第33話 慈善婦人会は噂話の場だったはずなのに、気づけば奥様たちは帳簿を覗き込んでいた
王都慈善婦人会から返事が届いたのは、翌日の昼前だった。
こちらから出した返書には、ただ出席を受けるとは書かなかった。
各夫人が後援する施設名、過去三年の寄付実績、今年の支援予定、現場から届いている困りごと。それらを事前に提出してほしいと添えた。
普通なら、ずいぶん不躾な条件だと思われてもおかしくない。
だが相手は、宰相夫人を茶会に呼びたいのだ。
しかも今のリディアは、ただの噂の的ではない。王都の慈善事業に実際に口を出し、南区第二孤児院への再配分で成果を出した女として、じわじわ名前が広まり始めている。
婦人会側も、無視はできなかったらしい。
返書には、優雅な筆致でこう記されていた。
――リディア様のお考え、まことに感銘を受けました。
当日は各夫人より、後援先についての簡単な記録を持参いたします。
ぜひ実りある会といたしましょう。
文面だけなら穏やかだ。
けれどリディアには、紙の向こうで貴婦人たちが慌てて後援先の帳簿を探し始める姿が見えるようだった。
「……少し、意地悪だったかしら」
返書を読み終え、リディアがそう呟くと、作業室で文書を整理していたオスカーが顔を上げた。
「かなり効果的だったと思います」
「それ、答えになっていないわ」
「意地悪かどうかで言えば、旦那様の助言が入った時点で多少は」
「オスカー」
「失礼しました」
そう言いながら、オスカーの表情はまったく反省していない。
最近、彼はリディアの前で少しだけ砕けた反応を見せるようになった。もちろん礼を失うほどではない。けれど、こちらを“壊れやすい奥様”としてではなく、仕事を共にする相手として見てくれているのがわかる。
その距離感が、リディアには少し嬉しかった。
「でも、本当に提出してくださるかしら」
「出さざるを得ませんよ。慈善婦人会は、慈善を名乗っていますから」
オスカーは真面目な顔に戻り、手元の帳簿へ視線を落とす。
「提出しなければ、“後援先の実情を把握していない”と見られます。提出すれば、今度は奥様が内容を見られる。どちらにしても、ただの噂話では済みません」
「……やっぱり意地悪ね」
「旦那様式です」
リディアは思わず小さく笑ってしまった。
その瞬間、オスカーが少し目を細める。
「奥様、最近よく笑われますね」
「そんなに?」
「はい。以前なら、今のところはたぶん微笑む手前で止めておられました」
「よく見ているのね」
「旦那様ほどではありません」
その返しに、リディアは言葉を詰まらせた。
アルベルトほどではない。
それは、たしかにそうだろう。
あの人は本当に、驚くほど見ている。リディアが花の前で足を止めたことも、食べづらいものを前にしたときの指先も、褒められて身を縮める癖も、嫌だと言えずに言葉を飲み込む瞬間も。
見られていると思うと、少し怖い。
けれど最近は、その怖さだけではなくなっている。
見られているからこそ、先に無理を取り除かれる。
見られているからこそ、隠していた好きなものを思い出せる。
見られているからこそ、自分でも気づかなかった小さな変化を、誰かが覚えていてくれる。
そう考えると、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
「……旦那様は、今日も遅いの?」
気づけばそう尋ねていた。
オスカーが書類をめくる手を止める。
「本日は王宮で会議です。夕刻には戻られる予定ですが、場合によっては遅れるかと」
「そう」
短く答えたつもりだった。
けれどオスカーが、何か言いたげにこちらを見る。
「何?」
「いえ」
「今、何か思った顔をしたわ」
「いえ、その……奥様が旦那様のお戻りを気にされるのは、良いことだと思いまして」
リディアは一瞬、頬が熱くなるのを感じた。
「別に、そういう意味ではなくて」
「では、どういう意味でしょう」
「婦人会の件を相談したいだけです」
「なるほど」
オスカーは綺麗に頷いた。
その綺麗さが、少し腹立たしい。
「あなた、意外と旦那様に似てきたわね」
「それは褒め言葉でしょうか」
「半分くらいは」
「では、半分ありがたく受け取ります」
そう返されて、リディアはまた小さく笑ってしまった。
作業室の空気は、以前よりずっと柔らかくなっている。
それでも、慈善婦人会当日が近づくにつれ、リディアの胸には少しずつ緊張が積もっていった。
相手は貴婦人たちだ。
帳簿や数字だけで済む相手ではない。
王都の高位貴族の夫人たちは、笑顔で相手の心を削ることに長けている。好意的な言葉の形で探りを入れ、褒めているように見せて値踏みし、心配を装って弱点を探す。
ファーネル侯爵夫人の夜会で、それはもうよくわかっていた。
今回は違う。
自分はただ見られるために行くのではない。
話すべき内容がある。
必要な資料もある。
そう言い聞かせても、体は正直だった。
前夜、リディアは温室へ行った。
ガラス越しの夜は静かで、外の庭より少し温かな空気が肌に触れる。ブルースターは夜の灯りの中で、昼よりも淡く見えた。まるで本当に、空の欠片を集めたような花だ。
腰掛けに座り、しばらく花を眺めていると、入口のガラス戸が静かに開いた。
振り返らなくても、誰かわかった。
「ここにいたか」
アルベルトの声だった。
「はい。少し、落ち着きたくて」
「婦人会のことか」
「……わかりますか」
「明日だろう」
彼は当然のように言い、リディアの少し離れた場所に立った。
近づきすぎない。
けれど遠くもない。
その距離が、今は心地よかった。
「怖いのか」
率直な問いだった。
リディアは以前なら、きっとすぐに否定しただろう。大丈夫です、と。問題ありません、と。そう言って、完璧な顔を作ったはずだ。
けれど今は、少し考えてから答えた。
「怖いです」
言葉にした瞬間、胸がわずかに軽くなった。
「貴婦人たちは、表情が柔らかいぶん、何を考えているかわからないときがあります。ファーネル侯爵夫人の夜会も……正直、少し苦手でした」
「苦手で当然だ」
また当然と言われる。
その一言だけで、少し息がしやすくなる。
「彼女たちは慈善を口にしながら、半分は序列の話をしている。君が疲れるのも無理はない」
「旦那様は、明日ご一緒ではないのですよね」
「婦人会に私が出たら、夫人たちが固まる」
真顔で言われ、リディアは思わず想像してしまった。
優雅な茶会の席にアルベルトが座り、貴婦人たちが全員、扇の陰で固まる光景。
……確かに、実務は進むかもしれないが、茶会ではなく尋問の場になりそうだ。
「それは、少し見てみたい気もします」
つい口にすると、アルベルトが彼女を見る。
「悪趣味だな」
「旦那様に言われるとは思いませんでした」
言ってから、はっとする。
しかしアルベルトは怒らなかった。
むしろ、ほんのわずかに口元を動かしたように見えた。
「言うようになった」
「……申し訳ありません」
反射的に謝ったあと、リディアはすぐに口を押さえそうになった。
まただ。
けれどアルベルトは、もうその癖にも慣れたのか、短く言うだけだった。
「謝るほどではない」
「はい」
「それと、明日は一人ではない」
リディアは顔を上げる。
「エマとハロルドを近くに置く。オスカーも資料係として同行させる。何かあれば、そこで切れる」
「そこまでしていただいて」
「必要だからだ」
いつもの言葉。
必要だから。
「それに、君は明日、噂話に行くのではない。仕事に行く」
その言葉に、リディアの背筋が少し伸びた。
仕事に行く。
そうだ。
明日はただ見られるための茶会ではない。
自分の失敗を待つ視線に耐える場でもない。
慈善婦人会を、実際に動く仕組みへ変えるために行くのだ。
「……そうですね」
リディアは小さく頷く。
「仕事なら、できます」
「できる」
アルベルトは即答した。
「君はもう、少なくとも帳簿の前では逃げない」
その言い方に、リディアは少しだけ苦笑する。
「人の前では、まだ逃げたくなります」
「逃げてもいい」
思いがけない返答だった。
リディアが目を瞬くと、アルベルトは続ける。
「逃げ道を用意しておくのは悪いことではない。逃げられないと思うから、人は壊れる」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
逃げてもいい。
侯爵家では、聞いたことがなかった言葉だ。
王宮でも。
社交界でも。
逃げることは弱さであり、失敗であり、恥だった。
でもアルベルトは違う。
逃げ道を用意しておけと言う。
それは弱さではなく、壊れないための策なのだと。
「明日、苦しくなったらどうすればいいですか」
リディアは尋ねた。
「扇を閉じて、左手でカップに触れろ」
「それが合図ですか」
「ああ。エマがすぐ入る。必要なら退席できる」
「……そんなふうに決めてよいのですか」
「よい。最初から決めておけ」
あまりに迷いない答えに、リディアは少しだけ笑ってしまった。
「旦那様は、本当に何でも対策にしてしまうのですね」
「対策があると、人は余計な恐怖を減らせる」
「それは、確かに」
リディアは自分の扇を想像した。
扇を閉じて、左手でカップに触れる。
それだけで、逃げ道が開く。
そう思うと、明日の茶会が少しだけ怖くなくなった。
翌日、慈善婦人会の茶会は、ローゼン侯爵夫人の邸で行われた。
広い庭を望む明るいサロンには、王都の名立たる夫人たちが集まっていた。絹のドレス、宝石、香水、柔らかな笑い声。どれも優雅で、どれも少しずつ鋭い。
リディアが入室すると、会話が一瞬だけ薄くなった。
視線が集まる。
宰相夫人。
王太子に捨てられた令嬢。
慈善事業に口を出し始めた女。
いくつもの物語が、彼女の上に重ねられているのがわかる。
けれどリディアは、背筋を伸ばしたまま一礼した。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
声は、思ったより落ち着いていた。
ローゼン侯爵夫人が笑みを浮かべて近づいてくる。
「まあ、リディア様。お越しいただけて嬉しいわ。どうぞこちらへ。皆様、あなたのお話を楽しみにしておりましたのよ」
その“楽しみに”の響きに、少しだけ棘がある。
だがリディアは引かなかった。
「私も、皆様の後援先について伺えるのを楽しみにしておりました」
そう返すと、夫人の笑みが一瞬だけ固まった。
話題の主導権を、噂ではなく実務へ戻す。
最初の一歩だった。
席につくと、茶器が並べられ、菓子が置かれた。以前ならその場のすべてが試験のように感じられただろう。けれど今日は、膝の上に置いた扇と、左手側のカップがある。
苦しくなったら合図できる。
その逃げ道が、リディアを支えていた。
「それでは」
ローゼン侯爵夫人が、軽やかな声で言う。
「まずはリディア様から、最近のご活動についてお聞かせいただけますかしら」
視線が集まる。
値踏みする目。
探る目。
面白がる目。
好意的に見せかけた好奇心。
それでも、リディアは静かに資料を開いた。
「はい。ではまず、南区第二孤児院の件からお話しします」
噂話に応じる気はなかった。
彼女は数字を示した。
不足していた毛布の数を。
薪の配分が前年より減っていた理由を。
後援貴族の有無だけで判断すると、実際の必要量を見誤ることを。
夫人たちは最初、微笑を浮かべたまま聞いていた。
だが話が進むにつれ、その表情が少しずつ変わっていく。
茶会の余興だと思っていた者たちが、目の前に置かれた資料の具体性に気づき始めたのだ。
「つまり、寄付額の多寡だけでは足りない、ということですの?」
一人の夫人が尋ねる。
リディアは頷いた。
「はい。必要なものと合っていなければ、善意が倉で眠ってしまいます」
その言葉に、別の夫人が小さく息を呑んだ。
「倉で眠る善意……」
「たとえば薬草が必要な施療院もあります。ですが、暖房が足りない施療院に薬草だけが積まれても、患者は温まりません」
リディアはゆっくりと視線を巡らせた。
「皆様のご厚意を、もっと正しく現場へ届けたいのです」
その瞬間、空気が変わった。
利用しようとしていた夫人たちが、逆に自分たちの慈善の“見え方”を意識し始めたのだ。
誰かが扇の陰で囁く。
「……うちの後援先、今年は何を送る予定だったかしら」
「薬草ばかりでは駄目なのね」
「では、毛布の質も確認したほうが」
噂話の空気が、少しずつ崩れていく。
夫人たちは、気づけば帳簿を覗き込み始めていた。
リディアはその光景を見ながら、胸の奥に静かな熱が灯るのを感じた。
怖くないわけではない。
まだ緊張している。
けれど、ただ傷つくだけではない。
自分の言葉で、場の流れを変えられる。
その実感が、彼女の背筋を支えていた。




