第29話 笑っただけなのに、屋敷中が少しだけ春になった
慈善事業の書類を整理する仕事は、思っていたよりもずっと地味だった。
華やかな施しの話ではない。
感謝される場面でもない。
紙の上に並ぶ数字をひとつずつ見比べ、現場から上がってきた報告の癖を読み、貴族たちの体面と実際に必要な物資の量を、どうにか一つの表へ落とし込んでいく。
けれどリディアは、その地味な作業が嫌いではなかった。
むしろ、不思議なほど落ち着いた。
王宮で学ばされた慈善事業は、もっと儀礼的だった。
どの孤児院へ視察に行けば妃候補らしく見えるか。
どの施療院へ寄付すれば王家の慈悲が伝わるか。
どんな言葉をかければ、後日、王都の貴婦人たちが好意的に語るか。
そういう“見え方”ばかりが先にあった。
だが今、リディアの前にある書類は違う。
そこには、冬の夜に毛布が足りない子どもがいる。
薬草はあるのに薪が足りず、患者を温められない施療院がある。
読み書きの教材より先に靴が必要な施設がある。
数字の向こうに、人の体温がある。
そのことに気づいてから、リディアは帳簿をただの書類として見られなくなった。
「奥様、こちらの東区第三孤児院ですが」
書記官のオスカーが、机の端から一枚の紙を差し出す。
彼はまだ若いが、仕事は早い。初めのうちは宰相夫人であるリディアへどこか遠慮があったが、数日一緒に書類へ向き合ううちに、その距離は少しずつ変わってきていた。
敬意はある。
だが、扱いが少し実務的になった。
リディアはそれを、密かに嬉しく思っていた。
飾りではなく、仕事をする相手として扱われている気がしたからだ。
「東区第三……前回、余った薪を正直に報告していた施設ですね」
「はい。ただ今回は食料の申告が少し増えています。人数の増加に対しては妥当ですが、冬季備蓄の残量と合わせると、やや多いようにも見えまして」
リディアは紙を受け取り、数行だけ目を走らせた。
「……いえ、これは増やしてよいと思います」
「理由を伺っても?」
「この欄です。年長の子どもが二人、職人見習いへ出ています。その分、施設内で薪割りや水汲みをしていた手が減っているはずです。幼い子が多く残るなら、火を使う食事より、調理の手間が少ない保存食を増やしたほうが現場の負担が減ります」
オスカーは少し目を丸くしたあと、すぐに頷いた。
「なるほど。食料そのものの量ではなく、調理の負担ですか」
「ええ。帳簿上では見えにくいですが、人数が同じでも年齢の内訳で必要なものは変わります」
「すぐ修正します」
オスカーが手早くメモを取る。
その手つきに迷いはない。
彼はもう、リディアの指摘を“貴婦人の感想”として扱っていなかった。
それが、胸に小さく灯る。
部屋の隅ではエマが茶を用意していた。今日は香りの弱い茶ではなく、少しだけ果実の香りがするものだった。リディアが先日、疲れたときには少し酸味のあるもののほうが飲みやすいと漏らしたのを覚えていたのだろう。
いや、漏らしたというほどのことでもない。
ただ、以前出された柑橘の茶を飲んだときに「これは飲みやすいわ」と言っただけだった。
それでも、この屋敷ではそういう一言が拾われる。
拾われて、次に静かに置かれる。
リディアはそのことに、まだときどき驚いてしまう。
「奥様、少し休憩なさいますか」
エマが声をかける。
「そうね。オスカーも、少し休んで」
「いえ、私はまだ」
「あなた、さっきから一度も茶を飲んでいないでしょう。文字が斜めになってきているわ」
リディアがそう言うと、オスカーははっと自分の書きかけの紙を見下ろした。
確かに、最後の数行だけわずかに右肩上がりになっている。
「……これは失礼しました」
彼が真面目に頭を下げるものだから、リディアは思わず口元を緩めた。
「謝るほどのことではないわ。私も、疲れると字が小さくなるもの」
「奥様もですか」
「ええ。昔、教師に何度も直されました。『文字まで遠慮する必要はありません』って」
言ってから、リディアは少しだけ目を瞬いた。
自分で昔のことを、こんなふうに軽く話せた。
以前なら、叱られた記憶は胸の奥を固くするものだった。けれど今は、その一部を少しだけ冗談のように口にできている。
オスカーは意外そうに笑った。
「文字が遠慮、ですか。なかなか厳しい先生ですね」
「ええ。声も文字も遠慮がちだと、王宮では埋もれると言われました」
「それで、奥様は埋もれなかったのですね」
「どうかしら。少なくとも、かなり薄くはなっていたと思うわ」
そう言ってから、リディアは自分でも驚くほど自然に、少しだけ笑った。
本当に、ほんの少しだけだった。
大きな声を出したわけではない。
口元が緩み、目元にわずかな温度が乗っただけ。
だがその瞬間、部屋の空気が変わった。
オスカーが動きを止める。
エマが茶器を持ったまま一瞬だけ目を丸くする。
扉の近くで控えていた若い従者にいたっては、まるで大事件でも見たかのように背筋を伸ばした。
リディアはその反応に気づき、笑みを引っ込める。
「……何かしら」
尋ねると、オスカーが慌てて咳払いをした。
「いえ。失礼しました」
「今、明らかに何かあった顔をしていたわ」
「その……奥様が笑われたので」
正直に言われ、今度はリディアのほうが固まった。
「私、笑っていましたか」
「はい」
オスカーは真剣に頷く。
「かなり貴重な瞬間を拝見した気がします」
「大げさよ」
リディアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
するとエマが、いつもの落ち着いた顔を保とうとしながらも、微妙に目元を和らげて言った。
「大げさではないと思います」
「エマまで」
「奥様の自然な笑顔は、初めて拝見した気がいたします」
そう言われると、ますます居心地が悪い。
自然な笑顔。
自分ではまったく意識していなかった。
侯爵家でも王宮でも、笑みは作るものだった。
場に合わせ、相手に合わせ、求められる角度で浮かべるもの。
自然かどうかなど、考えたこともなかった。
それなのに今、帳簿と茶器と散らかった紙の前で、ほんの少しだけ自然に笑ったらしい。
その事実に、リディア自身が一番戸惑っていた。
「そんなに珍しいものでは……」
「珍しいです」
オスカーがきっぱり言う。
リディアは思わず苦笑しかけた。
「あなた、案外はっきり言うのね」
「旦那様の下におりますと、曖昧な報告は怒られますので」
その返しがあまりに実感のこもったものだったので、今度こそリディアは小さく笑ってしまった。
また部屋が静止する。
「……もう、そんなに見ないでください」
少し困ってそう言うと、エマが小さく頭を下げた。
「失礼いたしました。ただ、嬉しかったものですから」
「嬉しい?」
「はい」
エマは茶を置きながら、控えめに続けた。
「奥様が、この屋敷で少しでも楽に息をなさっているように見えましたので」
その言葉に、リディアは胸の奥を軽く突かれた。
楽に息をしている。
自分が?
そう言われて初めて、少しだけ思い当たる。
確かに最近、息の詰まる瞬間が減った気がする。
食べる量は多くない。夜に目が覚めることもある。社交界への不安だって消えていない。
それでも、侯爵家や王宮で常に胸の奥にあった硬い塊が、この屋敷では少しずつ小さくなっている。
温室へ行きたいと言える。
書庫で本を読める。
食べづらければ、食べやすいものを出してもらえる。
眠れない夜には、言っていいと知らされている。
そして今は、帳簿の前で少し笑えた。
たったそれだけのことが、こんなに大きいとは思わなかった。
午後になり、作業が一段落したところで、アルベルトが執務室から戻ってきた。
リディアたちが使っている小さな作業室へ入るなり、彼は机上に積まれた修正済みの書類を見て、次にオスカーを見た。
「進んだか」
「はい。奥様のご指摘で、南区と東区の配分案をかなり修正できました」
「そうか」
アルベルトは短く答え、リディアの前に置かれた紙へ手を伸ばす。
数枚だけ目を通す。
そして、ほんのわずかに眉を上げた。
「悪くない」
いつもの短い評価。
けれど今のリディアには、それが少し嬉しい。
「ありがとうございます」
以前よりも自然に言えた。
謝らず、否定せず、ただ受け取る。
その小さな変化に、アルベルトの視線が一瞬だけ止まった。だが彼は何も言わず、次の紙をめくる。
そのとき、オスカーが少し余計なことを言った。
「旦那様、先ほど奥様が笑われました」
リディアは思わずオスカーを見た。
「オスカー」
「失礼しました。ですが、ご報告すべきかと」
「何の報告なの」
「屋敷の空気に関わる重要事項です」
あまりにも真面目な顔で言うものだから、リディアは叱るに叱れなかった。
アルベルトは紙から目を上げ、リディアを見る。
その視線はいつも通り静かだった。けれど、何かを確かめるようでもあった。
「笑ったのか」
低い声。
責める響きはない。
けれど、なぜそんなことを確認されなければならないのか、リディアには少し恥ずかしい。
「……少しだけです」
「そうか」
アルベルトはそれだけ言った。
だが次の瞬間、彼はほんのわずかに言葉を失ったように見えた。
本当にわずかだった。
他の人なら気づかなかったかもしれない。
けれど最近、リディアはこの人の小さな変化を少しずつ拾えるようになってきていた。
視線が一拍だけ止まり、口元が動く前に言葉が消えた。
それだけ。
それだけなのに、なぜかリディアの胸が小さく跳ねた。
「旦那様?」
問いかけると、アルベルトはすぐに平静を取り戻した。
「いや」
「何か?」
「何でもない」
あまりにも何でもなくない声だった。
オスカーがそっと視線を逸らし、エマは茶器へ視線を落としている。
リディアは少しだけ首を傾げた。
アルベルトは咳払いもせず、ただ手元の書類を机へ置く。
「作業は今日はここまででいい。疲れただろう」
「まだ少しできます」
「疲れてから止めるな。疲れる前に止めろ」
その言い方が、いかにも彼らしくて、リディアはまたほんの少し笑いそうになる。
けれど今度は部屋中に注目されそうだったので、どうにかこらえた。
「……はい。では、ここまでにします」
「そうしろ」
アルベルトは短く頷き、踵を返しかけた。
けれど扉の前で一度だけ立ち止まる。
「リディア」
名前を呼ばれて、リディアは顔を上げた。
以前は“奥様”や“君”と呼ばれることが多かった。名前で呼ばれると、まだ少しだけ胸の奥が揺れる。
「はい」
「仕事は悪くなかった」
少し間を置いて、彼は続けた。
「……それと」
珍しく、言葉を探しているようだった。
リディアは黙って待つ。
アルベルトは一度だけ視線を外し、それから短く言った。
「よく似合っていた」
「え?」
「笑っていたなら、その話だ」
それだけ告げると、彼は今度こそ部屋を出ていった。
扉が閉まる。
残されたリディアは、しばらく動けなかった。
よく似合っていた。
笑っていたなら、その話だ。
意味を理解した瞬間、頬が一気に熱くなる。
「……今のは」
リディアが呟くと、オスカーが小声で言った。
「旦那様なりの最大級かと」
エマも静かに頷く。
「かなり、珍しいお言葉でした」
リディアは両手で頬を押さえたい衝動をどうにか堪えた。
褒められたのだ。
たぶん。
仕事ではなく、笑顔を。
それがあまりに不意打ちで、胸の奥がひどく落ち着かない。
帳簿に触れた日、誰も見ていなかった才能が息を吹き返した。
けれど同じ日、もっと自分でも知らなかったものが、少しだけ顔を出したのかもしれない。
自然に笑う自分。
そしてそれを、あの冷たい男が一瞬言葉を失うほど見ていたという事実。
そのことが、慈善事業のどんな数字よりも、リディアの心を静かに乱していた。




