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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第36話 王宮へ戻る朝、私はもう“捨てられた令嬢”として歩かない

 王宮へ向かう朝、リディアはいつもより早く目を覚ました。


 窓の外は、まだ薄い青の中に沈んでいる。夜と朝の境目のような空に、庭木の影が静かに浮かんでいた。


 寝台の中で目を開けたまま、しばらく動けなかった。


 眠れなかったわけではない。

 むしろ、思っていたより眠れた。


 昨夜、アルベルトは執務を終えたあと、リディアの資料を最後まで確認してくれた。南区、東区、西区の事例。慈善婦人会で集めた後援先の報告。王宮慈善局へ提出する改善案。どれも丁寧に目を通し、不要な装飾を削り、必要な数字を前に出すよう指示した。


 途中で何度か、リディアが「ここまで細かく出すと、慈善局の方々に失礼では」と迷うと、彼は当然のように言った。


「失礼なのは、必要な情報を伏せて綺麗な報告だけを出すことだ」


 その言葉で、リディアはまた少し腹を括った。


 王宮へ行く。


 慈善局へ報告する。


 そして、おそらく王太子エドワードと同じ空気を吸うことになる。


 考えれば胸は強張る。けれど、以前のように足元が崩れる感じはなかった。


 怖い。

 でも、行く理由がある。


 それだけで、人は少しだけ前を向けるのだと、リディアはこの数日で知った。


「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」


 扉の向こうから、エマの声がした。


「ええ」


 返事をすると、エマが静かに入ってくる。手には朝の白湯と、軽く食べられる果物の小皿が載っていた。


「お支度の前に、少しだけお口に」


「ありがとう」


 リディアは寝台から起き上がり、白湯を受け取った。


 温かい。


 それだけで、胸の奥の緊張が少しほどける。


 以前なら、王宮へ行く朝は何も食べられなかった。侯爵家では、それでも決められた朝食の席へ出なければならず、食べられない自分を責めながら、味のしないパンを飲み込んでいた。


 でも今は違う。


 食べられるものを、食べられる量だけ。

 出発前に無理をしない。

 それも準備の一つだと、この屋敷では誰もが当然のように扱ってくれる。


 小さな果物を一切れ口に入れると、甘さと酸味が喉を通った。


「今日は、いつもより顔色がよろしいです」


 エマが髪を梳きながら言った。


「そう?」


「はい。緊張はしておいでですが、沈んではいらっしゃいません」


 リディアは鏡の中の自分を見る。


 確かに、顔色は悪くない。


 目元も、以前のように硬く閉じきってはいない。緊張している。けれど、何かに怯えて小さくなっている顔ではなかった。


「……王宮へ行くのに、こんな顔ができる日が来るとは思わなかったわ」


 ぽつりと漏らすと、エマの手がほんの少しだけ止まった。


「奥様」


「大丈夫。少し、思っただけ」


 リディアは小さく笑った。


「今日の私は、王太子妃候補として行くわけではないもの」


 エマは静かに頷く。


「はい。宰相夫人として、慈善事業の報告に向かわれます」


「ええ」


 それを言葉にすると、胸の奥が少し落ち着いた。


 捨てられた令嬢としてではない。

 王太子の元婚約者候補としてでもない。

 アルベルトの隣に置かれた飾りとしてでもない。


 今日のリディアは、自分がまとめた仕事を持って王宮へ行く。


 支度が終わると、鏡の前のリディアは淡い青銀のドレスをまとっていた。


 華美ではない。だが王宮へ出ても見劣りしない質のよい生地で、胸元の刺繍は控えめながら凛としている。首元には真珠を一連だけ。髪はきつくまとめすぎず、けれど崩れないよう丁寧に結い上げられていた。


 王太子妃候補だったころの装いとは違う。


 あのころのドレスは、いつも“見られるため”のものだった。

 王家に相応しいか、侯爵家の娘として完璧か、誰よりも正しく美しいか。


 今日のドレスは違う。


 自分が立つための装いだ。


 玄関ホールへ降りると、アルベルトは既に待っていた。


 王宮へ向かうための礼装を身にまとい、いつも以上に隙がない。深い濃紺の上着に銀糸の刺繍。飾りは少ないが、それだけで十分に威圧感がある。


 けれどリディアは、もうその威圧だけを怖いとは思わなかった。


 彼はリディアを見ると、一瞬だけ視線を止めた。


「靴は合っているか」


 第一声がそれだった。


 リディアは思わず笑いそうになる。


「はい。昨日、歩いて確認しました」


「扇は」


「持っています」


「資料差し替え用の冊子は」


「エマが」


 隣に控えるエマが一礼する。


「こちらにございます」


 アルベルトは短く頷いた。


「ならいい」


「旦那様」


「何だ」


「今日は、まず褒めてくださってもよろしいのですよ」


 言ってから、リディアは自分でも驚いた。


 こんなことを、自分から言うなんて。


 アルベルトも一瞬だけ目を止める。だがすぐに、いつもの低い声で答えた。


「よく準備した」


 短い。


 けれど、十分だった。


 リディアは胸の奥が温かくなるのを感じながら、静かに頭を下げる。


「ありがとうございます」


「まだ本番前だ」


「ええ。でも、準備を褒めていただいたので」


 そう返すと、アルベルトはわずかに視線を外した。


「……行くぞ」


 それだけ言って、彼は馬車へ向かう。


 リディアはその背を見ながら、ほんの少し口元を緩めた。


 馬車の中では、二人とも多くは話さなかった。


 だが沈黙は重くない。


 エマは別の馬車で資料を運び、オスカーも同行している。今日の報告は、リディア一人で背負うものではない。


 そう思えるだけで、王宮へ近づく車輪の音も、以前ほど怖くはなかった。


 やがて、王宮の塔が見えてくる。


 白い石壁。高い門。整えられた庭園。

 すべてが以前と変わらない。


 変わったのは、リディアのほうだった。


 馬車が正門をくぐると、心臓が少し速くなった。


 東の回廊の記憶が蘇る。

 冷たい声。

 切り捨てられた未来。

 自分の価値が、静かに落ちていく感覚。


 リディアは膝の上で指を重ねた。


 その手に、アルベルトの視線が落ちる。


「爪を立てるな」


「……立てていません」


「今はな」


 言われて、リディアは少しだけ肩の力を抜いた。


「気をつけます」


「違う」


「え?」


「気をつけるのではなく、気づいたら離せばいい」


 その言葉に、リディアは一瞬黙った。


 失敗しないようにするのではなく、気づいたら直せばいい。


 この人はいつも、そういう逃げ場を作る。


「……はい」


 リディアは自分の手をそっとほどいた。


 王宮の玄関前に馬車が止まる。


 扉が開き、アルベルトが先に降りる。それからリディアへ手を差し伸べた。


 その手を取る。


 王宮の石段に降り立った瞬間、いくつもの視線が向けられたのがわかった。


 女官。侍従。通りがかった貴族。

 彼らの目には、それぞれ違う意味が宿っている。


 驚き。好奇。警戒。

 そして少しの噂好きな期待。


 けれどリディアは、背筋を伸ばした。


 今日は見世物ではない。


 仕事に来たのだ。


 王妃付きの女官が迎えに現れた。


「宰相閣下、リディア様。王妃陛下がお待ちです」


 案内された回廊は、リディアがよく知っている場所だった。


 かつて何度も歩いた。

 王太子妃候補として、教師や女官に付き添われながら。

 間違いのない歩幅で、視線を少し伏せ、余計な感情を見せずに。


 今、同じ回廊を歩きながら、リディアは不思議な感覚に包まれていた。


 場所は同じなのに、足音が違う。


 以前の足音は、誰かの期待に合わせる音だった。

 今日の足音は、自分の持つ資料へ向かう音だ。


 途中、角を曲がった先で、数人の若い女官がこちらを見て小さく礼を取った。


 そのうちの一人が、リディアへ向けて一瞬だけ驚いた顔をする。


 おそらく、以前の彼女を知っているのだろう。


 リディアは静かに頷き返した。


 すると女官は、少しだけ慌てたように深く頭を下げた。


 その様子を見て、アルベルトが低く言う。


「気にするな」


「はい」


「見られることと、値踏みされることは違う」


 リディアは横目で彼を見る。


「今日のは?」


「半分ずつだな」


「正直ですね」


「嘘をつく理由がない」


 その返しに、リディアは少しだけ笑いそうになった。


 そのときだった。


 前方の回廊から、一団が姿を現した。


 王太子エドワード。


 そして、その少し後ろにセシリア。


 リディアの足が、一瞬だけ止まりかけた。


 胸が、冷たくなる。


 けれど完全には止まらなかった。


 隣にいるアルベルトの腕が、ごくわずかに動いたからだ。


 支えるでも、引き寄せるでもない。


 ただ、歩く線を保つための小さな合図。


 それだけで、リディアは呼吸を取り戻した。


 エドワードもこちらに気づいた。


 その顔に浮かんだ表情は、リディアが想像していたものとは少し違っていた。


 もっと気まずそうにするか、あるいは王太子らしく何もなかった顔をすると思っていた。

 だが実際の彼は、一瞬だけ言葉を失ったように見えた。


 彼の視線が、リディアに止まる。


 顔へ。

 ドレスへ。

 そして、アルベルトの腕に添えられた彼女の手へ。


 その視線に、リディアは昔の痛みが戻るのを感じた。


 けれど、痛みはあっても崩れない。


 エドワードが先に口を開いた。


「……リディア」


 名前を呼ばれた。


 以前なら、その一言だけで心が縮んだだろう。王太子の前でどう振る舞うべきか、捨てられた自分がどんな顔をするべきか、必死に考えたはずだ。


 だが今は違った。


 リディアは静かに一礼した。


「王太子殿下にご挨拶申し上げます」


 声は揺れなかった。


 エドワードの目が、わずかに見開かれる。


 その呼び方が、距離を示したからだろう。


 リディア、ではない。

 殿下。


 過去の近さを、彼女は受け取らなかった。


 セシリアが少し緊張した笑みを浮かべる。


「リディア様、ご無沙汰しております」


「セシリア様も、お健やかそうで何よりです」


 短い挨拶。


 それ以上は踏み込まない。


 エドワードは、まだ何か言いたげだった。けれどその前に、アルベルトが静かに口を開いた。


「王妃陛下がお待ちですので、失礼いたします」


 声は礼儀正しい。


 だが、会話を終わらせるには十分だった。


 エドワードの表情が、わずかに硬くなる。


「……ああ。報告と聞いている」


「ええ。慈善事業の件で」


 リディアはそう答えた。


 自分で。


 エドワードがこちらを見る。


「君が、報告を?」


 その響きには、驚きがあった。


 少し前のリディアなら、その驚きに傷ついただろう。

 自分には報告などできないと思われているのだと。


 でも今は、静かに受け止められた。


「はい」


 リディアは背筋を伸ばす。


「南区と西区の冬季支援について、王妃陛下へ資料をお持ちしました」


 エドワードは、何かを言いかけて、言葉を失った。


 その沈黙の意味を、リディアは深く考えなかった。


 考えすぎる必要はない。


 もう、彼の反応で自分の価値を測らなくていいのだから。


 再び一礼し、リディアはアルベルトと共に歩き出した。


 背中に視線を感じる。


 王太子のものか。

 セシリアのものか。

 それとも女官たちのものか。


 わからない。


 けれど、足は止まらなかった。


 回廊を進みながら、アルベルトが小さく言った。


「よく歩いた」


 褒め言葉としては変だった。


 ただ歩いただけなのに。


 でもリディアには、その意味がわかった。


 止まらなかったこと。

 崩れなかったこと。

 過去の呼び声に引き戻されなかったこと。


 それを、彼は見ていた。


「ありがとうございます」


 リディアは小さく答えた。


「でも、少し手が冷えました」


「知っている」


「やはり?」


「かなりな」


 その短いやり取りだけで、リディアは少しだけ笑えた。


 王宮の扉は、まだ重い。


 この先には王妃が待ち、慈善局の面々が待ち、おそらくまた別の視線が待っている。


 けれど今日のリディアは、もう“捨てられた令嬢”として歩いてはいなかった。


 彼女の腕には資料があり、背中には仕事があり、隣には必要なら逃げ道を作ってくれる人がいる。


 それだけで、王宮の廊下は、昔より少しだけ短く感じられた。

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