第34話 「可哀想な奥様」ではなく「頼れる奥様」と呼ばれた日、私は少しだけ背筋を伸ばせた
慈善婦人会の空気が変わったのは、リディア自身にもはっきりわかった。
最初にサロンへ入ったとき、夫人たちの視線には甘い毒があった。
柔らかな微笑み。優雅な扇。香り高い茶。
けれどその奥には、宰相夫人がどれほど怯えているか、どれほど傷ついているかを見てやろうという好奇心が滲んでいた。
それが、今は違う。
卓上に広げられた帳簿と配分表を前に、夫人たちは本当に身を乗り出していた。
「リディア様、では、この“後援先の実情”という欄は、どの程度まで書けばよろしいのかしら」
そう尋ねたのは、淡い菫色のドレスを着たグレイス伯爵夫人だった。
王都の社交界では、穏やかな物腰で知られる女性だが、実際にはかなりの情報通だと聞いている。
リディアは手元の資料を一枚めくった。
「まずは、人数と年齢の内訳が必要です。孤児院なら、幼い子が多いのか、働きに出られる年齢の子が多いのかで必要な支援が変わります。施療院なら、患者数だけではなく、寝台の数、冬場に暖を取れる部屋の数も確認したいところです」
「年齢まで……」
「はい。たとえば同じ五十人の孤児院でも、五歳以下の子が多い施設と、十二歳以上の子が多い施設では、必要なものが違います。前者なら寝具と食事、後者なら読み書きや職業訓練の道具も重要になります」
グレイス伯爵夫人は、なるほど、と小さく頷いた。
その表情には、もう最初の好奇心だけではない。
自分の後援先をどう整えるか、本気で考え始めた人間の目になっていた。
別の夫人が、少し困ったように扇を閉じる。
「でも、現場へ細かく聞きすぎると、こちらが疑っているように思われませんこと?」
「聞き方次第だと思います」
リディアはそう答えた。
「“不足を責めるため”ではなく、“必要なものを間違えないため”だと伝えればよいのです。支援を受ける側も、遠慮して本当に困っていることを隠す場合がありますから」
「遠慮?」
「はい。立派な後援者がついている施設ほど、かえって不満を言いにくいことがあります」
その言葉に、夫人たちの何人かが顔を見合わせた。
思い当たる節があるのだろう。
高位貴族に支援されている施設ほど、その貴族の面目を傷つけまいとする。
足りないものがあっても、いただいているだけでありがたい、と口を閉ざす。
結果として、帳簿の上では支援が足りているように見えても、現場では別の不足が積み重なっていく。
リディア自身も、似たようなことを知っていた。
苦しいと言えない。
足りないと言えない。
与えられているだけでありがたいのだから、黙っていなければならない。
それは、人にも施設にも起こることなのかもしれない。
「だからこそ、後援者の側から聞く必要があります」
リディアは静かに続けた。
「“足りないものはありませんか”ではなく、“今あるもので足りているものと、足りていないものを分けて教えてください”と。そう聞くだけで、答えは少し変わるはずです」
サロンの空気が、さらに静まった。
茶会というには真剣すぎる沈黙だった。
ローゼン侯爵夫人が、ゆっくりとカップを置く。
「リディア様は……ずいぶん現場のことをお考えなのね」
声は柔らかい。
だが、そこにはまだ少し探る響きがあった。
リディアは彼女を見る。
「私が現場をよく知っているわけではありません」
正直に答えた。
「ですが、帳簿を見れば、現場の声が消えている場所はわかります」
「消えている場所?」
「はい。数字が整いすぎているときです」
夫人たちの視線が集まる。
「本当に困っている現場の報告は、もう少し乱れます。余っているものは余っている、足りないものは足りない、と書かれます。でも、上へ上がるにつれて、見栄えのよい報告に整えられてしまう。そうすると、本当の不足が見えなくなります」
言いながら、リディアはほんの少しだけ胸の奥が痛むのを感じた。
整えられすぎたもの。
それは自分自身のことでもあった。
誰にも乱れを見せないように。
泣かないように。
足りないものを足りないと言わないように。
そうして整えられた結果、本当に苦しい場所は誰にも見えなくなる。
リディアは、一度だけ静かに息を吸った。
「慈善で一番怖いのは、善意が届かないことではなく、届いたつもりになることだと思います」
その言葉に、誰かが小さく息を呑んだ。
「だから私は、皆様のご厚意を、きちんと届く形にしたいのです」
しばらく沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、意外にもローゼン侯爵夫人だった。
「……わたくし、西区施療院には薬草を送っておりましたの」
「はい」
「医療支援として、それが一番よいと思っておりました。でも、暖房や寝具が足りないという話は、正直なところ、あまり詳しく聞いておりませんでした」
夫人は扇を閉じたまま、卓上の資料へ視線を落とす。
「施療院の責任者は、いつも“十分に助かっております”としか言いませんのよ」
「おそらく、侯爵家に遠慮しているのだと思います」
「そうね。……そうだったのでしょうね」
ローゼン侯爵夫人は少しだけ口元を引き締めた。
その顔には、先ほどまでの社交的な笑みはなかった。
「リディア様。西区施療院の支援内容、見直しますわ。薬草だけではなく、寝具と薪も入れます。けれど医療支援の名目は残したいの」
「それなら、巡回診療の支援として薬草を一部回す形がよいと思います。施療院内の備蓄を増やしすぎず、周辺区にも支援が広がります」
「それ、使わせていただいても?」
「もちろんです」
夫人は初めて、心からのように微笑んだ。
「あなた、思っていたよりずっと頼りになる方ね」
頼りになる。
その言葉に、リディアは一瞬、返事を失った。
可哀想でもなく。
冷たいでもなく。
壊れそうでもなく。
頼りになる。
それは、彼女が社交界で初めて向けられた種類の評価だった。
「……ありがとうございます」
リディアは、どうにかそう答えた。
謝らなかった。
否定もしなかった。
少しだけ胸がざわついたが、受け取った。
そのあと、茶会は完全に別の場へ変わった。
「うちの後援先では、靴が足りないと聞いたことがあります」
「冬の間だけ、子ども用の靴をまとめて仕立てる職人を頼めるかしら」
「布を寄付するなら、ただ送るより、縫える者を一緒に手配したほうがよいのでは?」
「それなら、我が家の侍女頭が古布の仕分けに詳しいわ」
「待ってくださいませ。古布といっても、孤児院へ送るなら修繕済みでなければ失礼でしょう?」
夫人たちは、いつの間にか互いの資料を覗き込み始めた。
最初はリディアを見るための茶会だった。
今は、誰がどの施設へ何を届けるかを本気で相談する場になっている。
もちろん、すべてが純粋な善意ではない。
誰が王都で評判を得るか。
どの家がより賢い慈善を行っているように見えるか。
そういう思惑は必ずある。
けれどリディアは、それでもよいと思った。
見栄でも、面子でも、競争心でも。
それが正しく使われれば、子どもたちの毛布になる。施療院の薪になる。読み書きの教材になる。
ならば、その流れを利用すればいい。
アルベルトなら、きっとそう言う。
――噂は剣にもなるが、道具にもなる。使えるなら使え。
リディアはその言葉を思い出し、少しだけ背筋を伸ばした。
茶会の終わり際、グレイス伯爵夫人がそっと近づいてきた。
「リディア様」
「はい」
「今日のこと、次回も続けていただけますか」
「次回?」
「ええ。慈善婦人会は月に一度集まりますけれど……正直、これまでは報告よりお喋りが多かったのです」
夫人は少し恥ずかしそうに笑った。
「でも今日のように、持ち寄った支援内容を見直す場にできるなら、意味があると思いますわ」
リディアは答えに迷った。
次回も。
つまり、継続して関わるということだ。
一度だけなら勢いでできる。
けれど継続するとなれば、責任が生まれる。
その重さに、少しだけ躊躇いが生まれた。
だが同時に、壁に飾られたあの絵が頭に浮かんだ。
おくさま、ありがとう。
あの文字を思い出すと、逃げたくはなかった。
「私一人では難しいと思います」
リディアは正直に言った。
「けれど、皆様が後援先の実情を持ち寄ってくださるなら、整理するお手伝いはできます」
グレイス伯爵夫人の顔が明るくなる。
「では、決まりですわね」
「いえ、まずは宰相家とも相談を」
「まあ、慎重でいらっしゃる」
夫人は楽しげに微笑んだが、その笑みにはもう悪意は感じられなかった。
「でも、そういうところが信頼できるのかもしれませんわ」
信頼できる。
今日だけで、リディアは二つも慣れない言葉を受け取った。
頼りになる。
信頼できる。
胸の奥が落ち着かない。
けれど、不快ではなかった。
茶会を終えて馬車へ戻るころには、リディアはかなり疲れていた。
足も重いし、頭も少しぼんやりしている。貴婦人たちの香水と茶の香りが、まだ少し鼻の奥に残っている気がした。
馬車の扉が閉まり、外の音が遠のく。
向かいにはエマが座っている。今日はアルベルトではなく、彼女が付き添いだった。
「奥様、お疲れでは?」
「疲れたわ」
リディアは素直に答えた。
「でも……悪くなかった」
そう言うと、エマの表情が少し和らいだ。
「それはようございました」
「途中で合図を出さずに済んだわ」
「はい。ですが、扇はずっと近くに置いておられました」
「ええ。逃げ道があると、少し楽なのね」
口にしてから、リディアは窓の外を見た。
王都の街並みが、午後の光の中を流れていく。
以前なら、逃げ道が必要な自分を恥じたかもしれない。
けれど今は、そう思わない。
逃げ道を用意していたから、逃げずに済んだ。
それは弱さではなく、壊れないための知恵なのだと、今なら少しわかる。
宰相家へ戻ると、玄関ホールにハロルドが待っていた。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ただいま戻りました」
自然にそう返してから、リディアは少しだけ足を止めた。
ただいま。
その言葉が、以前よりずっと自分のものになっている気がした。
「旦那様は執務室に?」
「はい。奥様がお戻りになられたら、お声をおかけするようにと」
リディアは少し迷った。
疲れている。
まず部屋へ戻って休むべきかもしれない。
けれど今日のことを、早く伝えたい気持ちもあった。
ローゼン侯爵夫人が支援内容を見直すと言ったこと。
夫人たちが帳簿を覗き込んだこと。
グレイス伯爵夫人が、次回も続けたいと言ったこと。
そして、頼りになると言われたこと。
それを、アルベルトに聞いてほしかった。
「……少しだけ、旦那様のところへ伺います」
「承知いたしました」
執務室の扉を叩くと、すぐに返事があった。
「入れ」
リディアが中へ入ると、アルベルトは書類から顔を上げた。
一目見ただけで、彼は言った。
「疲れているな」
「はい」
「先に休めばいいものを」
「報告したかったのです」
そう言うと、アルベルトの目がわずかに変わった。
「聞こう」
その一言で、リディアは今日の出来事を話し始めた。
最初は噂話の気配があったこと。
資料を出すと夫人たちの顔が変わったこと。
支援内容の見直しが始まったこと。
次回も続けたいと言われたこと。
話しながら、自分の声が少し弾んでいることに気づく。
疲れているのに、心の奥が明るい。
不思議な感覚だった。
アルベルトは最後まで黙って聞いていた。
そして話し終えると、短く言った。
「成功だな」
その言葉に、リディアの胸がふっと温かくなる。
「……はい」
小さく頷いた。
「たぶん、成功です」
「たぶんではない。成功だ」
訂正されて、リディアは少し笑った。
「旦那様は、こういうとき断定なさるのですね」
「事実だからな」
「では、受け取ります」
そう言うと、アルベルトの視線がほんの少しだけ柔らかくなった。
「そうしろ」
リディアは静かに息を吐いた。
慈善婦人会は、噂話の場だったはずだ。
けれど今日、そこは少しだけ仕事の場になった。
そしてリディア自身も、ただ噂に傷つく女ではなく、噂の流れを変える女として、少しだけ立てた気がした。




