第42話 「冬の灯火所」――その名が紙に書かれた瞬間、私はもう引き返せないのだと思った
北区から戻ったあと、リディアはしばらく言葉が少なかった。
馬車の中で「疲れました」と言えたことは、自分でも少し驚くほど大きな変化だった。けれど、言えたからといって、胸の奥に沈んだものがすぐ消えるわけではない。
遠い。坂、上れない。
ニコという少年の声が、ずっと耳に残っていた。
帳簿の上では、“北区冬季死亡率の上昇”だった。
報告書では、“搬送遅延の可能性”だった。
けれど現地へ行けば、それは小さな少年の掠れた声になった。
病気の母親のために、薪の切れ端を拾う子ども。
施療院へ行きたくても、坂を越えられない人。
暖かい場所へ辿り着く前に、冬の夜に体力を奪われる誰か。
そうしたものが、紙の上の数字の裏にいた。
宰相家に戻ると、エマがすぐに温かな茶と軽い食事を用意してくれた。
「奥様、お帰りなさいませ。お顔が少し冷えておいでです」
「寒かったというより……少し、考えることが多かったの」
そう答えると、エマはそれ以上問わなかった。ただ、手袋を外すのを手伝い、冷えた指先を温めるための布を差し出してくれる。
リディアはその布を両手で包みながら、窓の外を見た。
宰相家の庭は、北区とはまるで違う静けさの中にある。手入れされた道。整えられた木々。風に揺れる白い花。どこにも、凍った坂を病人が越える心配などない。
けれど、それを後ろめたいと思うだけでは意味がないのだろう。
自分がここにいるからこそ、できることがある。
そう思わなければ、ニコの声をただ胸に抱えて苦しむだけになってしまう。
「奥様、スープを少しだけでも」
エマの声に、リディアは我に返った。
「ええ。いただくわ」
器を手に取り、ゆっくりとスープを口へ運ぶ。
温かい。
その温かさを感じた瞬間、また北区の組合所を思い出した。あの炉に火が入れば、冷えた人たちもこうして少し息をつけるのだろうか。薬湯を飲み、毛布にくるまり、施療院へ向かう前に体を温めることができるのだろうか。
そう思うと、残りのスープも少しずつ喉を通った。
夕方、アルベルトの執務室に、北区視察の記録をまとめるための簡単な会議が開かれた。
出席しているのは、アルベルト、リディア、オスカー、ハロルド。それから、同行した医師のベルナールだった。ベルナールは中年の落ち着いた医師で、北区の少年の母親を診察したあと、短い所見をまとめていた。
「ニコ少年の母親については、すぐ命に関わる状態ではありませんでした」
ベルナールは書類を見ながら言った。
「ただし、あと二、三日放置されていれば肺炎に進んだ可能性があります。冷えと栄養不足が重なっていました。施療院へ運ぶほどではありませんが、薬湯と暖が必要です」
リディアは静かに頷く。
「もし中継所があれば、そこで対応できましたか」
「できます。簡単な診察、薬湯、休息。それだけで悪化を防げる人は相当いるでしょう」
「重症者の見極めは?」
「経験ある医師か、少なくとも施療院で訓練を受けた看護人が必要です。素人だけでは危険です」
オスカーが素早く書き留める。
アルベルトは机の上の地図へ視線を落としたまま、短く問う。
「常駐は必要か」
「医師の常駐は難しいです。ですが、冬季の間、朝と夕に巡回する形なら現実的かと。中継所には看護人を一人置き、危険な症状があれば施療院へ送る」
「馬車は」
リディアが尋ねた。
「待機馬車が一台あれば理想です。ただし費用がかかります」
「馬車を常に置くのが難しければ、近くの運送組合と契約できませんか。夜間でも呼べるように」
ベルナールは少し考え、頷いた。
「それなら可能かもしれません。通常料金より高くなりますが、常駐よりは安い」
リディアはメモへ視線を落とした。
費用が増えていく。
炉の掃除。床板と窓枠の修繕。薪。簡易寝台。薬湯。看護人。巡回医。馬車の契約。
頭の中で数字が動く。どこを婦人会の寄付に頼るか。どこを王宮慈善局の冬季支援費から出すか。どこを組合側の協力として扱うか。
ただ善意を集めれば済む話ではない。
けれど、それでも不思議と後ろ向きな気持ちにはならなかった。
面倒な問題が、一つずつ具体的になっていく。
具体的になるということは、手を打てるということだ。
「婦人会へは、まず“冬の灯火所”の趣旨を伝えます」
リディアは顔を上げて言った。
「ただの寄付依頼ではなく、冬の間、施療院へ辿り着く前の人々を支える場所を作る、と。物資ではなく、灯りと暖を維持する支援だと説明します」
アルベルトが彼女を見る。
「誰の名で出す」
一瞬、胸が強張る。
だがリディアは逃げなかった。
「私の名で出します」
オスカーの筆が止まった。
ハロルドも、ほんのわずかに視線を上げる。
アルベルトだけは、最初からその答えを知っていたように静かだった。
「わかった」
「ですが、宰相家と王宮慈善局の確認を受けた案として」
「当然だ」
「それと……婦人会の夫人たちには、寄付額だけでなく、何を支えたかがわかる形で報告したいです。たとえば、薪十日分、夜番三日分、巡回医一回分、というように」
ベルナールが感心したように眉を上げる。
「それなら、支援の意味がわかりやすいですね」
「はい。金額だけだと大きな家ばかり目立ちます。でも、“夜番三日分”なら中規模の家でも支援できます。複数の家が少しずつ灯火を守る形にしたいのです」
言いながら、リディアの胸に少し熱が灯った。
自分の声が、以前よりはっきりしているのがわかる。
王宮でも、侯爵家でも、彼女の声はいつも少し控えめだった。大きく出すことは品がないと教えられてきたし、求められる前に語れば出過ぎだと感じていた。
でも今、彼女は自分の案を説明している。
誰かのために。
必要なものを届けるために。
その声なら、少し強くてもいいのだと思えた。
「文案は今日中に作ります」
オスカーが言った。
「奥様の名で、慈善婦人会宛に。王宮慈善局へは写しを送りますか」
「ええ。王妃陛下にもご報告が必要だと思います」
そこでリディアは少し言葉を止めた。
王妃へ報告する。
自分の名で。
“冬の灯火所”という案を。
その重さが改めて胸にくる。
けれど、もう引くつもりはなかった。
会議が終わったあと、オスカーはすぐ作業室へ戻り、文案作成に取りかかった。ハロルドは組合との契約準備へ向かい、ベルナールは施療院側の人員調整を確認するために退出した。
執務室に残ったのは、リディアとアルベルトだけだった。
机の上には、北区の地図がまだ広げられている。
リディアはその地図を見下ろしながら、ぽつりと言った。
「名前を載せると決めたのに、やはり少し怖いです」
「ああ」
アルベルトは否定しなかった。
「怖いまま進め」
「旦那様は、本当に慰めるのがお上手ではありませんね」
「慰めているつもりはない」
「存じています」
リディアは少しだけ笑った。
けれど、その笑みはすぐに静かなものへ変わる。
「でも、不思議です。怖いのに、やめたいとは思わないのです」
「理由があるからだろう」
「ニコの声が、頭から離れません」
リディアは地図の上、組合所の位置へ指を置いた。
「坂を上れない、と言っていました。それだけのことで、誰かが施療院へ辿り着けないなんて……帳簿だけでは、わかりませんでした」
「だから見に行った」
「はい」
「なら、行った意味があった」
短い言葉。
けれど、その一言で十分だった。
リディアは地図から手を離す。
「昔の私は、現場へ行くことを考えもしませんでした。王宮で慈善を学んでいたのに、実際には帳簿と式典と挨拶ばかりで」
「それは君のせいではない」
「わかっています。……少しずつですが」
そう言えるようになったことも、変化の一つだった。
昔なら、すぐに自分を責めていた。学んだのに見ていなかった自分が悪い。気づかなかった自分が浅い。そう思っただろう。
けれど今は、そうではないと知っている。
見える場所へ連れて行かれなかった。
見る権限も、見る役割も与えられていなかった。
それでも責任だけは背負わされていた。
だから今は、自分で見に行く。
自分で決める。
「旦那様」
「何だ」
「今日は、現地へ連れて行ってくださってありがとうございました」
アルベルトは少しだけ眉を動かした。
「君が行くと言った」
「でも、止めることもできたでしょう」
「止める理由がなかった」
「危ない、疲れる、無理をする、と仰るかと思いました」
「危ないから準備した。疲れるから時間を区切った。無理をしそうだから私が同行した」
あまりにも当然のように言われ、リディアはしばらく言葉を失った。
この人にとって、止めることと守ることは同じではないのだ。
危ないから閉じ込めるのではなく、危ないなら準備する。
疲れるから行かせないのではなく、疲れすぎないよう時間を決める。
無理をするから諦めろではなく、無理をしないよう隣にいる。
その考え方が、胸に深く染みた。
「……旦那様は、私を弱いとは思っていないのですね」
口にしたあと、リディアは自分でも少し驚いた。
ずっとどこかで気にしていた問いだったのかもしれない。
アルベルトはすぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから、静かに言う。
「弱いところはある」
正直な答えだった。
でも、不思議と傷つかなかった。
「だが、それだけではない」
彼は続ける。
「君は怯える。疲れる。すぐ自分を責める。だが、必要だと思えば戻らない。今日もそうだった」
「戻らない?」
「ニコの声を聞いたとき、君は逃げなかった」
リディアは胸の奥が静かに揺れるのを感じた。
「逃げるという発想は……ありませんでした」
「なら、それが君の強さだ」
強さ。
その言葉を、今度は少しだけ受け取れた。
完全にではない。まだ自分を強いと言い切るのは怖い。けれど、アルベルトがそう見たなら、その一部くらいは信じてもいいのかもしれないと思えた。
「ありがとうございます」
「礼を言うところか?」
「褒められたので」
「そうか」
アルベルトはほんのわずかに口元を緩めた。
その変化に気づいて、リディアの胸も少し温かくなる。
夜になって、作業室ではオスカーが文案を読み上げていた。
――王都北区における冬季救護中継所設置案。
通称、“冬の灯火所”。
目的。施療院へ至るまでの一時的休息、暖房、初期診察、重症者搬送判断。
支援項目。薪代、夜番費、薬湯材料、簡易寝台、巡回医費用、搬送馬車契約費。
そして、その下に。
――提案者。宰相夫人リディア・グランディス。
自分の名前が紙に書かれている。
リディアは、それをしばらく見つめた。
怖い。
けれど、その怖さの中に、確かなものもある。
これは逃げ道を消すための名前ではない。
責任の置き場所を決めるための名前だ。
アルベルトの言葉を思い出す。
そして今、その意味が少しだけわかった気がした。
「このまま出しましょう」
リディアは言った。
声は、震えなかった。
オスカーが頷く。
「承知しました」
エマが静かに茶を注ぐ。
ハロルドが、文書を正式な封書へ整える準備を始める。
小さな作業室の中で、“冬の灯火所”という名が、初めて正式な紙に書かれた。
その瞬間、リディアは思った。
もう引き返せないのではない。
ようやく、自分で進む方向を決めたのだと。




