第28話 彼女が帳簿に触れた日、誰も見ていなかった才能が静かに息を吹き返した
慈善事業の管理に関する書類が、宰相家へ運び込まれたのは、まだ朝の冷えが残る時間だった。
リディアはその日、書庫で北方交易に関する記録を読み直していた。以前なら、王太子妃教育の延長のように感じていたはずの資料が、最近は少し違って見えるようになっている。
覚えさせられた知識ではなく、使える知識。
そう思えるようになったのは、たぶんアルベルトの執務室で文書を見せられたあの日からだ。
読み終えた頁に栞を挟んだところで、扉が控えめに叩かれた。
「奥様」
エマの声だった。
「ハロルドより、旦那様の執務室へお越しいただきたいとのことです」
リディアは本から顔を上げる。
「旦那様が?」
「はい。急ぎではないが、できれば午前のうちに、と」
急ぎではないが、午前のうちに。
その言い方だけで、何かしら仕事に関わる話なのだとわかった。
以前の自分なら、そこでまず不安になっただろう。失敗してはいけない。答えられなければならない。出過ぎてはいけない。そんな考えが先に立って、喉の奥が細くなったに違いない。
けれど今は、緊張と一緒に、別の感情もあった。
知りたい。
何を見せられるのだろう。自分に何を求めているのだろう。
その小さな好奇心に気づき、リディアは少しだけ驚いた。
「すぐ参ります」
そう答えて本を閉じる。
執務室に入ると、机の上には見慣れぬ種類の書類が積まれていた。
外交文書ではない。家門図でもない。紙の質も形式も少しばらばらで、束ごとに紐でまとめられている。端には孤児院、施療院、冬季備蓄、救貧基金といった文字が見えた。
アルベルトは机の向こうで書類に目を通していたが、リディアが入ると顔を上げた。
「来たか」
「お呼びと伺いました」
「座れ」
リディアは椅子へ腰を下ろす。目の前の書類へ自然と視線が向いた。
「慈善事業の書類、でしょうか」
「ああ」
アルベルトは一番上の束を手に取り、彼女の前へ置いた。
「王都周辺の孤児院、施療院、冬季備蓄倉の支出報告だ。例年は王宮の慈善局が処理しているが、今年は不備が多い」
「不備……」
「数字が合わない。物資の配分も偏っている。悪意による横領か、単なる無能か、まだ断定はしていない」
淡々とした言い方だったが、内容は穏やかではなかった。
リディアは差し出された報告書を一枚めくる。項目は細かい。寄付金、穀物、薬草、毛布、薪、孤児院の人数、施療院の受け入れ患者数。数字だけ見れば整っているようにも見えるが、数枚追うだけで妙な偏りがあることがわかった。
「……南区の孤児院だけ、毛布の配分が少ないですね」
ぽつりと言うと、アルベルトはわずかに目を細めた。
「気づいたか」
「人数は前年より増えています。けれど、配分は減っている。逆に西区の施療院は、患者数の増加に対して薬草の量が多すぎます」
「理由は?」
試すような声音ではなかった。
ただ、続きを求めている。
リディアはもう一度報告書へ目を落とした。
「南区の孤児院は、後援している貴族家が弱いのでしょうか。西区の施療院は……こちらはローゼン侯爵家が関わっていますね」
「そうだ」
「なら、担当官が貴族家の顔色を見て配分を変えた可能性があります。横領とまでは言えませんが、少なくとも必要量に基づいた配分ではありません」
言いながら、リディアは次の紙へ指を滑らせる。
「ただ、西区の施療院も完全に余っているわけではなさそうです。薬草は多いですが、薪が少ない。寒期に患者を受け入れるなら、薬より先に暖を取る場所が必要です」
そこまで言ってから、リディアはふと顔を上げた。
言いすぎただろうか。
そう思う癖はまだ消えていない。
けれどアルベルトは、ただ静かに彼女を見ていた。
「続けろ」
その一言で、リディアの中のためらいが少し薄れる。
「はい」
彼女は書類を数枚並べ直した。
「孤児院と施療院を別々に見ると、数字がわかりにくくなっています。けれど地区ごとにまとめると、不自然さが出ます。南区は人口に対して配分が少なすぎます。西区は貴族の目につきやすい項目が多く、実際に必要なものが足りていません。東区は……帳簿の書き方が雑ですが、むしろ現場の申告は正直かもしれません」
「なぜそう思う」
「数字を綺麗に見せようとしていません。余りが出たものは余りとして記録していますし、不足分も不足として書いています。嘘をつくなら、もう少し整えるはずです」
言ってから、自分の言葉に少しだけ苦くなる。
整いすぎたものほど、疑わしい。
それは書類だけではなく、人にも言えるのかもしれない。
アルベルトは机の端に置かれていた別の紙を一枚取った。
「慈善局から上がってきた再配分案だ」
リディアはそれを受け取って目を通す。
すぐに眉が寄りそうになり、慌てて表情を整えた。けれどアルベルトは当然のように気づいたらしい。
「言え」
「……では、率直に申し上げます」
「ああ」
「見栄えがよすぎます」
アルベルトの目がわずかに動いた。
「見栄え?」
「はい。貴族へ説明するには綺麗です。各区へ均等に、主要施設へ公平に、という形になっています。けれど実際の必要量を見ていません。これでは南区は冬を越せませんし、西区の施療院は薬草だけ多く抱えることになります」
リディアは再配分案と元の報告書を見比べた。
「それに、孤児院の子どもの年齢が考慮されていません。幼い子が多い施設ほど、食料だけではなく衣類と暖房の比重を上げるべきです。大きい子が多い施設なら、仕事の訓練や読み書きの支援に回したほうが長期的には自立につながります」
話しているうちに、だんだん頭が澄んでいくのがわかった。
これは王太子妃教育で学んだ慈善事業の知識だった。
寄付金の扱い、施療院の運営、孤児院の後援、冬季備蓄の配分。かつては“妃として慈悲深く見えるため”の教養だと思っていた。
けれど今、目の前の数字の向こうには、人がいる。
寒い部屋で毛布を待つ子ども。薬より先に薪が必要な施療院。見栄えのいい配分案の陰で、必要なものを後回しにされる人々。
それに気づいたとき、リディアは紙の上の数字を、ただの数字として見られなくなった。
「南区の孤児院へは、今年だけでなく来年の春まで見越した支援が必要です。寒期に体調を崩せば、春に人手も学びも遅れます。東区は申告が正直なら、むしろ現場責任者を呼んで直接聞いたほうが早いと思います。西区はローゼン侯爵家の顔を立てる必要があるなら、薬草を減らすのではなく、医療支援の名目を残して薪と寝具を増やす形にすれば角が立ちにくいかと」
言い終えると、部屋が静かになった。
リディアはそこで初めて、自分がかなり長く話していたことに気づく。
「あの……」
また謝りそうになる。
けれど、寸前で言葉を変えた。
「……私の考えは、以上です」
アルベルトは、ほんのわずかに目を細めた。
それが満足に近い変化だと、最近のリディアには少しだけわかるようになってきた。
「悪くない」
短い評価。
だがその一言で、胸の奥がじわりと熱くなる。
「むしろ、慈善局の案より使える」
「そんな」
「事実だ」
アルベルトはすぐに断言した。
「現場の必要量、貴族への体面、長期的な影響。三つを同時に見ている。慈善局の案は体面に寄りすぎている」
彼は机の横に控えていた側近へ目を向けた。
「オスカー」
「はい」
栗色の髪の若い書記官が、一歩前に出る。
リディアはそこで初めて、彼が部屋にいたことに意識が向いた。気配を消して控えていたらしい。
「今の内容で再配分案を作れ。南区の孤児院は優先度を上げる。西区はローゼン侯爵家の顔を潰さない形で物資を入れ替えろ。東区は現場責任者を呼ぶ」
「承知しました」
オスカーは手早くメモを取りながら、リディアのほうを一度見た。
その目には驚きがあった。
侮りではない。
意外なものを見た、という素直な驚きだった。
リディアは少し居心地が悪くなり、視線を下げかける。だがアルベルトがすぐに言った。
「夫人の意見として扱え」
リディアは思わず顔を上げた。
「旦那様」
「何だ」
「私の意見として、ですか」
「そうだ」
「ですが、私はまだ正式に慈善局へ関わっているわけでは」
「なら、今日から関わればいい」
あまりにも簡単に言われ、リディアは言葉を失った。
今日から。
そんなふうに決まるものなのだろうか。
アルベルトは平然としている。
「宰相夫人が慈善事業に関わるのは不自然ではない。むしろ社交界の口を封じるにも都合がいい」
「口を封じる……」
「彼らは君が壊れるのを見たがっている。なら、壊れるどころか仕事を始めたと見せればいい」
なんとも彼らしい理屈だった。
優しいわけではない。
けれど、確実に守る。
悪意ある視線に対し、感情で反応するのではなく、実績で塞ぐ。
「君が社交界の慰み者になる必要はない」
アルベルトは続けた。
「だが、ただ隠れているだけでは連中は勝手な物語を作る。なら、こちらから別の物語を与えればいい」
別の物語。
その言葉に、リディアは胸の奥を静かに揺らされた。
捨てられた令嬢。
冷徹宰相に押し込まれた妻。
すぐ壊れる女。
そんな物語を、社交界は彼女へ被せようとしている。
けれど、その代わりに。
王都の慈善事業を立て直す宰相夫人。
そう見せることもできるのだ。
いや、見せるだけではない。
実際に、目の前の書類には困っている人たちがいる。
もし自分の知識が役に立つなら。
もし、ただ飾られるためではなく、誰かの冬を少しでも楽にできるなら。
その考えは、リディアの胸にこれまでなかった種類の熱を灯した。
「……私に、できるでしょうか」
思わず尋ねる。
アルベルトは短く答えた。
「できるかどうかではなく、もう一部はできている」
その言葉に、リディアは息を呑む。
「今の分析がそうだ」
オスカーがメモを取る手を止め、軽く頷いた。
「奥様のご指摘は、非常に実務的でした。失礼ながら、慈善局の担当官よりよほど現場に近いです」
リディアはますます頬が熱くなるのを感じた。
「そのように言っていただけるほどでは……」
言いかけて、止まる。
また否定しようとしている。
褒められたら受け取ればいい。
温室で言われた言葉を思い出す。
リディアは少しだけ息を整えた。
「……ありがとうございます」
ぎこちないが、今度も謝らなかった。
アルベルトはその小さな変化に気づいたのか、何も言わずに書類を一枚彼女へ差し出した。
「なら、次だ」
「まだあるのですか」
「ある。君がいると私の仕事が減る」
あまりにも淡々とした言い方に、リディアは一瞬意味を取り損ねた。
それから、ようやく気づく。
それはこの人なりの、最大級に近い賛辞なのだ。
胸の奥がふわりと熱くなった。
「……それは、褒めてくださっているのでしょうか」
恐る恐る尋ねると、アルベルトは当然のように答える。
「他にどう聞こえる」
真顔だった。
その返しに、オスカーが横で咳払いをして笑いを堪えた。
リディアも、思わず口元を押さえそうになる。
笑いそうになったのだ。
執務室で、書類を前にして、こんなふうに。
「では、もう少しだけ、お手伝いいたします」
リディアがそう言うと、アルベルトは満足そうに頷いた。
「助かる」
短い言葉だった。
けれどその言葉は、リディアの中へ真っ直ぐ届いた。
役に立て、と命じられるのではない。
役に立ったことを、ただ事実として受け取られる。
それは、彼女がずっと知らなかった仕事の喜びだった。




