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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第40話 名前を載せるということは、逃げ道を消すことではなく、責任の置き場所を決めることだった

 温室で三十分休んだあと、リディアは作業室へ戻った。


 戻る前に、アルベルトから「歩く速度が仕事へ向かう速度ではない」と言われた。つまり、少し急ぎすぎだという意味らしい。


「普通に歩いているつもりです」


「君の普通は、焦っているときほど静かになる」


「……それは、もう癖ですね」


「なら直すのではなく、気づけばいい」


 最近のアルベルトは、こういう言い方をよくする。


 直せ、ではない。

 気づけ。


 それは、リディアにとってとても不思議な指示だった。


 侯爵家でも王宮でも、癖は矯正するものだった。間違いは消すもの。弱さは隠すもの。未熟さは見せないもの。


 でもアルベルトは、まず気づけと言う。


 気づければ、次に選べる。

 選べれば、少しずつ変えられる。


 その順番を、彼は決して飛ばさない。


 作業室へ入ると、オスカーがきちんと机の上を整えていた。リディアが温室へ行く前、広がりすぎていた北区の資料は、地区図、施療院記録、冬季死亡率、道路状況の四つに分類されている。


「お帰りなさいませ、奥様」


「ただいま。……本当に整理してくれたのね」


「はい。奥様が戻られた瞬間に仕事へ戻れるようにすると、旦那様に怒られそうでしたので、少しだけ余白を残してあります」


「余白?」


 リディアが机を見ると、確かに中央に何も置かれていない場所があった。そこには温かい茶と、蜂蜜を塗った小さな焼き菓子が置かれている。


「これは」


「休憩の続きです」


 オスカーは真面目な顔で言った。


「旦那様から、戻った直後に資料へ飛びつかせるな、と」


「私は猫か何かなの?」


「仕事へ飛びつくという意味では、少し」


「オスカー」


「失礼しました」


 エマが茶を注ぎながら、ほんの少しだけ目元を和らげている。


 リディアは溜息をつくふりをして、椅子に座った。出された茶を一口飲む。温かさが喉を通ると、温室で整った呼吸がまだ残っていることに気づいた。


 休むと、確かに戻りやすい。


 それを認めるのは少し悔しいが、事実だった。


「では、北区の件を見ましょう」


 リディアが言うと、オスカーは待っていましたとばかりに地区図を広げた。


 北区は王都の中でも古い街並みが残る場所だ。坂が多く、冬になると石畳が凍りやすい。貧しい職人や日雇いの労働者も多く住んでいるが、貴族の屋敷が密集する中央区からは遠く、支援の目が届きにくい。


 それでいて施療院への寄付額は少なくない。


 帳簿の上では、北区は決して見捨てられた地区には見えなかった。


 だが死亡率だけが高い。


 それがどうしても気にかかった。


「薬草も寝具も、そこまで不足していない。施療院の暖房も、少なくとも西区ほどひどくはない。でも冬季の死亡率が高い」


 リディアは地図の上へ指を置いた。


「問題は、やはり運び込まれるまでの時間だと思うわ」


 オスカーが頷く。


「雪や凍結で馬車が入りにくい路地がありますね。北区の奥から施療院へ行くには、この坂を越えなければならない」


「病人を連れて?」


「かなり厳しいです」


「なら、施療院へ運ぶ前に、一度休ませる場所が必要ね。暖が取れて、薬湯くらいは飲ませられて、容体が重い人だけを優先して馬車で送れる場所」


 リディアは別紙へ線を引いた。


「中継所。冬の間だけでいいわ」


「場所はどうします?」


「教会か、古い組合所。北区に職人組合の集会所があったはずだけれど」


「あります。冬場は利用が減るようです」


「そこを借りられないかしら。組合側には、薪代と簡単な修繕費を支援する形にすれば悪くないと思うの。中継所として使えば、組合の評判も上がる」


 オスカーの筆が走る。


「医師はどうしますか」


「常駐は難しいわね。施療院の負担が増える。なら、巡回医と見習い看護人を組ませる。重症者を見極める役が必要だから、最低でも一人は経験のある者を」


「費用が増えます」


「増える。でも、北区の死亡率が下がるなら意味はあるわ」


 そう言ってから、リディアは少しだけ口を閉じた。


 費用が増える。


 それは、とても現実的な問題だった。


 慈善は善意だけでは動かない。薪にも毛布にも薬にも、医師にも馬車にも費用がかかる。誰かの命を助けたいという言葉だけでは、冬の路地に中継所は建たない。


「どこから出すか、ですね」


 オスカーが言った。


「婦人会からは?」


「出せると思います。でも、ただ“北区中継所のために寄付を”と言っても、集まりにくいかもしれません」


「なぜ?」


「地味です。毛布や食料のように、寄付したものが見えやすくありません。中継所の運営費となると、貴婦人たちには少し想像しづらいでしょう」


 リディアは頷いた。


 それは確かにそうだ。


 人は見える善意を好む。毛布百枚、パン何箱、薬草何袋。そういうものはわかりやすい。けれど中継所の家賃、薪代、夜番の人件費、馬車の待機料となると、急に華やかさが消える。


 だが、命を救うのはしばしばそういう地味なものだ。


「なら、名前をつけましょう」


 リディアは静かに言った。


 オスカーが顔を上げる。


「名前、ですか」


「ええ。北区冬季救護中継所、では固すぎるわ。婦人会が支援したことがわかり、なおかつ現場の人も使いやすい名前……“冬の灯火所”はどうかしら」


「冬の灯火所」


「寒い道の途中で、灯りと暖を取れる場所という意味で」


 オスカーは数秒黙り、それから頷いた。


「悪くないと思います。貴婦人たちにも伝わりやすい」


「寄付者には、毛布や薬草ではなく“灯火を守る支援”として説明するの。薪代、夜番、馬車の待機費。それらがなければ灯火は消える、と」


「……奥様、言葉の使い方がだんだん旦那様より怖くなってきましたね」


「怖い?」


「人の心を動かす方向が実務に直結しています」


 リディアは少し考えてから言った。


「褒めているの?」


「かなり」


「では、ありがとうございます」


 今度は迷わず受け取れた。


 オスカーは少しだけ嬉しそうに笑い、すぐに文案を書き始める。


 その日の夕方、北区の中継所案はアルベルトの執務室へ運ばれた。


 リディアは自分で資料を持っていった。オスカーに任せてもよかったが、この案については自分の口で説明したかった。


 執務室へ入ると、アルベルトは王宮から届いたらしい封書を読んでいるところだった。


「北区か」


 書類を見せる前からそう言われ、リディアは少し目を瞬いた。


「どうしてわかるのですか」


「君がそういう顔をしている」


「どういう顔ですか」


「面倒な問題を見つけたが、解き方の入口が見えた顔だ」


 リディアは一瞬返事に詰まった。


 そんな顔があるのだろうか。


 けれどアルベルトが言うなら、きっとあるのだろう。少なくとも彼には見えるらしい。


「……北区の冬季死亡率が高い理由について、移送の遅れではないかと考えました」


 リディアは資料を広げた。


 地区図。冬季記録。施療院への搬送経路。坂道と凍結しやすい路地。職人組合所の位置。


 アルベルトは黙って目を通した。


 彼が資料を読む時間は短い。けれど雑ではない。必要なところへ正確に視線が走り、数秒後には全体の構造を掴んでいる。


「中継所か」


「はい。冬の間だけ、北区の奥に暖を取れる場所を設けます。巡回医と見習い看護人を置き、重症者だけを施療院へ送る仕組みにすれば、搬送前に悪化する人を減らせるのではないかと」


「費用は?」


「婦人会から募ります。ただし、単なる運営費では集まりにくいので、“冬の灯火所”という名で支援を呼びかけます」


 アルベルトの視線が、一瞬だけ止まった。


「冬の灯火所」


「……少し、甘すぎますか」


「いや」


 彼は紙へ目を戻す。


「使える」


 その一言で、リディアは胸の奥が少し温かくなった。


「薪代、夜番、馬車の待機費、簡単な寝台と薬湯。それらを“灯火を消さないための支援”としてまとめます。貴婦人たちには、物資だけでなく運営費を出す意味を伝えやすくなるかと」


「悪くない」


 アルベルトは地図を指で軽く叩いた。


「場所は組合所がいい。教会だと宗派の問題が出る。組合所なら実務で押し切れる」


「やはり宗派は問題になりますか」


「なる。慈善の場では信仰心も面子も武器になる」


「……難しいですね」


「だから仕組みで逃がす」


 アルベルトはそう言って、別紙に短く何かを書き込んだ。


「職人組合には、王宮慈善局から正式に依頼を出す。婦人会は資金面。宰相家は初期調整。君は事業案の助言役として名前を入れろ」


 最後の言葉に、リディアは手を止めた。


「名前を、ですか」


「ああ」


「私の?」


「他に誰の名を載せる」


 当然のように言われた。


 けれどリディアの胸は、そこで急に重くなる。


 名前を載せる。


 それは、案が通れば名誉になる。

 だが失敗すれば、責任も来る。


 北区の中継所がうまく機能しなかったら。

 費用だけかかって死亡率が下がらなかったら。

 貴婦人たちから、宰相夫人が口を出して失敗したと言われたら。


 そう考えた瞬間、体の奥が冷えた。


「……旦那様の名で出したほうが、通りやすいのではありませんか」


 リディアがそう言うと、アルベルトはすぐには答えなかった。


 静かに彼女を見ている。


 その目で、自分が何を恐れているのか見抜かれたのだとわかった。


「通すだけなら、私の名でいい」


 彼は言った。


「だが、それでは君の仕事にならない」


「でも、失敗したら」


「失敗の可能性はある」


 あまりにもあっさり言われ、リディアは胸を押されたような気がした。


 アルベルトは続ける。


「だから準備する。費用を詰める。組合所の状態を見る。巡回医の配置を確認する。失敗しないよう手を打つ」


「それでも、失敗したら?」


「原因を見て直す」


 簡単に言う。


 けれどリディアには、それがまだ簡単ではない。


 これまで失敗は、責められるものだった。

 侯爵家でも、王宮でも。


 間違えれば、自分の価値が下がる。

 期待に応えられなければ、役に立たないと見なされる。

 だからこそ、名前を載せることが怖い。


 アルベルトは、低い声で言った。


「リディア」


「はい」


「責任を負うことと、一人で背負うことは違う」


 その言葉に、リディアは顔を上げた。


「君の名前を載せるのは、功績を君から奪わないためだ。失敗したときに君だけへ押しつけるためではない」


 胸の奥が、ゆっくりと熱くなる。


「私も見る。王宮慈善局も動く。婦人会も資金を出す。組合も場所を貸す。これは君一人の事業ではない」


「でも、案は私のものです」


「だから名を載せる」


 アルベルトの声は揺れない。


「名前を載せるということは、逃げ道を消すことではない。責任の置き場所を決めることだ」


 リディアはしばらく何も言えなかった。


 責任の置き場所。


 その言葉が、胸の中で静かに形を持つ。


 以前の責任は、ただ押しつけられるものだった。

 侯爵家の面目。王太子妃候補としての正しさ。失敗できない役目。権限もなく、選ぶ余地もなく、ただ背負わされたもの。


 でも今は違う。


 自分が見つけ、自分が考え、自分が提案した。

 なら、その名前を隠す必要はない。


 怖い。

 けれど、逃げたいとは少し違う。


「……載せます」


 リディアは静かに言った。


「私の名前を、載せてください」


 アルベルトは短く頷いた。


「わかった」


「でも」


「何だ」


「怖いです」


 素直に言うと、アルベルトは少しだけ目を細めた。


「怖くていい」


 即答だった。


「怖いなら、確認を怠らない。怖さは悪いものではない。使い方を間違えなければな」


 リディアは小さく息を吐いた。


 怖ささえ、消すものではなく使うものだと言う。


 本当に、この人は何でも実務にしてしまう。


 けれど今は、その実務的な言葉がとてもありがたかった。


「では、まず組合所の確認ですね」


「ああ。現地を見たほうがいい」


「私も行きます」


 言った瞬間、アルベルトの眉がわずかに動いた。


「北区だぞ」


「わかっています」


「坂が多い。道も悪い。王都中心部とは違う」


「だから、見たいのです」


 リディアは資料へ視線を落とした。


「帳簿だけではわからないことがあると、王妃陛下の前で申し上げました。なら、私も見なければ」


 アルベルトはしばらく黙っていた。


 止められるかもしれないと思った。危ない、疲れる、無理だ、と言われるかもしれない。


 だが彼は、結局こう言った。


「行くなら、準備して行く」


 リディアは少しだけ顔を明るくした。


「はい」


「靴を変えろ。ドレスも軽いものにする。護衛をつける。時間は午前中。昼前には戻る」


「……細かいですね」


「当然だ」


 リディアは思わず笑った。


 怖さはまだある。


 でも、その怖さの横に、確かな足場ができていた。


 自分の名前で案を出す。

 現場を見る。

 必要な準備をして、責任の置き場所を決める。


 それは、以前のリディアには想像もできなかったことだった。


 執務室を出る前に、アルベルトがふと声をかけた。


「リディア」


「はい」


「今日の案は、よかった」


 短い言葉。


 けれどリディアは、もうそれを小さく否定しなかった。


「ありがとうございます」


 まっすぐ受け取る。


 アルベルトは満足したように、ほんのわずかに頷いた。


 作業室へ戻る廊下で、リディアは胸元の資料をそっと抱え直した。


 怖い。

 でも、進みたい。


 その二つが同時にあることを、今は否定しなくていいと思えた。

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