に姿勢を正していた。胸の奥に緊張が走り、何を求められるのか考えた。


 今も、まったく何も感じないわけではない。


 指先が少し冷えた。

 喉の奥がわずかに狭くなった。


 けれど、もう以前のようにはならなかった。


 リディアが振り返るより先に、アルベルトがわずかに足を止めた。


 彼はリディアを見ない。

 止めもしない。

 ただ、すぐそばにいる。


 その距離でわかる。


 話したくなければ、そのまま行ける。

 話すなら、ここにいる。


 リディアはゆっくり振り返った。


 エドワードは数歩離れた場所に立っていた。


 会議のときより少し表情が硬い。王太子としての整った顔ではあるが、その下に迷いが見えた。こんな顔を、昔のリディアは見たことがなかった気がする。


 いや、見ようとしていなかったのかもしれない。


「殿下」


 リディアは礼を取った。


 深すぎず、浅すぎず。

 宰相夫人として、王太子へ向ける礼。


 以前の婚約者としてではない。


 その事実に、エドワードも気づいたようだった。彼の目がわずかに揺れる。


「少し、話せないか」


 リディアはすぐには答えなかった。


 昔なら、断るという選択肢を思いもしなかった。

 王太子が話したいと言えば、従う。

 自分の都合や気持ちなど、後回しにするのが当然だった。


 けれど今は違う。


 彼女は自分の胸の奥へ、そっと問いかけた。


 話せるだろうか。

 話したいだろうか。

 怖いだろうか。


 怖さはある。


 でも、逃げたいだけではない。

 自分の中でまだ残っているものに、一度ちゃんと形を与えたい気もしていた。


 リディアはアルベルトを見た。


 彼は静かにこちらを見返すだけだった。


「私は少し先にいる」


 そう言って、彼は廊下の窓辺まで数歩移動した。


 近すぎない。

 遠すぎない。


 声の細部までは聞こえないかもしれないが、何かあればすぐ戻れる距離。


 それが、今のリディアにはありがたかった。


「少しでしたら」


 リディアはエドワードへ向き直った。


 その返事に、エドワードは息を吐いたようだった。


 王宮の廊下には、従者たちの気配もある。完全な密談にはならない。だからこそ、かえってよかった。二人きりの密室で話す必要など、もうない。


「今日の報告は……見事だった」


 エドワードは、まずそう言った。


 リディアは静かに頭を下げる。


「ありがとうございます」


 昔なら、その言葉をどれほど欲しがっただろう。


 王太子に認められること。

 王太子に褒められること。

 王太子に、必要だと思われること。


 それが自分の価値だと、どこかで信じていた。


 けれど今、その言葉は思ったほど胸を揺らさなかった。


 嬉しくないわけではない。

 ただ、以前のようにそれだけで自分が満たされることはなかった。


 エドワードは、それにも気づいたのかもしれない。唇を少し引き結んだ。


「君は、変わった」


 リディアは答えに迷った。


「そう見えますか」


「ああ」


 エドワードは苦い笑みを浮かべかけ、すぐに消した。


「いや……変わったというより、私が見ていなかっただけなのかもしれない」


 その言葉に、リディアの指先が少し動いた。


 見ていなかった。


 王妃も、先ほど同じようなことを言っていた。


 エドワード自身の口から聞くと、また違う痛みがあった。


「今日、母上にも言われた。私は君を見ていなかったと」


 エドワードは視線を落とした。


「以前の私は、君の正しさに息が詰まると思っていた。君が何を言っても、それを責められているように感じていた。君が先回りして整えたものを、当然だと思って受け取っていた」


 リディアは黙って聞いていた。


 廊下の向こうで、誰かの足音が遠く過ぎていく。

 冬の光が窓から差し込み、エドワードの横顔を白く照らした。


「北区の報告も、東区の渡り灯も……君らしいと思った。細かくて、現実的で、人が見落とすところを拾っている。そんな君を、私はずっと隣に置いていたのに」


 彼の声が、少し掠れた。


「私は、その価値に気づかなかった」


 価値。


 その言葉が出た瞬間、リディアの胸の奥に、冷たいものが静かに沈んだ。


 価値。


 父も、そうだった。

 王宮も、そうだった。

 王太子妃候補としての価値。

 侯爵家の娘としての価値。

 宰相夫人として利用できる価値。


 彼は謝ろうとしているのだろう。

 後悔しているのだろう。

 それは伝わる。


 けれど、まだ少し違う。


「殿下」


 リディアは静かに口を開いた。


 エドワードが顔を上げる。


「私の価値に気づかなかったことが、私を傷つけたのではありません」


 その言葉に、彼の表情が止まった。


「……では、何が」


「人として見られなかったことです」


 廊下の空気が、少し静かになった気がした。


 リディアは続けた。


「役に立つかどうか。妃候補として相応しいかどうか。隣に置いて息苦しくないかどうか。そういうことで測られていたことが、苦しかったのです」


 言いながら、胸の奥がじわりと痛んだ。


 昔の自分がいる。


 王宮の茶会で、言葉を飲み込んだ自分。

 エドワードの隣で笑おうとして失敗した自分。

 息が詰まると言われ、表情を崩さず礼をした自分。


 そのすべてが、ここに立っているリディアの中にまだいる。


「私が仕事で役立つかどうかではなく、傷つく人間だと見てほしかったのだと思います」


 エドワードは何も言えなかった。


 その沈黙を、リディアは責めなかった。


 言われてすぐに返せる言葉ではないだろう。

 彼も、今ようやく何かに触れているのかもしれない。


 けれど、それをリディアが慰める必要はもうなかった。


「私は……」


 エドワードは、ようやく声を出した。


「君に、ひどいことを言った」


 リディアは何も答えない。


「息が詰まる、と。君の前では、自分が責められているようだと。君が何を思っていたのか、考えもしなかった」


 彼の顔には、王太子としての整った仮面が少し剥がれていた。


 そこにあるのは、後悔している一人の男の顔だった。


「すまなかった」


 短い謝罪だった。


 飾りはなかった。


 リディアは、その言葉を胸の中へ落とした。


 不思議なことに、涙は出なかった。

 怒りも、思ったほど強くは湧かなかった。


 ただ、遠くで閉じていた扉が、ようやくきちんと閉まる音を聞いたような気がした。


「謝罪は受け取ります」


 リディアは言った。


 エドワードの目がわずかに揺れる。


「ですが、それで過去が変わるわけではありません」


「ああ」


「そして、私はもう、殿下の隣に戻るために努力しているわけではありません」


 言葉にした瞬間、リディア自身の胸にも小さな痛みが走った。


 それは、未練ではない。


 かつての自分への別れの痛みだった。


 王太子の隣で認められようとしていた自分。

 父に誇らしいと言われることを求めていた自分。

 正しくあれば、いつか誰かに見てもらえると信じていた自分。


 その子を、ここで静かに過去へ置いていく痛みだった。


「今の私は、北区の火を消さないことと、東区の橋を渡れるようにすることで手いっぱいです」


 リディアは少しだけ口元を和らげた。


「王太子妃候補ではなく、宰相夫人として。いえ、それ以前に、一人の人間として」


 エドワードは、何か言いかけた。


 だが、言葉にならなかった。


 その視線が、リディアの後ろへわずかに動く。


 窓辺に立つアルベルトの姿が、そこにある。


 アルベルトは一切こちらへ口を挟まない。

 ただ、そこにいる。


 それだけで、リディアは立っていられた。


 エドワードもそれを見て、何かを理解したようだった。


「グランディス卿は……君を大事にしているのだな」


 それは問いではなかった。


 リディアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


 けれど、目を逸らさなかった。


「はい」


 短く答えた。


 その一言を口にするのは、思ったより勇気が要った。


 だが、嘘ではない。


 アルベルトは、リディアを大事にしてくれている。

 壊れ物としてではなく、飾りとしてでもなく、仕事をする人として、疲れる人として、怒っていい人として。


 その事実を、もう隠す必要はなかった。


 エドワードは、小さく息を吐いた。


「そうか」


 それだけだった。


 その声に含まれていたものを、リディアは細かく拾わないことにした。


 後悔かもしれない。

 安堵かもしれない。

 嫉妬かもしれない。


 けれど、それはもうリディアが抱えるべきものではない。


「殿下」


 リディアは改めて礼を取った。


「私は、これで失礼いたします」


「ああ」


 エドワードは頷いた。


 だが、リディアが歩き出す前に、最後に言った。


「リディア」


 彼女は足を止めた。


「君が……今、息をしているように見えた」


 リディアは振り返らなかった。


 ただ、少しだけ目を伏せる。


「そう見えるなら、よかったです」


 それだけ答え、彼女は歩き出した。


 アルベルトが静かに並ぶ。


 しばらく二人とも何も言わなかった。


 廊下を曲がり、エドワードの姿が完全に見えなくなったところで、リディアはようやく息を吐いた。


 深く。

 思っていたよりも長く。


「震えている」


 アルベルトが低く言った。


 リディアは自分の手を見た。


 本当だった。


 指先が少し震えている。


「……自分では、もう少し平気だと思っていました」


「平気である必要はない」


 彼はすぐに言った。


「話せたことと、傷つかないことは別だ」


 リディアは目を閉じそうになった。


 そういう言葉を、この人はいつも迷わずくれる。


「殿下は、謝ってくださいました」


「ああ」


「私は、受け取りました」


「ああ」


「でも……戻りたいとは、思いませんでした」


「それでいい」


 あまりにも短い肯定。


 けれど、それが今のリディアには必要だった。


「冷たくありませんか」


 ぽつりと尋ねてしまう。


 アルベルトは少しだけ眉を寄せた。


「誰に対してだ」


「殿下に対して。あの方も、後悔していらっしゃるのに」


「後悔している相手に戻る義務はない」


 きっぱりとした返答だった。


「謝罪は、相手を過去へ連れ戻す権利ではない」


 その言葉に、リディアは胸の奥がすっと冷静になるのを感じた。


 謝られた。

 受け取った。

 けれど戻らない。


 それでいいのだ。


「……はい」


 リディアは小さく頷いた。


 アルベルトは、そこで少しだけ声を落とした。


「よく言った、とは言わない」


 リディアは顔を上げる。


「なぜですか」


「君が言うべきことを言っただけだ。褒めるより、まず休ませるべきだろう」


 少し前にも、似たようなことを言われた気がする。


 リディアは思わず、ほんの少し笑った。


「旦那様は、本当に……」


「何だ」


「いえ。やはり、安心が先なのですね」


 アルベルトは一瞬だけ黙った。


「安心しているのか」


「今は、少し」


 そう答えると、彼は視線を外した。


「ならいい」


 短い言葉。


 けれどその横顔が、ほんの少しだけ柔らかく見えた。


 馬車寄せへ向かう廊下の先には、冬の光が差していた。


 過去は謝った。


 けれど、現在はもう席を空けてはいない。


 リディアはそのことを、痛みとともに、確かに受け止めていた。

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