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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第52話 東区の夜は、寒さではなく湿り気と沈黙で人を奪う

 東区へ向かう朝、空は低く曇っていた。


 雨が降っているわけではない。けれど、空全体に水を含んだ薄灰色の布をかけたような天気で、馬車の窓には細かな湿り気がうっすらと残っている。


 リディアはその窓越しに、王都の街並みが少しずつ変わっていくのを見ていた。


 北区へ向かったときとは、景色の表情が違う。


 北区は、坂と石段と風の街だった。冬になると冷たい空気が上から降りてきて、灯りのない路地をさらに心細くする。貧しさはあったが、どこか乾いた寒さがあった。


 けれど東区は、もっと湿っていた。


 川沿いの倉庫街が近づくにつれ、建物の壁は少し黒ずみ、石畳の隙間には苔の色が見える。洗濯物が軒下に干されているが、風が弱いせいか乾ききらず、重たそうに垂れていた。


 道行く人々の肩にも、同じような湿り気がまとわりついている。


「東区は、思っていたより暗いのですね」


 リディアが小さく呟くと、向かいに座るアルベルトが外を見た。


「川霧が出る日は、昼でも明るさが鈍る」


「帳簿では、灯油の消費が北区より少なかったのですが」


「灯りを使わないのではなく、灯りを置いても見えにくい場所がある」


 リディアはその言葉を胸の中で繰り返した。


 灯りを置いても見えにくい。


 同じ“暗さ”でも、北区と東区では性質が違うのだ。


 隣に控えていたオスカーが手元の記録板を見ながら補足する。


「東区は川沿いに細い橋が多いです。大きな橋は王都管理ですが、小さな生活橋は地区ごとの修繕任せになっていて……夜間の利用記録はほとんど残っていません」


「利用記録がないということは、使われていないのかしら」


「使われていないのか、使われているのに記録されていないのか。そこがまだ」


 オスカーは困ったように紙をめくった。


「施療院の受診記録では、昼間の患者数に対して夜間が極端に少ないです。ただ、夜に病人が出ないはずはありません」


「つまり、来られていない」


「おそらくは」


 リディアは膝の上で指を重ねた。


 夜、熱を出した子どもがいる。

 怪我をした職人がいる。

 咳が止まらない老人がいる。


 けれど施療院へ来ない。


 それは、助けを必要としていないからではない。助けに辿り着けないからかもしれない。


 馬車が東区施療院の前で止まった。


 北区の灯火所とは違い、東区施療院は古い石造りの建物だった。規模はそれほど小さくない。だが外壁には湿気の跡があり、窓枠のいくつかは黒ずんでいる。玄関前には小さな石段があり、そこにも水気が残っていた。


 施療院長は、五十代ほどの女性だった。


 痩せた体つきだが、目は強い。白い髪をきっちりまとめ、何度も洗われて柔らかくなった医療用の外衣を身につけている。


「宰相閣下、奥様。遠路をお越しいただき、ありがとうございます」


 彼女は深く頭を下げた。


 アルベルトは短く頷く。


「現状を聞きに来た。飾った説明は要らない」


 院長は一瞬だけ驚いたように目を上げ、それから少しだけ表情を和らげた。


「では、遠慮なく申し上げます。東区に必要なのは、北区と同じ灯火所ではございません」


 初めからそう言われ、リディアは思わず背筋を伸ばした。


「私も、それを確かめたくて参りました」


 院長はリディアを見た。


 その目には、値踏みではなく、現場の人間特有の切実さがあった。


「こちらへ」


 施療院の中へ通される。


 中は外より暖かかったが、空気は重かった。薬草の匂い、湿った布の匂い、煮沸した湯の匂い。その奥に、冬の川沿い特有の冷えがかすかに残っている。


 寝台の数は多くない。だが、空いているわけではなかった。咳をしている老人、手に包帯を巻いた青年、眠っている子ども。その傍らで、母親らしき女が疲れた顔で座っていた。


「昼間は、これでも何とか回ります」


 院長は低い声で説明する。


「問題は夜です。川霧が出る日は、近くに住む者でも橋を渡るのを嫌がります。見えないうえに、滑る。橋の板も古い。灯りを持っていても、足元の水気まではわかりません」


「橋の修繕申請は?」


 アルベルトが尋ねる。


「出しております。ですが、生活橋は優先度が低く……大きな荷馬車が通る橋ではございませんので」


 院長の声には、諦めに近い疲れがあった。


 リディアは窓の外を見る。


 施療院の向こうに川が見えた。幅はそれほど広くない。けれど、水面は灰色に濁り、上には薄く霧がかかっている。


 昼間でこれなら、夜はどれほど心細いだろう。


「実際に橋を見てもよろしいですか」


 リディアが言うと、院長はすぐ頷いた。


「もちろんでございます。こちらです」


 施療院を出て、川沿いの細い道を歩く。


 足元は石畳だが、ところどころ水が溜まっていた。エマが少し後ろから静かに付き添い、リディアが滑りやすい場所へ足を置く前に、さりげなく声をかける。


「奥様、右側を」


「ありがとう」


 リディアは外套の裾を少し持ち上げた。


 東区の空気は、肌にまとわりつく。


 北区の寒さは刺すようだったが、東区の冷えは染み込んでくるようだった。風が強いわけではない。だからこそ、湿気が逃げず、衣服の内側へゆっくり入り込む。


 川へ出ると、細い橋が見えた。


 木の板と低い手すりで作られた生活橋だった。二人並んで歩くには少し狭い。橋の向こう側には住宅が密集しており、そこから施療院へ来るには、この橋を渡るのが一番近いのだという。


 昼間でも、橋の板は濡れて黒く光っていた。


「夜は、ここに灯りが?」


 リディアが尋ねると、院長は首を振った。


「橋の入口に一つだけ。ですが、霧が出ると向こう側までは見えません。途中で足元を見失う者もおります」


 オスカーが板の端を確認し、顔をしかめた。


「滑り止めがありませんね」


「以前は縄を巻いていたそうですが、切れてからそのままです」


「手すりも低い」


 アルベルトが橋の幅を見ながら言う。


「子どもが掴むには高すぎ、大人が体重を預けるには頼りない」


 院長は困ったように頷いた。


「ええ。ですから、夜は皆、来たがらないのです。症状が重くなってから朝に担ぎ込まれることもあります」


 リディアは橋の入口に立った。


 向こう岸までは遠くない。


 遠くないのに、足が少しすくむ。


 昼でさえこれなら、夜の霧の中、熱を出した子を抱えて渡る母親はどう感じるのだろう。老人が杖をついて渡るとき、怪我をした職人が片足をかばいながら歩くとき、どれほど長く感じるのだろう。


 北区では、火がある場所まで辿り着ければ救いになった。


 でも東区では、その前に橋が立ちはだかっている。


「奥様」


 オスカーが声をかけた。


「北区の灯火所のように、橋の手前に小屋を作るのはどうでしょう。雨除けと火を置けば」


 リディアは橋の向こうを見たまま、少し考えた。


「それだけでは、足りないと思います」


「足りませんか」


「ええ。橋の手前に火があっても、施療院は橋の向こうです。そこに留まって暖を取るだけでは、治療には届かない」


 自分で言いながら、言葉の輪郭がはっきりしていく。


「この地区で必要なのは、休む場所だけではないわ。渡るための支えです」


 院長が目を細めた。


「そうです。私どもが欲しかったのは、きっとそれです」


 そのとき、橋の向こう側で小さな声がした。


「お母さん、やだ」


 リディアは顔を上げた。


 向こう岸に、母親と幼い女の子が立っていた。母親は薄い外套を羽織り、女の子の手を強く握っている。女の子は顔色が悪く、鼻の頭が赤い。咳をしたのか、胸元を少し押さえていた。


 母親はこちら側にいる人々に気づいて、困ったように頭を下げた。


「すみません。お邪魔を」


 院長がすぐに声をかける。


「マリ。ミナの咳がまた?」


 マリと呼ばれた母親は頷いた。


「昨夜から少し。昼まで待とうと思ったんですけど、熱も出てきて……でも」


 彼女は橋を見た。


 昼間なのに、その顔にはためらいがある。


「この子が怖がって」


 女の子は母親の後ろに隠れるようにして、橋を見ていた。


 リディアは一歩だけ橋へ近づく。


「怖いのは、橋?」


 女の子はびくりとしたが、母親に促されて小さく頷いた。


「……橋、ゆれる」


「夜も渡ることがあるの?」


「夜は、もっとこわい」


 小さな声だった。


 リディアはできるだけ穏やかに尋ねた。


「灯りがあっても?」


 女の子は少し考えたあと、首を横に振った。


「灯り、向こうにあっても……途中がこわい」


 その言葉が、リディアの胸に落ちた。


 途中が怖い。


 それは帳簿にも、施療院の受診数にも出てこない言葉だった。


 母親が少し恥じるように笑った。


「すみません。子どもの言うことなので」


「いいえ」


 リディアは静かに首を振った。


「大事なことです」


 途中が怖い。


 つまり、橋の入口と出口に灯りを置くだけでは足りないのかもしれない。渡る間、誰かが声をかけること。足元を確かめること。向こうで待つ人がいること。それが必要なのだ。


 リディアはアルベルトを見た。


「旦那様」


「何だ」


「北区と同じ火ではありません」


「ああ」


「ここに必要なのは、橋の両側に灯りを置くことと……渡る人を待つ人です」


 アルベルトは橋へ視線を向ける。


「橋番か」


「はい。でも、ただ橋を見張るだけではなく、施療院まで付き添える人。霧の日や雨の日に、橋のこちらと向こうで声をかける人」


 オスカーが急いで書き留め始める。


「橋番、付き添い、雨除け……滑り止めと手すりの修繕も必要ですね」


「記録には、施療院へ来た人だけでなく、橋で引き返した人も残したいです。引き返した人数がわからなければ、必要な支援が見えません」


 言葉が次々と出てくる。


 けれど不思議と、焦りはなかった。


 北区の成功をここへ持ち込むのではない。東区の夜そのものを見て、そこに合う形を探している。


 それが、少しだけわかってきた。


 アルベルトは短く頷いた。


「悪くない」


 その一言に、院長がほっと息をついたようだった。


 橋の向こうでは、母親が女の子を抱き上げようとしている。


 リディアは橋を見た。


 濡れた板。低い手すり。薄い霧。

 そして、こちら側で待っている施療院。


「マリさん」


 リディアは母親へ声をかけた。


「私たちもこちらで待っています。ゆっくり渡ってください」


 母親は驚いた顔をした。


 女の子もこちらを見る。


 アルベルトが横から院長へ短く指示を出す。


「橋の手前に一人立て。足元を見ろ」


「はい」


 オスカーも慌てて橋の反対側へ回ろうとする。


 リディアは何もできない。橋を直すことも、霧を払うことも、今すぐ制度を作ることもできない。


 けれど、待つことはできる。


 橋のこちら側で、渡ってくる人を待つことは。


 母親は女の子の手をしっかり握り、ゆっくり一歩を踏み出した。


 板が小さく軋む。


 女の子は途中で立ち止まりかけた。


「ミナ、大丈夫」


 院長が声をかける。


「奥様も待っているよ」


 リディアは胸の前で手を重ね、静かに頷いた。


 女の子は唇を結び、また一歩進んだ。


 橋は短い。


 けれど、その数十歩は、きっと彼女にとって長い夜道のようだった。


 やがて母子がこちら側へ渡り切ったとき、女の子はほっとしたのか母親の外套へ顔を埋めた。


 リディアの胸も、少しだけほどけた。


 たった一組の母子が橋を渡っただけ。


 けれど、それで十分だった。


 東区に必要なものの輪郭が見えたからだ。


 灯火所ではない。


 火のある建物だけではない。


 橋の向こうで誰かが待っていること。

 途中で怖くなったとき、声をかける人がいること。

 渡った先で、ちゃんと施療院へ繋がること。


 それが東区の冬に必要なのだ。


 帰りの馬車の中で、リディアはしばらく黙っていた。


 膝の上には、びっしりと書き込まれたメモがある。橋、霧、滑り止め、手すり、橋番、付き添い、雨除け、引き返した人の記録。


 北区とは、まったく違う。


「寒さではないのですね」


 リディアは窓の外を見ながら言った。


「東区で人を奪うのは、寒さだけではありません」


 アルベルトは黙って続きを待った。


「湿り気と、暗さと……沈黙です」


「沈黙?」


「はい。橋の途中で怖くなっても、誰も声をかけてくれない。向こう側に誰がいるかわからない。そういう沈黙です」


 リディアはメモを見下ろした。


「東区には、火より先に声が必要なのかもしれません」


 アルベルトは少しだけ目を細めた。


「なら、それを仕組みにしろ」


 前にも似たようなことを言われた気がした。


 けれど今日のリディアには、その言葉がすっと胸へ入ってきた。


 感情で終わらせない。

 可哀想で終わらせない。

 怖かったね、と言って終わらせない。


 怖いなら、渡れる仕組みにする。


 それが仕事なのだ。


「はい」


 リディアは静かに頷いた。


「仕組みにします」


 馬車の窓に、薄い霧の名残が白く流れていた。


 東区の夜は、北区の夜とは違う。


 だからこそ、東区には東区の灯りを探さなければならない。

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