第38話 「少し話したい」と言われても、もう私は過去へ戻らなかった
王宮の廊下で、リディアは一度だけ足を止めた。
王太子エドワードが、まだこちらを見ていたからだ。
先ほどまで、王妃の前で慈善局の冬季支援について話していた。南区の孤児院、西区の施療院、婦人会の後援内容、現場報告の扱い方。王妃に条件を出し、慈善局長の前で必要な権限について口にした。
その緊張は、今になって少しずつ体に戻ってきている。
足が重い。
指先が冷たい。
喉の奥が少し乾いている。
けれど、目の前にいるエドワードを見ても、胸が崩れるような感覚はなかった。
痛みはある。
あの日、東の回廊で告げられた言葉は、なかったことにはならない。
あのとき感じた恥も、悔しさも、自分の価値が床へ落ちたような冷たさも、簡単には消えない。
それでも今、リディアは思った。
もう、あの人の一言で自分の立つ場所は決まらないのだと。
「リディア」
エドワードが名を呼んだ。
今度は先ほどよりも少し低い声だった。王太子としての整った響きではなく、どこか迷いの混じった声。
リディアは静かに彼へ向き直る。
「はい、殿下」
呼び方は変えなかった。
その小さな距離が、エドワードの表情をわずかに曇らせたように見えた。
「少し……話せないか」
その場の空気が、ほんの少し止まった。
廊下の奥に控えていた女官が、何も聞かなかったふりをして視線を伏せる。アルベルトは隣で沈黙していた。だが、その沈黙は無関心ではない。リディアがどう答えるかを待っている沈黙だった。
決めるのは自分。
それがわかるから、リディアはすぐに答えなかった。
エドワードと話す。
それは、少し前の彼女なら考えるだけで心臓が冷えたはずだ。何を言われるのか、何を思われているのか、自分はどんな顔をすればいいのか。そんなことばかり考え、息が詰まっていたに違いない。
けれど今は、まず別のことを考えている自分がいた。
自分は疲れている。
王妃への報告を終えたばかりだ。
ここで無理をしてまで、過去の相手と向き合う必要があるのか。
リディアは静かに息を吸った。
「申し訳ございません、殿下」
エドワードの目が揺れる。
リディアは続けた。
「本日は王妃陛下への報告で、少し疲れております。改めて必要なお話がございましたら、正式にお手紙をいただけますでしょうか」
言えた。
逃げるのではなく、線を引いた。
感情で拒んだのではない。
必要なら正式な手順を通してほしい、と伝えた。
それが今の自分にできる、精一杯の距離の取り方だった。
エドワードは一瞬、言葉を失ったようだった。
かつての彼なら、リディアが拒むとは思わなかったのかもしれない。
あるいは、自分が声をかければ、彼女はいつでも立ち止まり、静かに話を聞くと思っていたのかもしれない。
その思い込みが、今この廊下で砕けた。
「……そうか」
ようやく彼は言った。
「疲れているなら、仕方ないな」
その言葉は一見穏やかだった。けれど、微かに苦さが滲んでいる。
リディアは深く礼を取った。
「失礼いたします」
そのまま歩き出そうとしたとき、エドワードがもう一度口を開いた。
「リディア」
足が止まる。
リディアは振り返らなかった。
けれど声だけは聞こえた。
「……君は、変わったな」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
変わった。
そう言われることを、少し前まで怖いと思っていた。
王太子妃候補としての自分から外れてしまうこと。
侯爵家の娘としての正しさを失うこと。
誰かの期待していた“リディア”ではなくなること。
けれど今、その言葉は不思議と責めには聞こえなかった。
リディアはゆっくり振り返る。
「はい」
静かに答えた。
「変わったのだと思います」
エドワードは目を見開いた。
リディアは続ける。
「けれど、それは悪いことではないと、今は思っております」
自分で言って、胸の奥に確かなものが残る。
悪いことではない。
食べられないことを責められなくなったこと。
疲れたと言えるようになったこと。
好きな花を好きだと口にできるようになったこと。
仕事の成果を、自分のものとして受け取れるようになったこと。
そして、過去の相手に線を引けるようになったこと。
それらはきっと、悪い変化ではない。
エドワードは何か言いたげに唇を動かした。
だが、今度はアルベルトが静かに一歩だけ前へ出た。
「殿下」
声は礼を失わない。
だが、明確に会話を終わらせる響きがあった。
「妻を休ませます」
妻。
また、その言葉。
リディアは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
エドワードの視線が、アルベルトへ移る。
その目に一瞬だけ、悔しさに近い感情が走った気がした。けれどそれはすぐ、王太子としての顔の奥へ隠される。
「……ああ」
短く返し、彼は道を空けた。
リディアはもう一度だけ礼をし、アルベルトと共に歩き出した。
背中に視線を感じる。
けれど、足は止まらなかった。
王宮の廊下は、以前よりずっと長く感じるときがあった。
自分がどこへ向かっているのかわからず、誰の期待に応えればよいのかもわからず、ただ正しい歩幅だけを守って歩いていたからだ。
でも今日は違う。
出口へ向かっている。
帰る場所へ戻るために。
馬車へ乗り込むと、ようやく体から力が抜けた。
扉が閉まり、王宮のざわめきが遠のく。
その瞬間、リディアは自分が思っていた以上に疲れていたことに気づいた。背中が重い。肩も張っている。さっきまでは何とか保っていた指先の冷たさが、急に自覚される。
向かいに座ったアルベルトは、彼女を一目見ただけで言った。
「よく断った」
褒め言葉としては、やはり少し変だった。
けれどリディアには、意味がわかった。
「……断って、よかったのでしょうか」
不安が遅れてやってくる。
王太子の申し出を、その場で受けなかった。
正式な手紙を求めた。
それは無礼ではなかっただろうか。
アルベルトは即答した。
「よかった」
「本当に?」
「必要のない会話で君が消耗する理由がない」
あまりにも明快だった。
リディアは少しだけ笑いそうになる。
「旦那様は、殿下にも容赦がないのですね」
「王太子だろうと、必要のないものは必要ない」
「……本当に、変わりませんね」
「変わる必要がない」
その返しに、リディアは今度こそ小さく息を漏らした。
笑ったのだと、自分でわかった。
それだけで、馬車の中の空気が少し柔らかくなる。
アルベルトの視線が一瞬だけ止まったが、彼は何も言わなかった。
リディアは窓の外へ目を向ける。
王宮の白い壁が少しずつ遠ざかっていく。
あの中に、かつての自分がいた。
誰かに選ばれるために整えられ、失敗しないために息を詰め、褒められても縮こまり、捨てられたら自分の価値が消えたと思い込んでいた自分が。
でも今、その場所から離れていく自分は、前とは違う。
「旦那様」
「何だ」
「少し、怖かったです」
「ああ」
「でも、戻りたいとは思いませんでした」
そう言えた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
アルベルトはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「それでいい」
たった一言。
それだけで、リディアは今日の自分を少し許せる気がした。
王宮で過去とすれ違い、呼び止められ、それでも戻らなかった自分を。
その日の夕方、王宮では別の空気が流れていた。
王太子エドワードは、執務室の窓辺に立ったまま、しばらく動けずにいた。
リディアが去ってから、ずっと胸の中に残っている言葉がある。
――変わったのだと思います。
――けれど、それは悪いことではないと、今は思っております。
あの声は静かだった。
以前のリディアなら、あんなふうには言わなかった。
少なくとも、エドワードの前では。
彼が声をかければ、彼女はいつも立ち止まった。必要以上に礼儀正しく、感情を見せず、こちらが望む距離で会話を受けた。
今日もそうだと思っていたのかもしれない。
少し話したいと言えば、応じるのだと。
けれど彼女は断った。
疲れているから、と。
必要な話なら正式に手紙を、と。
それは冷たい拒絶ではなかった。
むしろ完璧に礼儀正しかった。
だからこそ、余計に胸へ刺さった。
リディアはもう、自分の声で引き止められる場所にいない。
その事実を、今日ほどはっきり突きつけられたことはなかった。
「殿下」
侍従が控えめに声をかける。
「次の会議のお時間です」
「……わかっている」
返事をしながらも、エドワードは窓から目を離せなかった。
遠くに、宰相家の馬車が走り去るのが見えた気がした。
隣には、きっとアルベルトがいる。
あの冷たい宰相が、当たり前のようにリディアを守り、休ませ、必要なら王太子である自分との会話さえ断ち切る。
その光景を思い出すだけで、胸の奥がざらついた。
嫉妬なのか、後悔なのか、苛立ちなのか。
うまく名づけられない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
自分が「息が詰まる」と切り捨てた女は、今、別の場所で呼吸を取り戻している。
そしてその姿は、かつて彼の隣にいたどんな瞬間よりも、強く、美しく見えた。
エドワードは机の上に置かれた資料へ視線を落とした。
王妃の慈善局報告に関する写しが、既に回ってきている。
そこには、宰相夫人リディア・グランディスの提案として、地区別、年齢別、用途別の支援管理案が記されていた。
リディアの名が、正式な資料に載っている。
王太子妃候補としてではなく。
自分の隣に立つ予定だった女としてでもなく。
一人の実務者として。
そのことが、エドワードの胸を深く抉った。
なぜ、自分は見なかったのだろう。
彼女が持っていたものを。
彼女が黙って耐えていたものを。
彼女が本当は、ただ冷たい女などではなかったことを。
今さら気づいたところで遅い。
わかっている。
だが遅いとわかっているからこそ、後悔はさらに重くなる。
その頃、宰相家へ戻ったリディアは、自室ではなく温室へ向かっていた。
疲れているなら休め、とアルベルトには言われた。
だが彼は温室へ行くことを止めなかった。
「座るだけなら、休息のうちだ」と言ったのだ。
その言い方があまりに彼らしくて、リディアは少し笑った。
温室の空気は、王宮のそれとはまるで違っていた。
湿った土の匂い。
青い葉の香り。
淡いブルースターの花。
リディアは奥の腰掛けに座り、深く息を吸った。
王宮へ戻った。
王妃へ報告した。
王太子に会った。
話したいと言われた。
断った。
どれも、少し前の自分には大きすぎる出来事だった。
けれど今、彼女はここにいる。
壊れていない。
過去に戻ってもいない。
ただ疲れて、少し安心している。
それで十分だった。
やがて、温室の入口にアルベルトが現れた。
「眠っているかと思った」
「眠ってはいません」
「顔が少し緩んでいる」
「それは……安心しているからかもしれません」
そう言うと、アルベルトは少しだけ目を細めた。
「そうか」
短い返事。
リディアはブルースターへ視線を向けた。
「今日、殿下に“変わった”と言われました」
「ああ」
「以前なら、怖かったと思います。変わったと言われることが」
「今は?」
リディアは少し考えた。
温室の湿った空気を吸い、花の淡い青を見つめながら、ゆっくり答える。
「今は……少し、嬉しいです」
アルベルトは何も言わなかった。
ただ、リディアの隣ではなく、少し離れた場所に立ったまま、静かにその言葉を受け取った。
その距離が、今はとても心地よかった。
リディアは膝の上で手を重ねる。
掌に爪は立てていない。
それに気づいて、また少しだけ嬉しくなった。




