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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第53話 川霧の橋で、少女は灯りではなく手を探していた

 東区施療院から戻ったあとも、リディアの手には、川沿いの湿り気が残っている気がした。


 実際には、宰相家へ帰るころには手も外套も乾いていた。エマが用意してくれた温かな茶を飲み、靴も履き替え、冷えた足先も少しずつ戻ってきていた。


 それでも、あの橋の上に立ったときの感覚だけは、なかなか消えなかった。


 濡れて黒く光る板。

 低い手すり。

 川から上がる白い霧。

 そして、母親の手を握りしめていた女の子の顔。


 ――途中がこわい。


 その一言が、リディアの胸の中で何度も反響していた。


 小さな子どもの言葉だ。

 だが、ただの感想ではなかった。


 北区で灯火所を作ったとき、リディアは「行く場所があること」の意味を知った。寒さの中で、火のある場所へ辿り着けること。そこで名を問われすぎず、少しだけ腰を下ろせること。それが人をどれほど救うのかを知った。


 けれど東区では、行く場所があっても辿り着けない人がいる。


 施療院はある。薬もある。看護人もいる。

 けれど、橋の途中が怖い。


 それだけで、人は助けから遠ざかる。


 作業室の机の上には、東区の地図と、今日書いたばかりの調査メモが広げられていた。オスカーはリディアの指示をもとに、橋の位置、施療院、住宅の密集地、夜間に通る可能性のある道を線で結んでいる。


「この橋が、今日渡ったところですね」


 オスカーが細いペン先で地図を示す。


「施療院に一番近い。ですが、この周辺に小さな橋が三つあります。どれも生活橋で、公式な通行記録はほぼなし。修繕履歴も古いです」


「大きな橋へ回ると?」


「遠回りになります。大人ならまだしも、子ども連れや老人には厳しいかと。夜ならなおさらです」


「そう……」


 リディアは地図を見つめた。


 川は、紙の上ではただ一本の線にすぎない。

 だが実際には、人と施療院を隔てている。


 線を引けば近く見える場所も、霧が出れば遠くなる。

 橋が濡れれば怖くなる。

 誰も待っていなければ、引き返してしまう。


 地図には、その怖さが載っていない。


「今日の母子について、少し詳しく聞けましたか」


 リディアが尋ねると、オスカーは別の小さな紙を取り出した。


「院長から最低限ですが。母親はマリ。川向こうの洗濯場で働いています。娘はミナ、六歳。父親は二年前に荷崩れの事故で亡くなっています」


 リディアは目を伏せた。


 六歳。


 あの子は六歳で、夜の橋を怖がっていた。


 それは当たり前だ。

 怖がらないほうがおかしい。


「昨夜も咳が出ていたそうですが、夜は来られなかったと」


「ええ。昼まで待ったそうです。ただ、熱が上がってきたので、今日になって橋を渡ろうと」


「夜に来ていれば、もっと早く薬を飲めたかもしれない」


「はい」


 短い返事のあと、オスカーは少しだけ顔を曇らせた。


「ですが、あの橋では……私でも夜に渡るのはあまり気が進みません」


 リディアはゆっくり頷く。


「正直ね」


「申し訳ありません」


「いいえ。正直でいて。現場をよく見せようとしないで」


 そう言うと、オスカーは少し驚いたように目を上げ、それから真面目に頷いた。


「承知しました」


 沈黙が落ちる。


 部屋の外では、エマが新しい茶を用意している気配がした。廊下を歩く足音は静かで、宰相家の空気は今日も整っている。東区の湿った路地や、古い橋の軋みとはまるで違う。


 その違いが、リディアには少し苦しく感じられた。


 ここには温かい茶がある。

 濡れていない床がある。

 暗い橋を渡らなくても医師を呼べる立場がある。


 けれど、それを後ろめたく思うだけでは何も変わらない。


 後ろめたさは、仕事にしなければならない。


「ミナは、灯りが怖いとは言っていませんでした」


 リディアはぽつりと言った。


 オスカーが顔を上げる。


「はい」


「橋の途中が怖いと言ったのです。つまり、入口に灯りを置くだけでは不十分です」


「橋の中ほどにも灯りを置きますか?」


「置けるなら必要でしょう。でも、それだけでは……」


 リディアは言葉を探した。


 火。灯り。橋。手すり。滑り止め。

 どれも必要だ。


 だが、ミナのあの目が求めていたものは、それだけではなかった気がする。


「灯りは、物です。でもあの子が探していたのは、たぶん人でした」


「人、ですか」


「ええ。橋の向こうに誰かがいること。途中で止まっても声をかけてくれること。渡り切ったら、大丈夫だと言ってくれること」


 言いながら、リディアは自分自身の言葉に少し胸を突かれた。


 自分も、そうだったのかもしれない。


 侯爵家から宰相家へ嫁いだあの日。

 冷たい屋敷へ向かう馬車の中で、これから自分がどこへ連れていかれるのか、何をされるのか、何もわからなかった。


 あのとき彼女が一番恐れていたのは、冷たい屋敷そのものではなかったのかもしれない。


 その先で、誰も待っていないことだった。


 けれど実際には、あの屋敷にはアルベルトがいて、無理に笑う必要はないと言った。

 食べられないなら食べやすくすればいいと言った。

 眠れない夜には、扉越しに茶を置いた。


 灯りだけではない。

 声と、待つ人があった。


 だから、少しずつ渡ってこられたのかもしれない。


 人生の橋を、などと大げさに言うつもりはない。

 けれど、今のリディアにはわかる。


 人は、灯りだけでは進めない夜がある。


 そこへ、扉が叩かれた。


「入るぞ」


 アルベルトの声だった。


「はい」


 扉が開き、アルベルトが入ってくる。手には数枚の書類。おそらく王宮から戻ったばかりなのだろう、外套の名残のような冷えを少しまとっていた。


 彼は机の上の地図を一瞥し、すぐに状況を把握したようだった。


「東区の橋か」


「はい。今日の母子について、院長から追加で聞きました」


「六歳の子か」


 リディアは少し驚いた。


「旦那様も覚えていらしたのですか」


「覚えている」


 当然のような返事だった。


 リディアは何も言えなくなる。


 アルベルトは、こういうところで決して軽く見ない。

 子どもの名前も、橋の板の濡れ方も、施療院長の表情も、必要だと思えばきっと覚えている。


「何かわかったか」


 彼は空いている椅子へ腰を下ろす。


 リディアは地図を指差した。


「東区に必要なのは、北区のような火のある建物ではなく、橋を渡るための仕組みだと思います」


「橋番か」


「はい。ただ、見張るだけではなく、待つ人です」


 アルベルトの視線が、少しだけ深くなる。


「待つ人」


「橋のこちらと向こうに立ち、霧の夜に声をかける人。必要なら施療院まで付き添う人。来た人だけでなく、引き返した人も記録する人」


 リディアは紙に書いた案を彼へ向けた。


「灯りは置きます。でも主役は灯りではありません。橋を渡る人の不安を減らすことです」


 アルベルトは黙って紙を見る。


 その沈黙のあいだ、オスカーが少し緊張した顔で待っていた。


 やがてアルベルトは短く言った。


「悪くない」


 オスカーの肩から少し力が抜ける。


 リディアも、知らずに息を吐いていた。


「ですが、まだ名前がありません」


「名前が必要か」


「必要です。北区の“冬の灯火所”という名は、何をする場所かすぐわかりました。東区にも、現場の人が呼びやすい名前が必要です」


「橋番所」


「それだと、少し固いです」


 リディアが即答すると、オスカーが小さく咳払いをした。笑いをこらえたのだとわかった。


 アルベルトはわずかに眉を上げる。


「固いか」


「はい。橋を見張られている感じがします」


「では、君なら何と呼ぶ」


 問われ、リディアは手元の紙へ視線を落とした。


 灯火所ではない。

 橋番でもない。

 施療所でもない。


 渡るための灯り。

 渡る人を待つ灯り。


「……渡り灯」


 小さく呟く。


 オスカーが手を止めた。


「渡り灯」


 リディアはもう一度、今度は少しはっきりと言った。


「橋を渡るための灯りです。火そのものではなく、渡る人を導くもの。東区なら、そのほうが合う気がします」


 アルベルトはしばらくその言葉を黙って聞いていた。


 やがて、短く頷く。


「いい名だ」


 その言葉に、リディアの胸が小さく震えた。


 褒められた。


 仕事の案を。

 名前を。


 以前なら、すぐ「思いつきですので」と引っ込めたかもしれない。

 でも今は、少しだけ受け取れた。


「ありがとうございます」


 リディアが言うと、アルベルトの視線が一瞬だけ彼女に止まった。


 謝らなかったことに気づいたのだろう。

 だが彼は何も言わない。

 ただ、ほんの少しだけ満足したように見えた。


「では、東区は渡り灯で案を組みましょう」


 オスカーが早速書き始める。


「橋の両側に灯り、霧の日と雨の日の巡回、付き添い人、雨除け小屋、滑り止め、手すり修繕、利用者記録、引き返した人数……」


「帰りも必要です」


 リディアが付け加える。


「帰り、ですか」


「ええ。施療院へ行けても、帰り道が怖ければ、次からまた来なくなります。治療後に一人で帰れない人もいるでしょう」


 オスカーのペンが止まる。


「なるほど。往路だけではなく、帰路確認」


「はい。とくに子どもと老人、怪我人は」


「入れます」


 オスカーはすぐに新しい項目を書き足した。


 アルベルトはそれを見て、低く言った。


「記録係を増やす必要があるな」


「現場の負担になりますか」


「なる。だが、記録がなければ次の予算が取れない」


 リディアは頷いた。


「では、最初から記録しやすい形にします。文章ではなく、印をつける欄を多くしましょう。橋を渡れた、途中で止まった、付き添いが必要だった、帰路確認済み……そういう形なら、夜でも書けるかもしれません」


「オスカー」


「はい、すぐ試作します」


 会話が速く進んでいく。


 けれどその速さは、焦りではなかった。


 東区の現場を見たうえで、必要な形へ線を引いている。北区の成功をただ写しているのではない。


 それが、リディアを少し安心させた。


 日が傾き始めるころ、施療院から追加の知らせが届いた。


 ミナの熱は高くなりすぎる前に薬を飲めたらしい。今夜は施療院ではなく、自宅で様子を見ることになった。橋を渡るときにはまだ怖がっていたが、院長が途中まで付き添い、母親と一緒に戻ったという。


 短い報告だった。


 けれどリディアは、その紙をしばらく手放せなかった。


「よかったですね」


 エマが静かに言った。


「ええ」


 リディアは小さく頷く。


「でも、今日たまたま私たちがいたから渡れたのだとしたら、それでは足りないわ」


「はい」


「私たちがいなくても渡れるようにしなければ」


 そう言った瞬間、自分の中で渡り灯の意味がさらに確かなものになった。


 誰か特別な人がいるから助かるのではなく、仕組みとして助かるようにする。

 リディアが見に行った日だけではなく、霧の夜が来るたびに誰かが待っているようにする。


 それが仕事なのだ。


 夜になって、リディアは一人で温室へ行った。


 ガラスの向こうには、外の暗さが映っている。温室の中は穏やかで、ブルースターの青紫がやわらかな灯りの下で静かに咲いていた。


 東区の橋とは、まるで違う場所だ。


 けれど、ここもまた自分にとっての渡り場だったのかもしれない。


 疲れたとき、気分が重いとき、ここへ来ていいと言われた。

 座りたければ座れ、見たければ見ろと言われた。

 その許可が、どれほど自分を助けていたか。


 リディアはベンチに座り、そっと息を吐いた。


「灯りではなく、手……」


 ミナは灯りを探していたのではない。


 橋の途中で怖くなったとき、握れるものを探していたのだ。


 手すりでもいい。母親の手でもいい。橋番の声でもいい。施療院の灯りでもいい。


 人は、一人では渡れない夜がある。


 その当たり前のことを、リディアは今日、川霧の橋で学んだ。


 扉が静かに開く音がした。


 振り向かなくても、誰かわかった。


「ここにいたか」


 アルベルトだった。


「はい」


 彼は近づきすぎない距離で立ち止まる。


「冷えないか」


「温室ですから」


「長くいれば冷える」


 その返しに、リディアは少しだけ笑った。


「では、少ししたら戻ります」


 アルベルトは頷き、彼女の隣ではなく、斜め前の椅子へ座った。


 相変わらず距離を急がない人だ。


 リディアは花を見たまま言った。


「ミナは、灯りより手を探していたのだと思います」


「そうか」


「橋の途中で怖くなったとき、進めと言われるのではなく、大丈夫だと声をかけてくれる人を」


 アルベルトは静かに聞いている。


「私も、そうだったのかもしれません」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 だが、もう言葉は止まらなかった。


「宰相家へ来たとき、私はたぶん……灯りではなく、誰かがいることを知りたかったのです」


 アルベルトは何も言わなかった。


 その沈黙が、リディアに続きを許す。


「旦那様は、いつも扉を開ける前に声をかけてくださいました。触れる前に許可をくださいました。眠れない夜も、扉越しに……」


 そこまで言って、少しだけ頬が熱くなる。


「そういうことが、橋の向こうで待っている人みたいだったのだと思います」


 自分でも、少しわかりにくい言い方だと思った。


 けれどアルベルトは、馬鹿にもしなければ、茶化しもしなかった。


 ただ、しばらく黙ったあと、低く言った。


「君は、渡ってきたのか」


 リディアはゆっくり顔を上げた。


 その問いは静かだった。

 だが、胸の奥に深く届いた。


「……まだ、途中かもしれません」


 正直に答える。


「でも、以前よりは進めています」


「そうか」


 アルベルトはそれだけ言った。


 けれど、その一言はとても穏やかに聞こえた。


 リディアはブルースターへ視線を戻す。


 川霧の橋。

 母親の手。

 怖がる少女。

 渡り灯。


 それらは、ただ東区の制度案ではない。

 リディア自身が、誰かの手を借りながら進んできた道とも繋がっている。


 だからこそ、きっと大切に作らなければならない。


「渡り灯を、きちんと形にしたいです」


 リディアは言った。


「怖い人が、渡れるように」


 アルベルトは短く答えた。


「ああ」


 その一言だけで、不思議と心が定まった。

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