第30話 「奥様の案でいきます」――その一言が、私の中の小さな灯を仕事に変えた
翌朝、作業室にはいつもより早く灯りが入っていた。
曇り空だったせいで、窓から差す光は淡い。机の上には昨夜までに整理した慈善事業の書類がいくつも並び、南区、東区、西区、それぞれの孤児院と施療院の名が書かれた小さな札が置かれている。
リディアはその札を一つずつ見ながら、昨日のアルベルトの言葉を思い出していた。
――よく似合っていた。
仕事の話ではない。
書類の評価でもない。
自分が笑っていたことについて、あの人はそう言った。
思い出すだけで、まだ少し頬が熱くなる。
リディアは慌てて目の前の帳簿へ視線を戻した。
今はそれを考える時間ではない。
今日は、慈善局の担当官が宰相家へ来る日だった。昨日リディアが出した再配分案をもとに、実際の調整を行うためである。
アルベルトは朝から執務室にいる。
オスカーも既に別室で資料を整えていた。
エマは、リディアが緊張しすぎないよう、いつもより薄い茶を用意してくれている。
「奥様、少しお飲みになりますか」
エマが静かに尋ねた。
「ありがとう。いただくわ」
カップを受け取り、ひと口だけ飲む。柑橘に似た薄い香りが喉を通った。
「……緊張しているの、わかる?」
「はい」
即答だった。
リディアは少しだけ苦笑した。
「少しは迷ってくれてもいいのに」
「迷ったほうがよろしかったですか?」
「いいえ。正直で助かるわ」
エマの目元がわずかに和らいだ。
こういう小さなやり取りが、最近は少しだけできるようになっている。侯爵家にいたころの自分なら、使用人とこんなふうに言葉を交わす余裕はなかったかもしれない。
そのとき、扉が叩かれた。
「奥様、よろしいでしょうか」
オスカーだった。
「どうぞ」
入ってきた彼は、数枚の書類を抱えていた。少し寝不足らしく目の下に影があったが、表情は明るい。
「南区と東区の修正版です。旦那様にも確認いただきました」
「ありがとうございます」
「それで……旦那様より、今日の説明は奥様からなさるようにと」
リディアの手が止まった。
「私が?」
「はい」
オスカーは少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「突然で驚かれるとは思いますが、旦那様は『この案を最も理解しているのはリディアだ』と」
リディアは言葉を失った。
自分が説明する。
慈善局の担当官たちを前に。
宰相家の書類としてではなく、自分が組んだ案として。
胸の奥が一気に固くなる。
「でも、私は正式な担当官ではありません」
「旦那様は、そこも含めて問題ないと」
「問題ない、で済むのですか」
「旦那様の場合、済ませます」
オスカーが真顔で言うものだから、リディアは返す言葉に困った。
確かに、アルベルトならそうするだろう。
必要なら決める。
決めたなら通す。
その際に周囲がどう驚くかは、必要な範囲でしか考慮しない。
「……私にできるかしら」
思わず漏れた声は、自分でも弱く聞こえた。
オスカーはすぐには答えなかった。少し考えてから、机の上の札へ視線を落とす。
「できるかどうかで言うなら、昨日もうできています」
リディアは彼を見る。
「私が今日するのは、奥様の案を清書して、担当官が聞き逃したところを補うことです。中身は奥様が一番わかっていらっしゃいます」
まっすぐな言葉だった。
お世辞ではない。
励ましでもない。
ただ、仕事相手として事実を告げている。
そのことが、今のリディアにはありがたかった。
「……わかりました」
彼女はカップを置き、書類を一枚ずつ整え直した。
「では、説明します」
言った瞬間、胸はまだ緊張していた。
けれどその奥に、小さな灯のようなものもあった。
会議は、宰相家の小会議室で行われた。
大きすぎない部屋だった。窓からの光は穏やかで、机も人数に合わせて整えられている。アルベルトは上座に座り、リディアはその右手側に席を用意されていた。
慈善局から来たのは三人。
年配の局長。
中年の実務官。
そして若い補佐官。
三人とも礼は丁寧だったが、リディアへ向ける視線には微妙な戸惑いがあった。
無理もない。
宰相夫人が同席するだけなら、慈善事業への関心として受け取れる。だが彼女が説明役として書類の前に座っているとなれば、話は別だ。
局長が柔らかく笑った。
「奥様自らご関心をお寄せくださるとは、慈善局としても光栄に存じます」
言葉は丁重だ。
けれどその奥には、“貴婦人としての関心”に留めたい気配があった。
リディアはそれを感じ取った。
以前なら、ここで引いただろう。
出過ぎぬように、相手が望む“慈善に心を寄せる奥方”の顔を作って、アルベルトかオスカーに実務を任せたはずだ。
けれど、今は違う。
これは自分が組んだ案だ。
数字の向こうにいる人たちのことを考えて作った案だ。
だから、引いてはいけない。
「こちらこそ、お忙しいところお越しいただきありがとうございます」
リディアは静かに礼を返した。
「本日は、現行の再配分案について、いくつか確認と修正のお願いがございます」
局長の笑みが、わずかに止まった。
「修正、でございますか」
「はい」
リディアは一枚目の表を机へ広げた。
「まず南区です。こちらは前年より孤児の人数が増えていますが、毛布と薪の配分が減っています。理由を伺えますか」
実務官が少し慌てたように書類をめくる。
「南区は後援貴族からの独自支援があると聞いておりますので」
「その独自支援は、食料中心です。暖房に関わる物資ではありません」
リディアは別の紙を差し出す。
「孤児院側の申告にも、毛布と薪の不足が明記されています。ですが慈善局の集計表では、独自支援があるという理由で全体配分から減らされています」
実務官の手が止まった。
局長が少し表情を改める。
「奥様、よくそこまでお調べに」
「数字を地区ごとに並べ替えると見えます」
リディアはできるだけ淡々と言った。
「施設ごとに見ると不自然ではありません。ですが、地区単位で比較すると、南区だけ明らかに暖房物資の比率が低いのです」
補佐官が思わず身を乗り出した。
「たしかに……地区別での比較は、今回は行っておりませんでした」
「では、次回から加えてください」
言ってから、リディアは少しだけ自分に驚いた。
命じた。
自分が、慈善局の担当者に。
だが誰も笑わなかった。
アルベルトも何も言わない。
ただ、当然のようにその場が進んでいく。
リディアは息を整え、次の紙へ移った。
「次に西区の施療院です。薬草の配分が多すぎます。ですが、単純に削るのではなく、ローゼン侯爵家の後援名目は残すべきです」
局長が眉を上げる。
「侯爵家の顔を立てるため、ということでしょうか」
「はい。そこを無視すると、今後の寄付が減ります。ですので名目は医療支援のまま、内容を一部、寝具と薪に振り替える形がよろしいかと」
リディアはさらに続ける。
「薬草があっても、患者を温める場所がなければ回復は遅れます。冬季施療では、暖を取ること自体が治療の一部です」
若い補佐官が、今度ははっきりと頷いた。
「現場からも同じ報告がありました。薬草は余り気味だが、部屋を暖めきれないと」
局長が補佐官を見る。
「なぜ上げなかった」
「申し訳ありません。上申はしましたが、集計時に……」
言葉が濁る。
アルベルトがそこで初めて口を開いた。
「現場の報告が上で消える仕組みなら、仕組みごと直せ」
声は低く静かだった。
怒鳴ったわけではない。
それでも会議室の空気が一段冷える。
局長は深く頭を下げた。
「直ちに確認いたします」
リディアはその様子を見ながら、自分の鼓動が少し速くなっているのを感じていた。
怖さではない。
自分の言葉で、場が動いた。
その感覚が、まだ不慣れだった。
会議は一時間ほど続いた。
途中、実務官が何度か遠回しに現行案を守ろうとしたが、リディアは一つずつ数字を示して返した。オスカーが横から資料を出し、補佐官が現場の話を補った。アルベルトはほとんど黙っていたが、必要なところだけ短く線を引いた。
終わる頃には、当初の再配分案はほとんど形を変えていた。
南区の孤児院には毛布と薪を優先。
東区は現場責任者から直接聞き取り。
西区の施療院は、後援貴族の顔を潰さずに物資内容を修正。
そして今後は、地区別、年齢別、物資の用途別に集計表を作る。
局長は帰り際、リディアへ向き直った。
「奥様、本日は大変失礼をいたしました」
リディアは少しだけ目を瞬く。
「失礼?」
「正直に申し上げます。私は、奥様が慈善事業にご関心をお持ちになった程度だと思っておりました」
局長は深く頭を下げた。
「ですが、今日のご指摘は実務そのものでした。今後、慈善局としても奥様の案を基準に進めさせていただきます」
その言葉に、胸の奥が静かに熱くなった。
奥様の案。
自分の案が、基準になる。
リディアは一瞬、どう返せばいいかわからなかった。
否定しそうになる。
まだ不慣れだからと逃げそうになる。
でも、そうではない。
「ありがとうございます」
彼女は静かに言った。
「ですが、私一人の案ではありません。現場からの報告が正しく上がるようになれば、もっとよい配分ができるはずです。どうか、次からは現場の声を先に消さないでください」
局長は、今度こそ本当に表情を引き締めた。
「承知いたしました」
三人が下がったあと、会議室には静けさが戻った。
リディアはそこでようやく、深く息を吐いた。
緊張していたらしい。
指先が少し冷えている。
「よくやった」
アルベルトの声がした。
リディアは顔を上げる。
彼はいつも通りの表情だった。けれどその目には、はっきりとした評価がある。
「途中で退くと思ったが、退かなかった」
「退きそうにはなりました」
正直に言うと、アルベルトの口元がほんの少しだけ動いた。
「だろうな」
「でも……退いたら、南区の毛布がまた減らされると思ったので」
「それでいい」
彼は短く言った。
「守る理由が自分の面目ではなく、相手の必要になったなら、君は強くなれる」
リディアはその言葉を、ゆっくり胸の中で受け止めた。
強い。
自分にその言葉が向けられる日が来るとは思わなかった。
「私は、強いのでしょうか」
「今はまだ、強くなろうとしている途中だな」
容赦のない答えだった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「途中……」
「そうだ」
アルベルトは机の上の資料を一つにまとめる。
「途中なら、進めばいい」
また、簡単そうに言う。
けれどリディアは、今日はその言葉を少しだけ信じられる気がした。
会議室を出ると、廊下でエマが待っていた。
「奥様、お疲れさまでした」
「ええ。少し疲れたわ」
素直に言うと、エマは静かに頷いた。
「では、お部屋に温かいスープをご用意いたします」
「ありがとう。……今日は、少し多めでも食べられるかもしれない」
その言葉に、エマの表情がほんの少し明るくなった。
「かしこまりました」
リディアは窓の外へ目を向けた。
曇っていた空の端に、少しだけ光が差している。
自分の中の小さな灯も、今、少しだけ仕事の形になった。
誰かの役に立てと言われたからではない。
家の面目のためでもない。
ただ、必要なところへ必要なものを届けたいと思ったから。
その気持ちで動けたことが、今日のリディアには何より大きかった。




