第32話 噂はいつも勝手に歩く――けれど今度の私は、ただ傷つくだけの女ではなかった
南区第二孤児院から届いた絵は、翌日の午後には作業室の壁に飾られていた。
額に入れると、拙い線まで少しだけ立派に見える。青いドレスの女性、大きな鍋、毛布にくるまった子どもたち。端には、たどたどしい文字で「おくさま、ありがとう」と書かれている。
リディアは作業机に座るたび、ついその絵へ目を向けてしまった。
最初は、恥ずかしかった。
自分が描かれている絵を、作業室に飾るなんて。しかも子どもの想像の中では、彼女はなぜか王冠をかぶった女王のような姿をしている。見るたびに少しだけ頬が熱くなった。
けれど、不思議なことに、時間が経つにつれて、その恥ずかしさは少しずつ別の感情へ変わっていった。
迷ったときに見ると、思い出せる。
この帳簿の向こうにいるのは、文字でも数字でもない。寒さで眠れなかった子どもたちであり、温かなスープを待っている誰かであり、朝まで眠れたことを喜ぶ小さな声なのだと。
「奥様、こちらの寄付予定ですが」
オスカーが新しい書類を持ってきた。
「西区施療院への薬草寄付を、ローゼン侯爵家が増やしたいと申し出ています」
リディアは思わず眉を寄せた。
「さらに?」
「はい。どうやら、宰相家が西区施療院の配分を見直したと聞いて、侯爵家としての関与を強めたいようです」
「……薬草ばかり増えても困るわね」
「ええ。現場は寝具と薪のほうが必要です」
リディアは書類を受け取り、少し考えた。
貴族の寄付には、善意だけでなく面子が絡む。ローゼン侯爵家としては、自分たちが後援する施療院に“十分支援している”と見せたいのだろう。薬草は見栄えがいい。医療支援という名目にも合う。だが、今の現場が求めているのはそれだけではない。
「断ると角が立つわ」
「はい」
「なら、薬草の一部を冬季巡回診療へ回す名目にしましょう。施療院内に積むのではなく、周辺の貧民街へ医師を派遣する際に使うことにすれば、侯爵家の支援も目立つし、薬草も無駄にならない」
オスカーの目が明るくなる。
「それなら、寝具と薪の枠はそのまま確保できますね」
「ええ。侯爵家には“貴家のご厚意により、施療院内だけでなく周辺区まで医療の手を広げられる”と伝えればいいわ。たぶん悪い気はしないはず」
「すぐ文案を作ります」
オスカーが席へ戻ろうとしたところで、扉が叩かれた。
入ってきたのはハロルドだった。
いつも通りの静かな足取り。だが手には銀盆があり、その上には封書が数通載っている。
「奥様、社交界からのお手紙が届いております」
その言葉に、リディアの胸が少しだけ冷えた。
社交界。
最近、その響きに以前ほど怯えなくなったと思っていた。だがそれでも、反射的に身構える癖はまだ残っている。
「夜会の招待状ですか」
「一部は。ですが、こちらは少々趣が異なります」
ハロルドは封書を一通、机の上へ置いた。
差出人は、王都慈善婦人会。
リディアも名前は知っている。高位貴族の夫人たちが中心になっている慈善組織で、表向きは孤児院や施療院への支援を目的としている。だが実際には、貴婦人たちの社交と名誉の場でもあった。
どの夫人がどれだけ寄付したか。
誰が視察に同行したか。
王妃から誰が声をかけられたか。
慈善の名を冠していても、そこにはやはり貴族社会の序列がつきまとう。
リディアは封書を開いた。
文面は優雅だった。
宰相夫人が王都の慈善事業に深い関心を寄せ、南区への支援に大きく貢献されたと聞き及びました。つきましては、次回の慈善婦人会の茶会にぜひご出席いただき、奥様のお考えをお聞かせ願いたく――。
丁寧で、隙のない文章。
だが行間には、はっきりとした好奇心が見えた。
王太子に捨てられた宰相夫人は、今度は慈善事業で名を上げ始めたらしい。
それは本当なのか。
宰相の力を借りただけなのか。
それとも、利用できる新しい話題なのか。
そんな視線が、紙の向こうに透けている。
「……噂が変わったのですね」
リディアがぽつりと言うと、ハロルドは静かに頷いた。
「ええ。以前は、奥様がどれほどお疲れかを探る声が多くございました」
なんとも遠回しな言い方だった。
壊れるかどうかを待っていた、とは言わないあたりがハロルドらしい。
「今は?」
「“宰相夫人は案外、ただの飾りではないらしい”と」
リディアは少しだけ息を止めた。
ただの飾りではない。
それは悪い噂ではないはずだ。
少なくとも、すぐ壊れる女と面白がられるよりはずっといい。
けれど同時に、また別の値踏みが始まったのだともわかる。
彼女たちは今度、リディアがどれほど使えるのかを見に来る。
あるいは、自分たちの慈善活動に利用できるかどうかを測る。
噂はいつも勝手に歩く。
こちらの心など知らないまま、好きな形に姿を変えて。
「旦那様はご存じですか」
「はい。こちらの封書は先に旦那様へ確認しております」
「……旦那様は何と?」
「奥様が望まぬなら断れ、と」
やはり、とリディアは思った。
その言葉はもう、彼女にとって聞き慣れたものになりつつある。
無理に出る必要はない。
望まないなら断れ。
決めるのは自分だ。
以前のリディアなら、その選択肢だけで途方に暮れただろう。けれど今は、少しだけ考える余地が生まれている。
「出たほうが、慈善事業にはよいのかしら」
リディアが言うと、オスカーが書類から顔を上げた。
「正直に申し上げるなら、利用価値はあります」
その言葉に、ハロルドがわずかに視線を向ける。
オスカーは慌てて咳払いした。
「いえ、失礼しました。言い方が悪かったです」
「いいえ。わかりやすいわ」
リディアは封書へ視線を戻す。
「貴婦人たちの寄付や後援が集まれば、施療院や孤児院への支援は増やせる。でも、彼女たちの面子や序列も絡む」
「はい」
「なら、ただ出るだけでは駄目ね」
リディアの声が、少しずつ落ち着いていく。
「彼女たちに“気の毒な宰相夫人の新しい趣味”として扱われたら、現場のためにならないわ。逆に、“自分たちが関われば名誉になる仕組み”をこちらで用意したほうがいい」
オスカーが目を瞬いた。
「仕組み、ですか」
「ええ。寄付額の大きさだけではなく、必要なものを必要な場所へ届けた家を評価する形にするの。たとえば、毛布を百枚寄付した家より、幼児の多い孤児院へ合う寝具を整えた家をきちんと報告に載せる」
話しているうちに、考えが形になっていく。
「薬草なら、どの施療院へ何を送るか。食料なら、調理できる人手まで考えているか。そういう“現場に合った支援”を婦人会の成果として発表すれば、貴婦人たちもただ高価なものを出すだけでは格好がつかなくなる」
オスカーは急いで紙を引き寄せ、メモを始めた。
「それなら、見栄と実利を同じ方向へ向けられますね」
「ええ。たぶん、それが一番いいわ」
言い終えてから、リディアは少しだけ自分に驚いた。
以前の自分なら、社交界の招待状を前にして、どう見られるかばかり考えていたはずだ。
今も怖さはある。
見られたくない気持ちもある。
けれどそれだけではない。
この場を使えば、もっと多くの物資を必要な場所へ届けられるかもしれない。
そう考えられる自分がいる。
リディアは封書を丁寧に畳んだ。
「出席します」
ハロルドは一礼した。
「承知いたしました」
「ただし、返事は少し待ってください。こちらから条件を添えたいの」
オスカーが顔を上げる。
「条件?」
「ただ“お話を聞かせてください”という茶会なら、私は見世物になるだけです。だから、当日は各夫人に後援施設の支援内容を持ち寄ってもらう形にしましょう。現状の困りごとと、今年の冬に何を支援できるかを事前に提出してもらうの」
ハロルドの目が、ほんのわずかに細くなった。
それは驚きではなく、評価に近い反応だった。
「なるほど。奥様を呼ぶなら、婦人会側も実務の準備をせざるを得なくなるわけですね」
「ええ。お茶と噂話だけで終わらせないために」
リディアは静かに言った。
その声は、思ったよりも強かった。
その日の夕方、アルベルトが作業室へ姿を見せた。
彼は机の上の封書と、オスカーがまとめた草案に目を通すと、短く言った。
「面白い」
リディアは少しだけ首を傾げた。
「面白い、ですか」
「ああ。婦人会は君を観察するつもりで招いた。だが君は、向こうに仕事を持たせようとしている」
「……意地が悪いでしょうか」
「悪くない」
即答だった。
「噂話の席を実務の席に変える。悪意を減らすには有効だ」
アルベルトは草案を机へ置く。
「これで返せ」
「よろしいのですか」
「むしろ足りないくらいだな」
「足りない?」
「各夫人に事前提出させるなら、施設名だけでなく、支援内容と過去三年の寄付実績も添えさせろ。見栄を張りたい者ほど、いい加減な数字は出せなくなる」
リディアは思わず苦笑した。
「旦那様のほうが、よほど意地が悪いです」
「必要な圧だ」
「そういうところです」
言ってしまってから、少しだけはっとする。
以前なら、こんな軽口は飲み込んでいた。
アルベルトは一瞬だけ彼女を見る。
怒った様子はない。
むしろ、ほんのわずかに口元が動いた。
「言うようになったな」
低い声だった。
リディアは頬が熱くなる。
「……失礼でしたか」
「いや」
彼は短く答える。
「そのほうがいい」
その一言が、また胸の奥に静かに落ちた。
そのほうがいい。
整った人形のように黙っているより。
なんでも飲み込んで謝るより。
少しだけ意見を言い、少しだけ軽口を返すほうがいい。
そう言われた気がした。
「婦人会へは、私の名で返事を出します」
リディアは改めて言った。
「噂がどう歩くかは止められません。でも、どうせ歩くなら……少しでも誰かの役に立つ方向へ向かわせたいです」
アルベルトは彼女を見た。
いつもの鋭い目。
けれどその奥には、確かな静けさがある。
「それでいい」
彼は言った。
「噂は剣にもなるが、道具にもなる。使えるなら使え」
「はい」
「ただし、無理はするな」
最後に必ずそれを添えるところが、やはりアルベルトだった。
リディアは小さく笑った。
今度は、意識して。
「はい。そこは、ちゃんと覚えています」
アルベルトの視線が一瞬だけ止まる。
その反応に、リディアは少しだけ満足した。
噂は勝手に歩く。
でも今度の彼女は、ただ傷つくだけではない。
噂の流れを見て、必要なら向きを変える。
そういうことも、少しずつ覚え始めていた。




