第41話 帳簿の向こうへ行った日、私は初めて“寒さ”にも顔があることを知った
北区へ向かう朝、リディアはいつものドレスではなく、動きやすい外出着を選んだ。
正確には、選んだというより、エマとマーサに選ばれた。
深い灰青の上着に、裾の広がりを抑えた歩きやすいドレス。靴は王宮や夜会用の華奢なものではなく、石畳の凹凸にも耐えられる丈夫な革靴だった。手袋も薄い絹ではなく、少し厚手のものが用意されている。
鏡の前に立ったリディアは、少しだけ戸惑った。
侯爵家の娘として、あるいは王太子妃候補として外へ出るときの装いとはまるで違う。美しく見せるための服ではない。きちんとしてはいるが、目的は明らかに「歩くこと」と「見ること」だ。
「……なんだか、少し落ち着かないわ」
思わず呟くと、エマが背後で襟元を整えながら言った。
「よくお似合いです」
「お世辞ではなく?」
「お世辞ではございません。奥様は本日、お仕事で現地へ向かわれるのですから」
お仕事。
その言葉に、胸の奥が静かに整う。
そうだ。今日は社交ではない。夜会でも茶会でもない。北区の冬季救護中継所――“冬の灯火所”の候補地を見るために行く。
リディア自身の名を載せる案だ。
だから、帳簿だけではなく現場を見なければならない。
玄関ホールへ降りると、アルベルトは既に待っていた。
彼もまた、いつもの王宮用の礼装ではなく、外套を羽織った実務向きの装いだった。それでも隙がないのは変わらない。濃色の生地に銀の留め具だけが光り、むしろ余計な装飾がない分、彼本来の冷えた威圧感が際立っている。
リディアを見るなり、彼はまず足元へ視線を落とした。
「靴は」
「歩けます」
「昨日、十分に試したか」
「廊下を何度か歩きました」
「北区の石畳は廊下ではない」
「……わかっています」
少し拗ねたような返事になってしまい、リディアは自分で驚いた。
アルベルトも一瞬だけ目を止めた。
「不満か」
「いえ。ただ、旦那様の確認は本当に細かいと思いまして」
「転ばせるよりはいい」
あまりにも真顔で返されて、リディアは反論する気が少し削がれた。
「それは、そうですね」
「疲れたら言え」
「はい」
「寒ければ言え」
「はい」
「気分が悪くなっても言え」
「はい。……旦那様」
「何だ」
「そこまで言われると、出発前から少し病人の気分になります」
思わず言うと、そばに控えていたオスカーが小さく咳払いした。笑いを堪えたのだとすぐにわかった。
アルベルトは表情を変えない。
「病人扱いしているのではない。現地確認は、問題が起きる前に対策を置くものだ」
「はい。存じております」
「なら行くぞ」
リディアは差し出された手に、自分の手を添えた。
馬車へ乗り込むと、いつもの王宮へ向かう道とは違う方角へ進み始めた。中央区の広い通りを抜け、商人たちの店が並ぶ区域を過ぎる。やがて石造りの建物が少しずつ古び、道幅も狭くなっていく。
北区へ近づくにつれ、空気の色が変わった気がした。
王都の中にありながら、中央区の整った華やかさとは違う。建物は背が低く、屋根の色もまばらで、壁には長年の雨風で黒ずんだ跡が残っている。路地は細く、馬車一台がやっと通れるところもあった。
窓の外を見つめながら、リディアは資料の数字を思い出していた。
冬季死亡率。
施療院への搬送遅延。
凍結しやすい坂道。
馬車の通行困難区域。
紙の上では、すべてただの項目だった。
けれど実際に道を見ると、胸の奥が少し重くなる。
この坂を、病人を抱えて上るのか。
この路地を、雪の日に通るのか。
そう考えるだけで、帳簿の数字が急に体温を持つ。
「顔色が変わった」
向かいからアルベルトの声がした。
リディアは窓から視線を戻す。
「……思っていたより、道が狭いのですね」
「北区の古い一帯は、王都拡張前の道が残っている。冬はさらに悪い」
「ここを病人が」
「だから見に来たのだろう」
その言い方に、リディアは静かに頷いた。
馬車は北区の職人組合所の前で止まった。
古い建物だった。二階建ての石造りで、屋根は少し煤けている。扉は厚く、窓は小さい。華やかさはないが、しっかりした造りに見えた。入口の前には、組合の職人らしき男たちが数人、緊張した様子で並んでいる。
その中の一人、灰色の髭をたくわえた年配の男が一歩前に出た。
「宰相閣下、奥様。本日はこのような場所へお越しいただき、恐れ入ります」
言葉は硬かったが、目はまっすぐだった。
アルベルトが短く頷く。
「冬季救護中継所の候補として見る。案内を」
「は、はい」
組合長らしい男は少し緊張しながら扉を開けた。
中へ入ると、ひんやりとした空気が頬に触れた。
広間は思っていたより広い。冬場は作業や集会が減るため、ここを空けられるという話だった。壁際には長椅子が積まれ、奥には小さな炉がある。天井は高くないが、暖を取るにはむしろ悪くないかもしれない。
リディアは部屋の中央まで進み、ゆっくり周囲を見回した。
「炉は使えますか」
自分でも驚くほど自然に質問が出た。
組合長が頷く。
「使えます。ただ、煙突の掃除が必要です。ここ数年はあまり火を入れておりませんので」
「水は?」
「裏手に井戸があります。冬でも凍りにくい井戸です」
「寝台を置くなら、何台ほど入りますか」
組合長は少し目を瞬いた。
リディアが具体的に尋ねると思っていなかったのかもしれない。
「簡易寝台なら……壁際を空ければ十台ほど。中央に余裕を残すなら六台か七台でしょう」
「重症者を長く留める場所ではないので、数は多すぎなくてよいと思います」
リディアは部屋の奥へ歩く。
床板の一部が傷んでいた。ここに寝台を置くなら、まず修繕が必要だろう。窓の隙間も少し気になる。冬の風が入れば、暖を取る場所としての意味が薄れてしまう。
「床板と窓枠の修繕費を見積もりに入れてください。あと、炉の掃除と薪置き場の確保も」
リディアが言うと、横でオスカーが素早くメモを取った。
アルベルトは口を挟まない。
ただ見ている。
それがかえって、リディアに自分で判断する余地を与えていた。
建物の裏手へ回ると、細い路地と小さな井戸があった。地面は少し傾斜していて、雨が降れば水が流れ込みそうだった。
「ここは凍ると危ないですね」
リディアが言うと、案内役の若い職人がすぐに頷いた。
「はい。冬場は何度か転ぶ者が出ます」
「病人を連れてくるなら、入口をこちらではなく正面にしたほうがよさそうです。井戸へ向かう道だけは砂を撒けるようにして……」
言いかけて、リディアはふと足を止めた。
路地の奥で、小さな咳が聞こえたからだ。
視線を向けると、古い外套に身を包んだ少年が、壁際に立っていた。年は十歳くらいだろうか。手には古びた籠を持ち、中には薪の切れ端が少しだけ入っている。
少年はリディアたちに気づくと、慌てて後ずさった。
「す、すみません」
逃げようとする少年を、組合長が少し強い声で呼び止める。
「こら、今日は大事なお客様が――」
「待ってください」
リディアは思わず言った。
自分でも少し驚くほど、はっきりした声だった。
組合長が口を閉じる。
リディアは少年へ近づきすぎないよう、少し距離を取って膝を折った。ドレスの裾が地面に触れないよう、エマがすぐ後ろで手を添えてくれる。
「怖がらなくていいわ。薪を拾っていたの?」
少年はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「母ちゃんが、咳してるから」
その言葉で、リディアの胸がきゅっと縮んだ。
「お母様は、施療院へ?」
少年は首を振る。
「遠い。坂、上れない」
たったそれだけ。
けれどリディアには、それだけで十分だった。
帳簿の中の“搬送遅延”が、目の前で少年の声になった。
遠い。
坂を上れない。
それだけの理由で、病人が施療院へ届かない。
リディアは一度、ゆっくり息を吸った。
「お名前は?」
「ニコ」
「ニコ。お母様は今、どこに?」
少年は路地の奥を指差した。
アルベルトが低い声で、護衛に指示を出す。
「医師を呼べ。同行の者でいい」
今回は現地確認のため、念のため簡易診察のできる医師が同行していた。アルベルトの準備の細かさに、今ほど感謝したことはない。
リディアは少年へ静かに言った。
「お母様を診てもらいましょう。お代は心配しなくていいわ」
少年は信じられないという顔をした。
「ほんとに?」
「ええ」
その返事をした瞬間、リディアは自分の言葉の重さを感じた。
お代は心配しなくていい。
それを言うには、仕組みが必要だ。
その場限りの善意では終わらせられない。今この少年の母を診てもらっても、次に同じような母親が出たとき、また誰かが偶然通りかからなければ助からないのでは意味がない。
だから“冬の灯火所”が必要なのだ。
リディアは立ち上がり、組合所を振り返った。
古い建物。
使われていない炉。
修繕の必要な床と窓。
そして、この路地の奥で咳をする母親。
すべてがつながった。
「旦那様」
リディアはアルベルトを見た。
「ここにしましょう」
アルベルトは彼女をじっと見た。
「決めるか」
「はい。欠点はあります。修繕も必要です。でも、ここなら路地の奥からも来られます。施療院へ行く前に暖を取る場所として、意味があります」
少し言葉が強くなった。
「この場所が必要です」
アルベルトは数拍、何も言わなかった。
それから短く頷く。
「わかった」
ただそれだけ。
けれどその一言で、リディアは胸の奥が熱くなった。
自分の判断が通った。
しかも、目の前の現実を見て決めた判断だ。
その後、医師が少年の母親を診に向かった。重症ではないが、放っておけば悪化した可能性があるという。薬湯と暖かい場所が必要だと聞いて、リディアは改めて拳を握りそうになり、すぐに手を開いた。
爪を立てない。
気づいたら離す。
アルベルトの言葉を思い出したからだ。
組合長との話し合いは、思いのほか長くなった。
修繕費。使用期間。夜番の手配。薪の置き場。組合所を貸す代わりの補償。職人たちの不安。
組合長は、最初は明らかに緊張していたが、リディアが一つ一つ聞いていくうちに、少しずつ話し方が変わった。
「奥様、本当にここが役に立つと思われますか」
彼が最後に尋ねた。
リディアはすぐに頷かなかった。
帳簿の上だけなら、もっと整った施設があったかもしれない。教会の一室を借りる案もあった。施療院に近い場所も候補には上がっていた。
でも、少年は言った。
遠い。坂を上れない。
その声を聞いてしまった。
「役に立つようにします」
リディアは答えた。
「ただ場所を借りるだけでは足りません。薪も、人も、医師への連絡も必要です。だから、きちんと仕組みにします」
組合長はしばらく黙り、それから深く頭を下げた。
「わかりました。組合として協力いたします」
その言葉を聞いた瞬間、リディアは大きく息を吐きそうになった。
けれどまだ終わりではない。
ここからが始まりだ。
帰りの馬車に乗るころには、リディアの足は少し重くなっていた。
慣れない道を歩き、緊張し、少年と話し、組合長と交渉した。疲れて当然だ。
以前なら、その当然を認められなかったかもしれない。
けれど今は違う。
馬車に乗るなり、リディアは自分から言った。
「少し、疲れました」
向かいのアルベルトが彼女を見る。
そして、ほんのわずかに目元を緩めた。
「よく言えた」
「そこを褒められるのですね」
「重要だ」
真顔だった。
リディアは少し笑って、窓の外へ目を向けた。
北区の古い街並みが、ゆっくり遠ざかっていく。
帳簿の向こうへ行った日、彼女は初めて“寒さ”にも顔があることを知った。
それは数字ではなく、ニコという少年の声だった。
遠い。坂を上れない。
その言葉を、リディアは忘れないだろうと思った。




