表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/110

第35話 王妃様からの招待状は、褒美ではなく次の戦場への扉だった

 慈善婦人会での茶会から二日後、リディアのもとへ王宮から使者が来た。


 朝の作業室で、彼女はオスカーと共に各夫人から届き始めた後援先の資料を仕分けしていた。


 予想はしていたが、慈善婦人会の奥方たちは動き出すと早かった。昨日の昼過ぎから、各家の紋章つきの封書が次々と届き始めている。


 内容はさまざまだった。


 やたらと美しい便箋に、後援先の名前だけが優雅に書かれているもの。


 過去三年の寄付実績が細かく記されているもの。


 施設からの困りごとを聞いてはみたものの、相手が遠慮して詳しく話してくれなかった、と正直に書いてくるもの。


 中には、どう見ても帳尻を合わせた形跡のある資料もあった。


 リディアはそういう紙を見るたび、すぐに赤い印をつける。


「この家は、去年と一昨年の寄付額が同じなのに、品目の内訳が不自然に変わっているわ」


「見栄えを整えた可能性がありますか」


「たぶん。実際には銀貨で渡して、あとから“毛布何枚分”として書き直しているのかもしれない。悪いことではないけれど、現場に何が届いたかは確認したほうがいいわね」


 オスカーが頷き、別紙に記録する。


「奥様、だいぶ見抜くのが早くなりましたね」


「早くなったというより、似たようなものばかり見ているうちに癖がわかってきたの」


「それを早くなったと言うのでは」


「……そうかもしれないわ」


 リディアが小さく笑うと、オスカーは満足そうに頷いた。


「今のは素直に受け取っていただけました」


「あなたまでそういう確認をするの?」


「旦那様から、奥様が成果を否定しそうになったら止めろと」


 リディアは手元の紙を落としかけた。


「旦那様が、そんなことを?」


「はい。かなり真顔で」


 想像できすぎて、少し困った。


 アルベルトなら本当に言うだろう。しかも表情を変えず、業務命令のように。


 ――リディアが自分を過小評価し始めたら、訂正しろ。


 そんな低い声が頭に浮かんで、リディアは思わず視線を逸らした。


「……旦那様は、時々とても過保護なのではないかしら」


 ぽつりと言うと、オスカーは何とも言えない顔をした。


「それを私が肯定してよいか、非常に判断に迷います」


「正直ね」


「旦那様に鍛えられました」


 その返しに、エマが茶器を並べながら小さく肩を震わせた。


 作業室の空気は穏やかだった。


 書類は多い。仕事は地味で、目も疲れる。けれど、そこには嫌な緊張がなかった。自分が何かを間違えれば責められるという空気ではなく、間違いがあれば直し、見落としがあれば誰かが補うという空気がある。


 それだけで、仕事の重さはずいぶん違った。


 そのとき、扉が叩かれた。


「奥様」


 ハロルドの声だった。


「王宮より使者が参っております」


 作業室の空気が、すっと変わった。


 リディアは手にしていた資料から顔を上げる。


「王宮から?」


「はい。王妃陛下の御名で」


 王妃。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく強張った。


 王宮は、リディアにとってまだ痛みの残る場所だった。


 東の回廊。

 王太子エドワードの声。

 自分の価値が静かに切り捨てられた夜。


 あれから少しずつ変わってきたつもりでも、王宮という響きだけで、身体のどこかが古い緊張を思い出す。


 リディアはゆっくりと息を吸った。


「……通してください」


 そう答えた声は、わずかに硬かった。


 使者は王妃付きの年配女官だった。


 以前、王宮の茶会で何度か顔を合わせたことがある。感情をあまり表に出さない人だが、王妃の側近らしく立ち居振る舞いに隙がない。


 女官は作業室ではなく、応接室へ通された。


 リディアも身支度を整え直し、ハロルドに伴われて向かう。アルベルトは王宮での執務に出ており、まだ屋敷には戻っていない。


 それが少しだけ心細かった。


 けれど同時に、いつも隣にいてもらえるわけではないこともわかっている。


 リディアは応接室の扉の前で、一度だけ指先をほどいた。知らぬ間に握りしめていたのだ。


 爪痕がつく前に気づけた。


 それだけでも、以前より少しはましだと思う。


 扉が開く。


 女官は立ち上がり、丁寧に礼を取った。


「宰相夫人リディア様。突然の訪問をお許しください」


「こちらこそ、遠いところをお運びいただきありがとうございます」


 返礼し、向かいの席へ座る。


 女官はすぐに本題へ入った。


「王妃陛下より、お言葉を預かっております」


 そう言って、封書を差し出す。


 王家の紋章が押された封蝋。


 リディアはそれを受け取りながら、指先が冷えるのを感じた。


 開くと、そこには王妃の手による招待文が記されていた。


 ――宰相夫人リディア・グランディス殿。

 王都慈善婦人会にて、各後援先の実情に基づいた支援配分について有意義な提案を行ったと聞き及びました。

 冬季支援を前に、王宮慈善局としてもその取り組みを詳しく聞きたいと考えています。

 つきましては、近日、王宮へお越しいただき、慈善局および王妃付き女官長へ報告を願いたい。


 文面は丁寧で、過剰な飾りはない。


 だがそれは明らかに、ただの茶会への誘いではなかった。


 王宮慈善局への報告。


 つまり、リディアの取り組みが王宮の正式な場へ持ち込まれるということだ。


 胸の奥で、緊張と別の熱が同時に立ち上がった。


「王妃陛下は、奥様の活動を高く評価しておいでです」


 女官が静かに言った。


「南区第二孤児院の件も、慈善婦人会でのご提案も、既に耳に届いております」


「……身に余ることです」


 その言葉は、半ば反射だった。


 けれどすぐに、リディアは口を閉じた。


 身に余る。


 本当にそうだろうか。


 確かに恐れ多い。王妃に評価されるなど、以前の自分なら震えるほど緊張しただろう。今も緊張はしている。


 けれど、慈善事業の提案は、ただ偶然褒められたわけではない。


 資料を読み、帳簿を整理し、現場の不足を見つけた。

 婦人会で話し、夫人たちの支援内容を動かした。

 それは確かに、自分がした仕事だった。


 ならば“身に余る”と小さくなるだけでは、仕事そのものまで小さくしてしまう気がした。


 リディアは姿勢を直した。


「……ありがとうございます。王妃陛下に、そのようにお目を向けていただけたこと、光栄に存じます」


 女官の目が、ほんのわずかに和らいだ。


「お受けいただける、ということでよろしいでしょうか」


 リディアは封書へ目を落とした。


 王宮へ行く。


 そこには、王妃だけではない。慈善局も、女官たちもいる。場合によっては王太子の耳にも入るだろう。


 エドワードと顔を合わせるかもしれない。


 その可能性を考えた瞬間、胸の奥に古い痛みが走った。


 けれど、それで逃げたいかと問われると、答えは少し違った。


 怖い。

 でも、行く理由がある。


 これは噂話ではない。

 社交界の見世物でもない。

 必要な支援を王宮の仕組みへ通すための場だ。


 リディアは静かに頷いた。


「お受けいたします。ただ、準備のために数日お時間をいただけますでしょうか」


「もちろんです。陛下も、形ばかりの訪問ではなく、実務のお話を望まれております」


 実務。


 その言葉に、少しだけ背筋が伸びる。


「では、資料を整えて伺います」


「楽しみにしております」


 女官はそう言って立ち上がった。


 応接室を出るころ、彼女はふと足を止め、リディアを振り返った。


「リディア様」


「はい」


「以前、王宮でお見かけしていた頃より、少しお顔が変わられましたね」


 リディアは一瞬、息を止めた。


 女官の声に悪意はなかった。むしろ、静かな驚きに近い。


「そうでしょうか」


「ええ。以前は、いつも大変お美しく整っておいででした」


 それは褒め言葉のはずなのに、過去の自分を思うと胸の奥が少し冷える。


「けれど今は……何と申しますか、呼吸をしておいでのように見えます」


 呼吸。


 リディアはその言葉を、胸の中で繰り返した。


 以前の自分は、呼吸すらしていないように見えていたのだろうか。


 けれど不思議と傷つかなかった。


 たぶん、自分でもわかっていたからだ。


「ありがとうございます」


 リディアは静かに答えた。


「そう見えるなら、少し嬉しいです」


 女官は丁寧に礼を取り、去っていった。


 使者を見送ったあと、リディアはしばらく応接室に立っていた。


 王宮からの招待状を手にしたまま。


 これは褒美ではない。


 むしろ、次の戦場への扉だ。


 けれど以前のように、ただ震えるだけではない。


 自室へ戻る前に、リディアは作業室へ寄った。


 オスカーとエマが待っている。二人とも、何か言いたげな顔をしていた。


「王妃陛下から、王宮慈善局への報告を求められました」


 リディアが言うと、オスカーは数秒固まったあと、勢いよく立ち上がった。


「王宮慈善局ですか」


「ええ」


「それは……かなり大きな話になりますね」


「そうね」


 リディアは作業机の上に封書を置いた。


「資料を作り直す必要があるわ。婦人会向けのものでは足りない。王宮慈善局が動ける形にしなければ」


 オスカーの表情が、すぐに仕事の顔へ変わる。


「地区別、年齢別、物資別。あとは後援貴族の関与も整理しますか」


「ええ。ただし、貴族名を並べすぎると政治色が強くなるから、まずは支援の不足と改善案を中心に。貴族ごとの実績は補足資料で」


「承知しました」


 エマが横から静かに言う。


「奥様、まずお茶を」


 リディアは一瞬、断りかけて、すぐに頷いた。


「ありがとう。飲むわ」


 緊張している。

 だからこそ、先に温かいものを飲む。


 そういう小さな対策を、自分でも少しずつ選べるようになっていた。


 夕刻、アルベルトが戻った。


 彼は玄関ホールで外套をハロルドへ渡した直後、すぐにリディアの姿を見つけた。


「何かあったな」


 第一声がそれだった。


 リディアは思わず苦笑した。


「まだ何も言っていません」


「顔に書いてある」


「そんなにわかりやすいですか」


「私には」


 その返事に、胸が少しだけ跳ねる。


 私には。


 何気ない言葉なのに、妙に残る。


 リディアは王宮からの封書を差し出した。


「王妃陛下より、王宮慈善局への報告を求められました」


 アルベルトは封書を受け取り、すぐに目を通した。


 読み終えるまで、表情はほとんど変わらない。


 だがリディアには、彼の目が少しだけ鋭くなったのがわかった。


「早いな」


「やはり、そう思われますか」


「ああ。婦人会から王妃まで届くのが早すぎる。誰かが意図的に話を上げた」


「悪いことでしょうか」


「悪いとは限らん」


 アルベルトは封書を閉じた。


「だが、君を王宮へ戻したい者がいるのは確かだ」


 リディアの胸が、少しだけ冷える。


 王宮へ戻したい者。


 その言葉の中に、いくつもの可能性が見えた。


 王妃が純粋に慈善事業を評価しているだけかもしれない。

 慈善局が、宰相家の動きを取り込みたいのかもしれない。

 あるいは、社交界の誰かが、リディアと王太子を同じ場に置いて反応を見たいのかもしれない。


「……王太子殿下も、いらっしゃるでしょうか」


 気づけばそう尋ねていた。


 声は少し硬かった。


 アルベルトは少しだけ間を置く。


「可能性はある」


 正直な答えだった。


 優しい嘘はない。


「嫌なら断れ」


 すぐに続いた言葉に、リディアは目を伏せた。


 また、逃げ道を先に置かれる。


 それがありがたくて、少しだけ泣きたくなることがある。


「怖くないと言えば嘘になります」


 リディアはゆっくり言った。


「でも、断りたくはありません」


「理由は」


「これは、私のためだけの話ではないからです」


 王太子に会うのが怖い。

 王宮の廊下を歩くのが怖い。

 昔の自分に戻りそうで怖い。


 でも、南区の子どもたちの毛布や、西区の施療院の薪や、東区の保存食は、リディアの恐怖とは別に必要なものだ。


「王宮慈善局が動けば、もっと多くの施設へ支援が届きます。だから行きます」


 言い切ると、アルベルトはしばらくリディアを見ていた。


 その視線は静かだった。


「わかった」


 短く言う。


「なら準備する。君が王宮で消耗しすぎないように、進行はこちらで組む」


「また、対策ですね」


「当然だ」


 リディアは少し笑った。


「今回は、合図はどうしますか」


「王宮なら扇だけでは足りない。エマを同席させる。疲れたら資料差し替えを理由に休憩を入れろ」


「資料差し替え?」


「実際に差し替え用の資料を用意しておく」


「本当に対策がお上手ですね」


「壊れないためには必要だ」


 その言葉を聞いて、リディアはまっすぐアルベルトを見た。


「私は、壊れません」


 口にしてから、自分で少し驚いた。


 以前なら言えなかった言葉だ。


 アルベルトも、ほんのわずかに目を細める。


「その意気は悪くない」


「はい」


「だが、壊れないために休め」


 あまりに彼らしい続きに、リディアは今度こそ笑ってしまった。


「はい。休みます」


 その笑みを見て、アルベルトが一瞬だけ言葉を失ったように止まる。


 それがわかって、リディアは少しだけ頬を熱くした。


 けれど目は逸らさなかった。


 王妃からの招待状は、確かに次の戦場への扉だった。


 でも今の彼女には、扉を開ける前に温かい茶を飲み、逃げ道を用意し、資料を整え、隣で対策を考えてくれる人がいる。


 それだけで、足元は以前よりずっと確かだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ