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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第39話 休むことまで仕事だと言われて、私はまた少しだけこの人に甘えてしまう

王宮へ行った翌朝、リディアは少し遅く目を覚ました。


 目を開けた瞬間、天蓋の布がぼんやりと揺れて見えた。窓の外はもう明るい。いつもならエマが来る前に目を覚ましていることが多いのに、今日は先に朝が部屋へ入り込んでいた。


 体が重い。


 熱があるわけではない。頭痛もしない。ただ、体の芯に鉛のような疲れが残っている。昨日、王宮で王妃に報告し、慈善局の助言役を引き受け、廊下でエドワードと向き合った。その一つ一つは何とか乗り越えたはずなのに、緊張は夜のうちに体へ沈み込んでいたらしい。


「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」


 エマの声が聞こえた。


「ええ……ごめんなさい、遅くなったわ」


 そう返すと、扉の向こうでほんの少し間があった。


「謝ることではございません」


 その言葉に、リディアは寝台の中で小さく苦笑した。


 この屋敷へ来てから、何度それを言われただろう。

 謝ることではない。

 無理に起きなくていい。

 食べられるものを食べればいい。

 疲れているなら休めばいい。


 まだ完全には慣れない。


 けれど、以前ほど強く否定もしなくなった。


 エマが入ってくると、朝の支度はいつもよりゆっくりと始まった。湯も少し温かめで、用意された朝食も軽かった。薄いスープ、小さなパン、柔らかい果物。エマはリディアの顔色を見て、何も言わずに量を控えめにしてくれていたらしい。


「今日は、作業室へ行く前に少し休まれては」


 髪を梳きながら、エマが静かに言う。


「でも、王妃陛下の件で資料を整理しないと」


「オスカー様が既にお越しです」


「なら、なおさら行かないと」


「オスカー様からは、“奥様がお休みになるなら、自分は仮眠を取る口実ができます”とのことでした」


 思わぬ言葉に、リディアは鏡越しにエマを見た。


「それ、本当にオスカーが?」


「はい。かなり真剣なお顔で」


 想像して、少しだけ笑ってしまう。


 真面目な顔で冗談を言うところは、近ごろアルベルトに似てきた気がする。いや、もともとそういう人だったのかもしれない。こちらが少しずつ、周囲の表情を見られるようになってきただけで。


「では、少しだけ遅れて行くわ」


「はい」


「でも、本当に少しだけよ」


 そう言うと、エマは返事の代わりに、鏡の中でわずかに目を細めた。


 きっと“少しだけでは済まないかもしれませんね”と思っている顔だ。


 リディアにも、それくらいはわかるようになっていた。


 それでも結局、朝食を終えたあと、彼女は作業室へ向かった。


 足取りは少し重かったが、気持ちだけは急いていた。王宮慈善局に関わることが決まった以上、資料の整理はさらに重要になる。婦人会から上がってくる各家の後援先、慈善局の従来の配分方法、現場報告の書式案。それらをまとめ直さなければならない。


 作業室に入ると、オスカーは既に机に向かっていた。


 だが、書類を広げているだけで、筆は動いていない。


「おはようございます、奥様」


「おはよう。……仕事をしていなかったの?」


「旦那様より、奥様が来るまで本格的な作業を始めるなと」


「旦那様が?」


「はい。奥様が来たら、まず座らせて茶を飲ませろとも」


 リディアは言葉を失った。


 机の横には、既に温かい茶が用意されている。香りは弱く、少しだけ蜜の甘さがある。どう見ても、作業前に落ち着かせるためのものだった。


「……そこまで言われているのね」


「はい。かなり具体的に」


「旦那様は、私をどれほど信用していないのかしら」


「奥様が無理をなさることについては、非常に信用しておいでかと」


 あまりにも的確な返しに、リディアは反論できなかった。


 仕方なく椅子へ座り、茶へ手を伸ばす。温かい液体が喉を通ると、思っていた以上に体が冷えていたのだと気づいた。


 オスカーはその様子を見てから、ようやく書類を一束差し出した。


「王妃陛下への報告を受けて、慈善局から追加で届いたものです。現行の報告書式と、各地区の過去五年分の集計ですね」


「五年分?」


「はい。旦那様が要求しました」


「……いつの間に」


「昨日のうちに」


 それはつまり、王宮から戻ったあと、リディアが温室で休んでいる間に、アルベルトは既に次の手を打っていたということだ。


 胸が少し温かくなると同時に、少しだけ呆れる。


 あの人は本当に早い。


 リディアは書類をめくった。地区別の支援額、施設別の配分、備蓄倉の在庫、死亡率や冬季疾病の簡易記録まである。だが形式はばらばらで、同じ項目でも年によって呼び方が違う。


「……これは、整理に時間がかかるわね」


「はい。なので、今日は大分類だけ作る予定です」


「まず孤児院、施療院、備蓄倉。それから地区別、年齢別、物資別に分けて」


 リディアの頭が自然に動き始める。


 疲れているはずなのに、紙を見ると考えが回る。必要なものが見えてくる。以前はそれが“役目”のためだった。今は違う。ここで整えれば、次の冬に誰かが助かるかもしれない。


「南区はやはり暖房関係が弱いわ。東区は報告が雑だけれど、実数は近い。西区は貴族支援が厚いけれど、偏りが大きい。北区は……あら」


 リディアは一枚の紙で手を止めた。


「北区の施療院、死亡率が高すぎない?」


 オスカーが身を乗り出す。


「北区ですか? あそこは比較的支援が入っているはずですが」


「支援額は多い。でも、冬季の死亡率が他より高い。薬草も寝具も足りているのに……」


 リディアは紙を並べ直した。


「もしかして、搬送が遅いのかしら。北区は坂が多いし、雪が降ると馬車が入りにくい道があるはず」


「では、物資ではなく移送手段の問題?」


「たぶん。施療院へ届く前に悪化しているのかもしれない。なら、巡回医か、冬の間だけ中継所を置く必要があるわ」


 話しながら、リディアは筆を取った。


 疲れはどこかへ押しやられていた。目の前の紙に集中していると、体の重さを忘れそうになる。


 忘れそうになったところで、扉が開いた。


「そこまでだ」


 低い声。


 リディアの手が止まる。


 アルベルトが、入口に立っていた。


 外套は着ていない。どうやら屋敷内の執務室から来たらしい。手には書類を持っていない。ただ、リディアの机の上に広がった紙を一瞥し、次に彼女の顔を見た。


「旦那様。まだ始めたばかりです」


「顔色が始めたばかりではない」


「ですが、北区の件が」


「オスカーが書ける」


 即座に言われ、オスカーが背筋を伸ばした。


「はい、書けます」


「ほら」


「ほら、ではありません」


 思わず返してしまってから、リディアは少しだけ目を瞬いた。


 今の言い方は、あまりにも遠慮がなかった。


 オスカーが視線を落として肩を震わせている。エマならきっと、また目元を和らげていただろう。


 アルベルトは怒らなかった。

 むしろ、ほんの少しだけ目を細めた。


「反論できる元気があるなら、休める」


「その理屈はおかしくありませんか」


「おかしくない。君は疲れると、休むより先に仕事を増やす」


 図星だった。


 リディアは口を閉じる。


 アルベルトは机の上の紙を一枚取り上げ、ざっと目を通した。


「北区の件は悪くない。中継所案も検討に値する」


「でしたら」


「だからこそ、頭が回るうちに止めろ」


 低い声が、少しだけ強くなる。


「疲れ切ってから続ければ、次にその案を見るのが嫌になる」


 リディアは言葉に詰まった。


 それは少し、わかる気がした。


 侯爵家にいたころも、王宮で学んでいたころも、限界までやったものほど、あとで見るのがつらくなった。勉強も礼法も、慈善事業の知識さえも。苦しさと一緒に覚えたものは、どれほど役に立っても心が身構える。


 アルベルトはそれを避けようとしているのだ。


 この仕事が、リディアにとってまた“自分を削るもの”にならないように。


「……休むことまで管理されている気がします」


「必要なら管理する」


「過保護です」


「否定はしない」


 そこで否定しないのかと、リディアは思わず彼を見た。


 アルベルトは表情を変えない。


「君はまだ、自分の疲労を軽く見る。なら、慣れるまではこちらで止める」


「慣れたら?」


「自分で止まれ」


「……難しそうです」


「だろうな」


 あまりにも迷いなく言われ、リディアは少し笑ってしまった。


 その笑いが出た瞬間、アルベルトの視線が一拍止まる。


 リディアはそれに気づいたが、今度は目を逸らさなかった。


「わかりました。休みます」


「よろしい」


「でも、北区の中継所については、あとで続きを」


「午後にする」


「午後まで休むのですか」


「昼食を取って、温室で三十分座れ」


「具体的ですね」


「具体的でないと、君は十分钟で戻る」


 オスカーがとうとう小さく咳払いをした。


 笑いを堪えているのが見え見えだった。


 リディアは少しだけ頬を熱くしながら、書類をそっとまとめた。


「では、温室へ行ってきます」


「食べてからだ」


「……はい」


 昼食は、私室で軽く用意された。


 スープと、小さなパンと、果物。いつも通り食べやすい量だったが、今日は意識して少しゆっくり食べた。仕事へ戻りたい気持ちはある。北区のことも気になる。だが、アルベルトの言葉が胸に残っていた。


 疲れ切ってから続ければ、次にその案を見るのが嫌になる。


 それは嫌だった。


 慈善事業を、また自分を追い詰めるものにしたくない。


 だから食べる。

 休む。

 温室へ行く。


 そう決めることも、仕事の一部なのだと自分に言い聞かせた。


 温室は、昼の光で満たされていた。


 ガラス越しの日差しは柔らかく、湿った土と若葉の匂いが胸に入ってくる。ブルースターは昨日よりもいくつか花を開いていて、淡い青が小さく揺れていた。


 リディアは奥の腰掛けへ座る。


 最初の数分は、落ち着かなかった。


 何もしていない自分に、どこか後ろめたさがあった。作業室ではオスカーが資料を整理している。アルベルトも執務をしている。慈善局からの書類は山ほどある。


 自分だけが花を見ている。


 その事実が、少しだけ居心地悪い。


 けれど十分钟ほど経つと、呼吸が深くなってきた。


 花を見る。

 葉の影を見る。

 ガラスに映る光を見る。


 何もしない時間の中で、頭の中に散らばっていた数字が少しずつ静かに沈んでいく。北区の死亡率、移送路、中継所の候補地。焦って追いかけていたものが、落ち着いた形へ並び始めた。


 休むと、考えが止まるわけではない。


 むしろ、整うのだ。


 それは新しい発見だった。


 三十分を少し過ぎたころ、温室の入口が開いた。


 アルベルトだった。


「戻らないから見に来た」


 第一声がそれだった。


 リディアは少し笑った。


「三十分座れと仰ったので」


「珍しく守ったな」


「珍しく、は余計です」


「事実だ」


 またそれだ。


 リディアは苦笑しながら、隣ではなく少し離れた椅子を示した。


「旦那様も、少し休まれては?」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 アルベルトに休めと言う日が来るなんて。


 彼も一瞬、意外そうにした。


「私が?」


「はい。旦那様も、疲れる前に止めるべきでは?」


 自分で言いながら、どこかで彼の言葉をそのまま返していることに気づく。


 アルベルトはしばらくリディアを見ていた。


 それから、珍しく小さく息を吐いた。


「返してくるようになったな」


「学びました」


「悪くない」


 そう言って、彼は本当に椅子へ座った。


 温室の中に、静かな時間が流れる。


 リディアは驚きながらも、何も言わなかった。

 彼が椅子に座り、数分だけでも仕事から離れている。その事実が、なぜか少し嬉しかった。


「休むことまで仕事なのですね」


 リディアはぽつりと言った。


「そうだ」


 アルベルトは即答する。


「長く続けるつもりならな」


 長く続ける。


 その言葉が、胸に残った。


 慈善事業も。

 自分の変化も。

 この屋敷での生活も。


 どれも、短い努力で終わるものではない。

 長く続けるには、壊れないようにしなければならない。


「私は、長く続けたいです」


 自然と、そう言っていた。


 アルベルトが彼女を見る。


「慈善事業をか」


「それもあります」


「他には?」


 問われて、リディアは少し考えた。


 自分でも、何を指しているのかはっきりしていなかった。けれど言葉にするなら、たぶんこうだ。


「この屋敷で、ちゃんと息をすることを」


 アルベルトは何も言わなかった。


 けれどその沈黙は、いつものようにこちらを急かさない沈黙だった。


 リディアは続ける。


「仕事をして、休んで、食べられるものを食べて、疲れたら疲れたと言って、好きな花を見に来ることを……長く続けたいです」


 言い終えると、少し恥ずかしくなった。


 たいした望みではない。

 けれど、リディアにはそれがとても大事なことのように思えた。


 アルベルトは静かに言った。


「なら、続ければいい」


 簡単な言葉だった。


 でも、彼が言うと、それが本当にできることのように聞こえる。


「はい」


 リディアは小さく頷いた。


 温室のブルースターが、淡い光の中で揺れている。


 休むことまで仕事だと言われて、少しだけ反発した。


 でも今は、その意味がわかる。


 壊れずに続けるために休む。

 自分を削らないために立ち止まる。

 そしてまた、必要な場所へ戻っていく。


 そのやり方を、リディアは今、少しずつ覚え始めていた。

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