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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第51話 焦る善意ほど、火を消す

 北区の冬の灯火所が一夜を越えた、という知らせは、思っていた以上の速さで王宮へ広がっていた。


 その翌々日、リディアが慈善局の会議室へ通されたとき、空気はもう少し浮き立っていた。


 長机の上には、北区の初夜報告書、薪の消費記録、薬湯の配布数、灯火守りの交代表が並んでいる。いずれもまだ不備の多い書類だ。数字も荒い。記録係によって表現も揃っていない。現場から急いで上げられたものだから、当然といえば当然だった。


 けれど会議室にいる官吏たちの目は、その粗さではなく、“成功”という文字だけを見ているようだった。


「北区でこれほど効果があったのです。王都全区へ広げれば、冬季支援の大改革になります」


 慈善局の若い官吏が、熱を込めて言った。


 彼の頬は少し赤い。興奮しているのだろう。悪意はない。むしろ善意に満ちている。


「王妃陛下の慈善事業としても、大きな功績となります。北区だけでなく、東区、西区、南区にも灯火所を置けば、王都の冬は大きく変わります」


 その言葉に、同席していた数人の貴婦人たちが頷いた。


 今日の会議には慈善局の官吏だけではなく、慈善婦人会の夫人たちも呼ばれていた。北区の成功を受けて、支援拡大の相談をしたいという名目だった。


 だが、リディアにはその場の熱が少し怖かった。


 成功。


 それは甘い言葉だ。


 一度その言葉が広がると、人はつい次を求める。もっと大きく、もっと早く、もっと多く。火が一つ灯れば、次の火を灯したくなる。


 けれどリディアの手元にある報告書は、その甘さとは違う現実を見せていた。


 灯火守り二名、体調悪化の兆し。

 薬湯、想定より三割多く消費。

 薪、初夜だけで予定量を超過。

 夜半以降、記録係の文字が乱れる。

 交代時刻に遅れあり。


 火は消えなかった。

 しかし、消えなかっただけだ。


 それを、すでに完成した仕組みのように扱ってはいけない。


「もちろん、各地区に同じものを置くとなると、初期費用はかかります」


 官吏は勢いを失わずに続ける。


「ですが、今なら貴族家からの寄付も集まりやすいはずです。北区の成功例を示せば、支援を申し出る家も増えるでしょう。各地区に一つずつ灯火所を置き、王都全域へ広げる。そうすれば、この冬のうちに――」


「この冬のうちに?」


 リディアは静かに聞き返した。


 声は大きくなかった。


 それでも会議室の空気が少し止まった。


 官吏は一瞬だけ戸惑ったように瞬きをする。


「はい。冬は待ってくれませんので」


「それはその通りです」


 リディアは頷いた。


「寒さは待ってくれません。困っている人も、今夜を越えなければならない。だから、急ぎたいお気持ちはわかります」


 官吏の表情が少し緩む。


 だが、リディアはそこで言葉を切らなかった。


「ですが、急ぐことと、同じ形を増やすことは違います」


 会議室の端で、アルベルトが静かにこちらを見ているのがわかった。


 彼はこの会議に同席しているが、最初からほとんど口を開いていない。リディアがどう判断するかを見ているのだろう。口を出さない代わりに、逃げ道だけは残してくれている。


 その沈黙が、今は心強かった。


 リディアは机上の報告書を一枚持ち上げた。


「北区の灯火所は、北区に合った形でした。坂が多く、夜に休める場所が少なく、薪を買えない人がいる。だから、火のある場所が必要だった」


 次に、東区の封書へ目を落とす。


「でも、東区から届いた相談には、橋と川霧のことが書かれています。施療院へ行きたいのに、橋を渡れず引き返す人がいると。そこへ北区と同じ建物を置いて、本当に助けになるでしょうか」


 若い官吏は口を開きかけ、すぐには答えられなかった。


 代わりに、慈善婦人会の一人が柔らかな声を挟んだ。


「けれど奥様、火がある場所は、どの地区にも必要ではありませんこと?」


 ファーネル侯爵夫人だった。


 今日も完璧な装いだ。淡い金のドレスに、白い手袋。声音はやわらかいが、その目には計算がある。


「寒い夜に灯りがある。それだけで人は安心するものですわ。王都全体に灯火所があれば、どれほど心強いことでしょう」


「ええ。灯りは心強いものです」


 リディアは否定しなかった。


「けれど、灯りを置く場所を間違えれば、誰もそこへ辿り着けません」


 ファーネル侯爵夫人の笑みが、ほんのわずかに硬くなった。


「まあ。慎重でいらっしゃるのね」


「慎重でなければ、火は守れません」


 リディアは、できるだけ静かに言った。


「灯火所を一つ増やすには、薪、灯火守り、記録係、薬湯、交代人員、現場責任者、緊急時の連絡先が必要です。寄付金を集めて看板を掛ければ終わりではありません。むしろ、始まってからのほうが長いのです」


 机の向こうで、年配の財務担当官が小さく頷いた。


 彼は派手な発言を好まない人物だが、数字には正直だ。リディアの言葉が現実的であることは、彼にも伝わったのだろう。


 若い官吏は少しだけ焦ったように紙をめくる。


「ですが、王都全域へ同時に広げれば、支援の勢いを失わずに済みます。今なら注目も集まっていますし――」


「注目は、燃料ではありません」


 リディアの声が、先ほどより少しだけはっきりした。


 自分でもわかった。


 昔の自分なら、ここで一度謝ったかもしれない。言葉が強すぎたと感じ、すぐに「失礼しました」と頭を下げたかもしれない。


 けれど、今は謝らなかった。


 必要な言葉だと思ったからだ。


「注目が集まれば、人もお金も動きます。それは確かです。けれど注目だけで現場は回りません。善意が焦れば、最初に疲れるのは現場の人です。灯火守りであり、施療院であり、孤児院であり、実際に夜に立つ人たちです」


 会議室が静まり返る。


 誰かが椅子を引く小さな音だけがした。


 リディアは息を吸った。


「北区の灯火所は、まだ一夜です。三十日続けて初めて、仕組みとして見られます。東区は、まず調査します。必要なら北区と違う形を作ります。南区、西区も同じです。困っているなら助けたい。でも、同じ看板を増やすことが慈善ではありません」


 ファーネル侯爵夫人が、扇を軽く閉じた。


「では、奥様は拡大に反対なのですか?」


 その問いには棘があった。


 “助けたい人々を見捨てるのか”と、言外に含ませている。


 リディアはその棘を感じた。感じたが、焦ってはならないと思った。


「いいえ。反対ではありません」


 リディアはまっすぐ夫人を見た。


「壊れない形で広げたいのです」


 ファーネル侯爵夫人は黙った。


 そこへ、これまで静かに資料を見ていたローゼン侯爵夫人が口を開いた。


「私は、宰相夫人のお考えに賛成ですわ」


 意外な援護に、若い官吏たちがそちらを見る。


 ローゼン侯爵夫人は、ゆったりと茶杯を置いた。


「以前、我が家が支援した施療院で、似たことがありましたの。寄付が増えたとき、皆が喜びましてね。ではもっと患者を受け入れましょう、もっと薬を出しましょうと始めたのですけれど……三月もしないうちに看護人が倒れましたわ」


 彼女の声は落ち着いていたが、そこに苦い記憶があることは隠せなかった。


「支援は増えたのに、続ける人の休息を考えていなかったのです。あれは、善意の失敗でした」


 リディアは静かにその言葉を受け止めた。


 善意の失敗。


 それは、今この場にある熱をもっとも正確に表す言葉かもしれない。


「灯火所も同じでしょう。火を囲む人ばかり見て、火を守る人を見なければ、いずれ消えます」


 ローゼン侯爵夫人はリディアへ視線を向けた。


「ですから、三十日記録。私は必要だと思います」


「ありがとうございます」


 リディアは丁寧に礼を返した。


 そこへ、慈善局長が重々しく頷いた。


「では、こうしましょう。北区は三十日記録を継続。東区は現地調査。全区展開案は、各地区の事情確認後に再審議。これでよろしいか」


 若い官吏はまだ何か言いたげだったが、局長の決定には逆らえない。


 ファーネル侯爵夫人も笑みを戻した。


「もちろんですわ。宰相夫人がそこまで仰るなら、結果を楽しみにしております」


 楽しみに。


 その言葉は、純粋な期待ではなかった。


 失敗したらどう言ってやろうか、という余韻がほんの少しだけ残っている。


 だが、リディアはもうその視線にすぐ怯えたりはしなかった。


「はい」


 静かに答える。


「結果は、記録でお示しします」


 会議が終わったあと、慈善局の廊下へ出ると、足元から力が少し抜けそうになった。


 自分では平静にしていたつもりだった。

 けれど体は正直だ。


 肩に力が入っていた。指先も少し冷えている。


 廊下の窓からは王宮の庭が見える。白い冬の光が植え込みの上に落ち、噴水の水面が細かく揺れていた。


「疲れたか」


 背後から低い声がした。


 アルベルトだ。


 リディアは振り返り、小さく息を吐く。


「少しだけ」


「少しではない顔だな」


「……旦那様は、本当に容赦なく見抜かれますね」


「見ればわかる」


 いつもの答えだった。


 その言い方に、リディアは少しだけ笑いそうになったが、今日は笑うほどの余力はなかった。


 アルベルトは横に並び、同じように庭へ視線を向けた。


「今日の君は、必要なところで止めた」


 その言葉に、リディアは顔を上げる。


「止めた、ですか」


「ああ。押し広げようとする善意を、止めた」


 彼は淡々と言った。


「簡単ではない。善意を止める人間は、冷たいと言われる」


「……それは、少し怖かったです」


「だろうな」


 相変わらず、慰めるわけではない。

 ただ事実として受け止める。


「でも、止めなければ、北区も東区も壊れるかもしれないと思いました」


「それが見えていたなら十分だ」


 リディアは窓の外へ目を戻した。


 会議室の熱が、まだ胸に残っている。

 早く助けたい。

 もっと広げたい。

 王都全域へ。


 その思いを否定するつもりはない。

 自分だって、助けられるなら助けたい。


 けれど、焦る善意ほど危ういものはないのだと、今日初めて強く感じた。


「善意なのに、止めなければならないことがあるのですね」


「ある」


 アルベルトは短く答えた。


「善意は、責任を持たないと刃物になる」


 リディアはその言葉を静かに胸へ落とした。


 刃物。


 少し強い表現だと思ったが、否定はできなかった。


 名を残したい寄付。

 急ぎたい制度。

 華やかな成功。

 それらは表向き善意でも、現場を傷つけることがある。


「私は……冷たく見えたでしょうか」


 思わずそう尋ねていた。


 アルベルトは少しだけこちらを見た。


「冷たく見えることを恐れて、判断を誤るな」


 返答は、やはり甘くなかった。


 けれど、その厳しさが今はありがたい。


「冷たいかどうかではない。必要かどうかだ」


「はい」


「それに」


 アルベルトは少しだけ間を置いた。


「君は冷たくない」


 リディアは瞬きをした。


 あまりにも不意打ちだった。


「……旦那様」


「事実だ」


「そう、ですか」


 頬が少し熱くなる。


 冷たい。


 かつて王太子にそう見られていた。

 社交界にもそう言われていた。

 自分でも、そうなのかもしれないと思ったことがある。


 だがアルベルトは、何の飾りもなく否定した。


 君は冷たくない。


 その一言は、会議室でどれほど正論を言えたことよりも、深く胸へ沈んだ。


「ありがとうございます」


 リディアは小さく言った。


 アルベルトは、少しだけ視線を外す。


「……礼を言うほどのことではない」


「いいえ。言いたかったので」


 そう返すと、彼はほんのわずかに黙った。


 最近、こういうときの沈黙が少し増えた気がする。

 リディアが素直に受け取ると、アルベルトのほうがわずかに言葉を失う。


 それが少しだけ可笑しく、そして少しだけ嬉しい。


「帰るぞ」


 彼は短く言った。


「はい」


 歩き出す前に、リディアはもう一度だけ会議室の扉を振り返った。


 今日、自分は善意を止めた。


 広げることより、残すことを選んだ。


 それが正しいかどうかは、まだわからない。

 けれど少なくとも、北区の火を守るためには必要だった。


 そして東区へ向かうなら、東区の夜をちゃんと見なければならない。


 焦らず。

 しかし消さず。


 王妃の言葉が、リディアの中で静かに灯っていた。

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