第31話 「奥様の名前で届いています」――初めての感謝状は、父の手紙よりずっと温かかった
慈善局との会議から、三日が過ぎた。
宰相家の作業室には、以前よりも多くの紙が並ぶようになっていた。慈善局から改めて上がってきた配分案、各施設からの追加報告、冬季備蓄倉の在庫一覧、貴族家からの寄付予定。
最初は数字ばかりだった書類が、少しずつ人の生活に近づいていく。
南区第二孤児院――幼い子が多く、毛布と薪を優先。
東区第三孤児院――年長者が見習いに出たため、調理負担を減らす保存食を追加。
西区施療院――医療支援の名目を保ったまま、寝具と暖房用の薪を増量。
どれも地味な修正だった。
だが、その地味さこそが大事なのだと、リディアは少しずつわかり始めていた。
慈善とは、夜会で美しい言葉を述べることではない。
銀貨を寄付して称賛を浴びることでもない。
寒い日に、必要な場所へ毛布が届くこと。
具合の悪い子どもが、冷たい床ではなく温かい寝台で眠れること。
現場の声が、途中で見栄えのよい報告書に潰されないこと。
そういう小さな積み重ねなのだ。
リディアは机の上の表を見ながら、赤いインクで一箇所だけ印をつけた。
「オスカー、この東区の備蓄倉だけれど」
「はい」
向かいの机で紙を整理していたオスカーが、すぐに顔を上げる。
「余剰分の豆が多いわ。腐りにくいとはいえ、このまま倉に置いておくより、南区へ一部回したほうがいいと思うの」
「南区ですか。ですが、南区は麦の配分を増やしましたよね」
「ええ。でも孤児院の子どもの年齢を見ると、麦だけでは調理に手間がかかるでしょう。豆ならスープにできるし、量も増やしやすいわ」
「なるほど」
オスカーは素直に頷き、すぐにメモを取る。
リディアはその様子を見ながら、ふと以前の自分ならここで「私の考えすぎかもしれません」と付け足していただろうと思った。
今は、言わなかった。
もちろん不安がなくなったわけではない。自分の判断が間違っているかもしれないと思うことはある。だが、間違っているかもしれないからといって、最初から自分の言葉を小さくする必要はないのだと、少しずつ覚え始めている。
間違っていれば直せばいい。
アルベルトなら、きっとそう言う。
そのとき、扉が叩かれた。
「奥様」
エマの声だった。
「ハロルドが、奥様宛のお届け物をお持ちです」
「私宛?」
リディアは顔を上げる。
宰相夫人となってから届く文は多い。夜会の招待状、形式的な挨拶状、貴婦人たちからの探るような茶会の誘い。だがエマの声音は、それらを運ぶときとは少し違っていた。
「ええ。慈善局を通して届いたそうです」
慈善局を通して。
リディアは思わずオスカーと顔を見合わせた。
ハロルドが入ってきたのは、それからすぐだった。いつものように隙のない姿勢で一礼し、手にした木箱と数通の封書を机の上へ置く。
「奥様のお名前宛に届いております」
「私の名前で?」
「はい。南区第二孤児院より」
南区第二孤児院。
毛布と薪の配分を最優先に変えた、あの施設だ。
リディアは少し慎重な手つきで封書を取った。紙は高価なものではない。むしろ質素で、端も少しだけ粗い。けれど封は丁寧に閉じられ、宛名の文字も一生懸命書いたのだとわかる。
開いてよいものか、一瞬迷った。
けれど自分宛なのだ。
リディアはゆっくり封を切った。
中の手紙は、孤児院の院長からのものだった。
文章は決して洗練されていない。貴族の手紙のような飾った言葉も少ない。だが、その分だけ、ひとつひとつの文字がまっすぐだった。
――宰相夫人リディア様。
このたびは、南区第二孤児院へ毛布と薪、豆と保存食を多くお届けくださり、まことにありがとうございます。
今年は幼い子が多く、夜に何度も起きて泣く子がいました。寒さで眠れない子どもたちが、昨夜は久しぶりに朝まで眠りました。
いただいた豆で温かいスープを作りました。小さい子たちもよく食べました。
子どもたちが、奥様へお礼を言いたいと申しましたので、拙いものですが同封いたします。
そこでリディアの目が止まった。
同封。
木箱の中だろうか。
ハロルドが静かに箱を開ける。中には、何枚かの小さな紙が入っていた。
絵だった。
子どもが描いた、拙い絵。
大きな鍋。
湯気の立つスープ。
毛布にくるまる子どもたち。
そして、おそらくリディアなのだろう、青いドレスの女性がにっこり笑っている。
その女性の髪は金色で、頭にはなぜか王冠のようなものが乗っていた。
リディアはしばらく、その絵を見つめた。
声が出なかった。
絵は上手ではない。線は曲がっているし、顔も丸ばかりだ。鍋は少し傾いているし、スープの湯気はやけに大きい。
でも、温かかった。
紙の上から、子どもたちの部屋の匂いがする気がした。薪の煙と、豆のスープと、使い古した毛布と、安心して眠ったあとの朝の空気。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……昨夜は、朝まで眠れたそうです」
リディアが小さく言うと、オスカーがそっと手紙を覗き込み、目元を和らげた。
「それは、よかった」
たったそれだけの言葉なのに、リディアは急に涙が出そうになった。
王宮で褒められたときも、父から“誇らしい”と書かれたときも、こんなふうにはならなかった。
なのに、見たこともない子どもたちが温かいスープを飲み、朝まで眠れたという一文だけで、胸の奥が崩れそうになる。
これが、仕事の結果なのだろうか。
書類の向こうにいた人たちが、本当にそこにいたのだと知ること。
自分が引いた赤い線が、誰かの夜を少しだけ温かくしたと知ること。
リディアは絵の一枚を手に取った。
青いドレスの女性の横には、子どもの字で短く書かれている。
――おくさま、ありがとう。
たった七文字。
それなのに、父の手紙よりずっと胸に響いた。
リディアは指先で、紙の端をそっとなぞった。
「……どうしましょう」
思わず漏れた声に、エマが静かに尋ねる。
「どう、とは」
「嬉しいのです。とても。でも、どうしたらいいのかわからなくて」
本当にわからなかった。
嬉しい。
けれど、その嬉しさをどこへ置けばいいのかがわからない。
侯爵家では、認められたらもっと頑張らなければならなかった。王宮では、称賛されたら次の失敗を恐れた。だがこの感謝は、そのどちらとも違う。
もっと頑張らなければ、ではなく。
よかった、とただ思える。
その気持ちの扱い方を、リディアはまだ知らない。
「旦那様にお見せしては?」
オスカーが言った。
その声は、いつもの実務的な響きとは少し違っていた。
「これは、奥様の仕事の成果ですから」
リディアは絵を見つめたまま、小さく頷いた。
「……そうね」
その日の夕刻、アルベルトが執務室へ戻ったころを見計らって、リディアは木箱を持って訪ねた。
扉の前で、一度だけ息を整える。
胸が少し落ち着かない。
嬉しいことを報告する。
ただそれだけなのに、緊張する。
ノックをすると、すぐに低い声が返ってきた。
「入れ」
リディアが中へ入ると、アルベルトは机に向かって書類へ目を通していた。いつも通りの無駄のない姿。疲れているはずなのに、背筋は少しも崩れていない。
彼は顔を上げ、リディアの手元の箱を見た。
「何だ」
「南区第二孤児院から、手紙が届きました」
その一言で、彼の視線が少しだけ変わった。
「そうか」
「はい。毛布と薪、それから豆と保存食のお礼だそうです」
リディアは机の前まで進み、箱を置いた。
「子どもたちが、絵を描いてくれました」
箱の蓋を開け、一枚目の絵を取り出す。
青いドレスの女性。
大きな鍋。
湯気の立つスープ。
アルベルトはそれを受け取り、黙って見た。
長い沈黙だった。
普段の彼なら、書類の数字や文面を素早く読み、必要な判断をすぐ下す。だがこの絵に対しては、少し違った。
じっと見ている。
まるで、その拙い線の奥にあるものを確かめるように。
「……王冠があるな」
やがて、彼はそう言った。
リディアは一瞬きょとんとして、それから絵を見た。
たしかに、青いドレスの女性の頭には王冠らしきものがある。
「本当ですね。なぜでしょう」
「子どもにとっては、貴婦人は皆、姫か女王に見えるのだろう」
真面目な顔で言うので、リディアは少しだけ笑ってしまった。
「私は女王には見えないと思います」
「少なくともこの絵ではそうだ」
「では、絵の中だけですね」
「今はな」
その返しに、リディアは思わず彼を見た。
「今は?」
「いずれ、慈善事業を動かす女主人としてなら、そう見える者も出るだろう」
言い方はいつも通り淡々としていた。
けれどリディアの胸は、少しだけ熱くなる。
「大げさです」
「そうか?」
「私は、まだ帳簿を見て、少し意見を出しただけです」
「その“少し”で、子どもが朝まで眠った」
アルベルトは絵を机の上へ置き、リディアを見た。
「なら十分だ」
その一言で、リディアの目の奥がまた熱くなった。
十分。
この人は時々、あまりに短い言葉で、心の一番弱いところへ触れてくる。
「……この手紙、どう保管すればよいでしょうか」
リディアは少し慌てて話題を変えるように言った。
「私室に置いておくべきか、それとも慈善事業の記録として」
「両方だな」
アルベルトはすぐに答えた。
「手紙は君が持っていればいい。絵は写しを取らせ、原本は額に入れろ」
「額に?」
「当然だ」
当然なのだろうか。
リディアは少し戸惑った。
「子どもの絵ですよ」
「だからだ」
アルベルトは真顔で言う。
「帳簿の数字が人の生活につながった証拠だ。見えるところに置け」
リディアは言葉を失った。
見えるところに置け。
自分がしたことの結果を、隠さずに持っていろと言われている気がした。
「……どこに置くのですか」
「作業室だな。君が迷ったときに見える場所がいい」
また、見抜かれている。
リディアは少しだけ目を伏せた。
「私がまた迷うと思っていらっしゃるのですね」
「迷わないと思うのか」
「……思いません」
「なら置け」
あまりにも簡単に言われて、リディアは少しだけ笑ってしまった。
「旦那様は、本当に容赦がありません」
「事実を言っているだけだ」
「そこが容赦ないのです」
そう返すと、アルベルトはほんのわずかに口元を緩めた。
笑った、とは言えない。
でも、以前なら見逃していたような小さな変化だ。
リディアはそれを見て、胸の奥が静かに温まるのを感じた。
「ありがとうございます」
「何に対してだ」
「この仕事を、私に任せてくださったことに」
アルベルトは少しだけ沈黙した。
「任せたのは、君にできると思ったからだ」
「それでもです」
リディアはまっすぐ彼を見た。
「できると思っていただけたことが、嬉しいのです」
言ってしまってから、頬が少し熱くなる。
こんなふうに素直に言うのは、まだ慣れない。
けれど不思議と、後悔はなかった。
アルベルトはしばらくリディアを見ていた。
その目にいつもの鋭さはある。
けれど今は、どこか静かに柔らかい。
「そうか」
彼は短く答えた。
それだけ。
でも、十分だった。
リディアは木箱の中の絵をもう一度見た。
青いドレスの女性。
大きな鍋。
子どもたち。
そして、拙い文字の「ありがとう」。
父の手紙よりも、王宮の称賛よりも、社交界の評判よりも。
この紙切れのほうが、今のリディアにはずっと大切だった。
初めて、自分の仕事が誰かの夜を温めた。
その実感が、胸の奥で小さな灯となって残り続けていた。




