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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第37話 王妃様の前で、私は初めて“過去”ではなく“仕事”を見られた

 王妃の私室へ続く扉の前で、リディアは一度だけ息を整えた。


 王宮の奥へ進むほど、空気は昔の記憶に近づいていく。


 磨かれた床。

 音を吸う厚い絨毯。

 壁に飾られた王家の肖像画。

 すれ違う女官たちの、静かだが隙のない礼。


 何もかもが、リディアの知っている王宮だった。


 けれど、今日は違う。


 彼女は王太子妃候補としてここにいるのではない。

 誰かに選ばれるためでも、誰かの期待に合わせて美しく立つためでもない。

 南区の孤児院で眠れた子どもたちと、西区の施療院で冬を越す患者たちと、東区で保存食を待つ現場のために、資料を持ってここに立っている。


 そう思うと、胸の奥の震えが少しだけ形を変えた。


 怖さはある。


 でも、意味のある怖さだった。


「リディア」


 隣でアルベルトが短く呼ぶ。


「はい」


「声が小さくなりそうなら、先に資料を開け。紙を見れば戻れる」


 彼らしい助言だった。


 励ましではない。

 精神論でもない。

 具体的な対策。


 リディアは思わず少しだけ口元を緩めた。


「はい。紙を見ます」


「それでいい」


 女官が扉を開ける。


 王妃エレオノーラは、窓際に近い席に座っていた。


 年齢を重ねた美しさを持つ人だった。華美な装いではない。深い藍色のドレスに、真珠と銀細工だけを合わせている。それなのに、部屋の中心がどこにあるのかは一目でわかった。


 王妃とは、そういう存在なのだ。


 リディアは深く礼を取った。


「王妃陛下にご挨拶申し上げます」


「よく来てくれましたね、リディア」


 王妃の声は柔らかかった。


 だが、その柔らかさは社交界の夫人たちのものとは違う。甘く包みながら相手を探る声ではなく、きちんと相手を正面から迎える声だった。


「宰相閣下も、忙しいところを」


「妻の報告に同席するだけです」


 アルベルトが淡々と答える。


 妻。


 その一語に、リディアの胸が一瞬だけ跳ねた。


 もう何度も聞いているはずなのに、王宮の中でそう言われると、不思議と意味が重くなる。


 王妃はほんの少し目元を和らげた。


「では、座ってください。今日は形式ばった謁見ではありません。実務の話を聞きたいのです」


 その言葉で、リディアは少しだけ肩の力を抜いた。


 案内された席には、王妃のほか、慈善局の局長、女官長、記録係の女官が控えていた。人数は多くない。けれど全員、ただ茶を飲みに来た顔ではなかった。


 机の上には、既にいくつかの資料が置かれている。


 リディアが提出した事前資料の写しだ。


 王妃は一枚を手に取った。


「南区第二孤児院。毛布と薪の配分見直し。東区第三孤児院への保存食追加。西区施療院への寝具と暖房支援……どれも細かいところまで見ていますね」


「慈善局と婦人会からの報告を基に、現場の不足が見えるよう整理いたしました」


 声は、思ったより落ち着いていた。


 リディアは資料を開く。


 アルベルトの言った通りだった。紙を見ると、呼吸が戻る。そこには自分が積み上げてきたものがある。感情だけで立っているわけではないと思える。


 王妃は静かに頷いた。


「まず、あなたの言葉で説明してもらえますか。なぜ南区を優先したのか」


「はい」


 リディアは南区の表を前へ出した。


「南区第二孤児院は、前年より孤児の人数が増えております。特に五歳以下の子どもが多く、冬季に体調を崩す危険が高い状態でした。ですが、慈善局の当初配分では、独自支援があるという理由で毛布と薪が減らされていました」


 慈善局長が少しだけ目を伏せる。


 責めるつもりはなかった。


 けれど事実は事実として言わなければならない。


「独自支援の内訳は食料中心です。暖房物資ではありません。ですので、食料支援があるからといって、毛布と薪を減らすべきではありませんでした」


 王妃は資料へ目を落としたまま尋ねる。


「それで実際に、支援後はどうなりましたか」


「孤児院から感謝状が届きました。子どもたちが、久しぶりに朝まで眠れたそうです」


 言った瞬間、胸の奥が少し熱くなった。


 壁に飾られた絵を思い出す。


 青いドレスの女性。

 大きな鍋。

 湯気の立つスープ。

 おくさま、ありがとう。


 王妃は顔を上げた。


「朝まで眠れた」


「はい」


「……それは、数字では見えませんね」


「はい。ですが、本来はそこが一番大切なのだと思います」


 リディアは少しだけ指先に力を入れた。


「帳簿の上では、配分が完了すれば支援は済んだことになります。でも、現場では“届いたものが本当に役に立ったか”が重要です。毛布が足りなければ眠れません。薪が足りなければ、薬があっても身体は冷えます。保存食があっても、調理できる人手がなければ使いきれません」


 部屋の中が静かになる。


 リディアは続けた。


「ですから、今後は寄付額や物資の数だけでなく、用途と現場の状況を合わせて見る仕組みが必要です」


 慈善局長が口を開いた。


「奥様、仕組みというのは、具体的には」


「地区別、年齢別、施設別の三つで集計を分けることです」


 リディアは別の紙を出した。


「今の報告書は施設単位ではありますが、地区ごとの偏りが見えにくくなっています。また、孤児院の人数だけを見ても、年齢の内訳がわからなければ、必要な物資を誤ります。施療院も同じです。患者数だけではなく、寝台数、暖房可能な部屋の数、薬草の使用量を分けて見るべきです」


 女官長が記録係へ目配せする。


 記録係の筆が走る音がした。


 その音を聞きながら、リディアは不思議な感覚を覚えていた。


 自分の言葉が、記録されている。


 かつて王宮でリディアが口にした言葉は、多くの場合、正しいかどうかを判断されるためのものだった。間違えれば直され、良くても当然として流された。


 けれど今は違う。


 実務の言葉として、残されている。


「もう一つ、気になった点があります」


 リディアは少し迷ってから、そう付け加えた。


 慈善局長が姿勢を正す。


「何でしょうか」


「現場の報告が、上に上がるほど綺麗になりすぎています」


 その瞬間、部屋の空気が少し変わった。


 王妃の目が、わずかに鋭くなる。


 リディアは言葉を選びながら続けた。


「もちろん、報告書として整えることは必要です。ですが、余りや不足が綺麗に均されすぎると、かえって実情が見えません。東区第三孤児院の報告は、最初は雑に見えました。けれど余っているものは余っている、不足しているものは不足していると書かれていました。あれは信頼できます」


「整っていない報告のほうが、信頼できる場合があると?」


 王妃が尋ねる。


「はい。少なくとも、見栄えを整えようとしていない分、現場に近い声が残っています」


 リディアは一度、息を吸った。


「慈善の報告は、美しく整えすぎてはいけないのだと思います。困っている場所は、綺麗には見えませんから」


 自分で言って、胸の奥が少し痛んだ。


 困っている場所は、綺麗には見えない。


 それは人も同じだ。


 苦しさを綺麗に整えてしまうと、誰にも見えなくなる。

 見えなくなった痛みは、なかったものにされる。


 リディアは、そうされてきた。


 だから今、この言葉だけはどうしても譲れなかった。


 王妃はしばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。


「リディア。あなたは王太子妃候補だった頃より、ずいぶん話すようになりましたね」


 その一言に、リディアの胸が小さく強張る。


 昔の自分の話が出た。


 けれど王妃の声には責める響きはなかった。


「……以前の私は、必要以上に言葉を選んでおりました」


「そうですね。あなたはいつも正しかった。でも、遠かった」


 遠かった。


 その表現は少しだけ胸に刺さった。


 王妃は続けた。


「私は、あなたが冷たい娘だとは思っていませんでした。ただ、ずいぶん固く閉じ込められているとは感じていました」


 リディアは言葉を失う。


 王妃は見ていたのだろうか。


 自分でも知らないうちに、固く閉じ込められていたことを。


「けれど、今日のあなたの言葉は違います。数字を見ているのに、そこにいる人を見失っていない」


 王妃の声は穏やかだった。


「よい報告でした」


 褒められた。


 王妃に。


 以前なら、反射的に身を縮めていただろう。

 身に余ります、と言って、褒め言葉の重みから逃げていたかもしれない。


 でも今は、少し違った。


 リディアは膝の上で手を重ね、静かに頭を下げる。


「ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しく存じます」


 言えた。


 受け取れた。


 その小さな事実に、胸の奥で何かが温かくなる。


 アルベルトが隣でほんの少し視線を動かしたのがわかった。

 何も言わない。

 けれど、気づいている。


 王妃は微笑んだ。


「では、次の話をしましょう」


「はい」


「あなたには、王宮慈善局の冬季支援計画に、助言役として関わってほしいのです」


 リディアは目を見開いた。


「私が、ですか」


「ええ。正式な官職ではありません。けれど宰相夫人として、婦人会と慈善局の橋渡しをしてもらいたい。貴婦人たちの寄付を、現場に合わせて動かす役です」


 胸が一気に熱くなる。


 それは名誉だった。


 だが同時に、とても重い役目でもある。


 王宮慈善局に関わるということは、ただ宰相家の中で帳簿を見るのとは違う。社交界、王宮、貴族家、現場。そのすべての間に立つことになる。


 怖くないはずがない。


 リディアは隣のアルベルトを見た。


 彼は何も言わなかった。


 決めるのは君だ、と言うように。


 逃げてもいい。

 受けてもいい。

 ただし、理由を持て。


 そんな沈黙だった。


 リディアは王妃へ向き直った。


「お受けする前に、一つだけお願いがございます」


 王妃の眉がわずかに上がる。


「言ってみなさい」


「助言役として関わるなら、形式的な視察や寄付披露ではなく、現場報告を直接確認できる権限が必要です。また、婦人会からの寄付は、金額ではなく用途と結果で記録したいのです」


 言ってから、少しだけ心臓が強く打った。


 王妃に条件を出している。


 昔の自分なら考えられない。


 慈善局長も少し驚いた顔をしている。


 だが王妃は、しばらくリディアを見つめたあと、楽しそうに目を細めた。


「宰相閣下」


「はい」


「あなたの奥方は、なかなか強くなりましたね」


 リディアの頬が熱くなる。


 アルベルトは平然と答えた。


「まだ途中です」


 王妃は笑った。


「そう。なら、途中のうちに役目を与えるのも悪くないでしょう」


 そして、リディアへ視線を戻す。


「条件を認めます。慈善局長、よろしいですね」


「もちろんでございます」


 局長が頭を下げる。


 王妃は続けた。


「ただし、リディア。あなたも無理をしすぎてはいけません。人を助ける仕事をする者が、自分を使い潰しては意味がありませんから」


 その言葉に、リディアは一瞬だけアルベルトを思い出した。


 疲れる前に止めろ。

 逃げ道を用意しておけ。

 壊れないために休め。


 同じことを、別の言葉で王妃も言っている。


 リディアは静かに頷いた。


「はい。覚えておきます」


 王妃との面会が終わり、部屋を出たとき、リディアは思った以上に疲れていた。


 足が重い。

 肩も少し張っている。

 けれど、不思議と心は沈んでいなかった。


 王宮の廊下を戻りながら、アルベルトが低く言った。


「よく言った」


 リディアは横を向く。


「条件のことですか」


「ああ。受けるだけではなく、必要な権限を求めた」


「……出過ぎたかと、少し思いました」


「出過ぎていない」


 即答だった。


「役目には権限が要る。権限のない責任は、ただの搾取だ」


 その言葉に、リディアは胸を突かれた。


 権限のない責任。


 それは、かつての自分そのものだったのかもしれない。


 王太子妃候補として期待され、侯爵家の面目を背負わされ、失敗すれば責められる。

 けれど自分で決める権限はほとんどなかった。


 だから苦しかったのだ。


「……旦那様は、時々とても残酷なくらい正確なことをおっしゃいます」


「よく言われる」


「でしょうね」


 自然に返してから、リディアは小さく笑った。


 王宮の廊下で笑う日が来るとは思わなかった。


 しかも、王妃に条件を出した帰りに。


 少し前の自分が聞いたら、信じられないだろう。


 角を曲がると、遠くに再びエドワードの姿が見えた。


 今度は一人だった。


 彼は立ち止まり、リディアたちを見る。


 視線が合う。


 一瞬、胸が硬くなる。


 けれど、先ほどほどではなかった。


 リディアは静かに礼を取った。


「王太子殿下」


 距離を保った呼び方。


 エドワードは少し遅れて頷いた。


「……王妃陛下との話は、終わったのか」


「はい。慈善局の冬季支援について、今後も少し関わらせていただくことになりました」


「君が?」


 また、その驚き。


 だが今度のリディアは、傷つかなかった。


「はい」


 短く、まっすぐ答える。


 エドワードは何か言いたげに唇を動かした。


 けれど言葉が出る前に、アルベルトが静かに言った。


「報告は終わりましたので、妻を休ませます」


 妻を休ませる。


 その言葉に、エドワードの顔がわずかに変わった。


 けれどリディアは、もうそこへ心を置かなかった。


「失礼いたします」


 一礼し、歩き出す。


 足は、止まらなかった。


 王宮の出口へ向かう光が、遠くに見える。


 今日、リディアは過去ではなく、仕事を見られた。


 王妃は彼女を、捨てられた令嬢としてではなく、慈善事業の助言役として見た。


 その事実が、胸の中で静かに支えとなっていた。

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