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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第27話 「リディア様なら」――王宮で囁かれたその名が、王太子の胸を初めて刺した

 王宮の朝は、いつもよりざらついていた。


 空は晴れている。

 庭園の噴水は涼やかに光り、白い石畳には朝の陽がまぶしく差していた。廊下を行き交う侍従や女官たちの動きも、表面上はいつも通り整っている。


 だが、その整い方の奥に、かすかな乱れがあった。


 王太子エドワードは、それを認めたくなかった。


「なぜ今さら、その家門から異議が出る」


 執務室に響いた声は、思ったより冷えていた。


 卓の上には、次の王宮晩餐会に関する席次表と招待状の控え、そして各家門から届いた返書が並べられている。何もかもが紙の上では整っているように見えた。


 けれど、整っている“ように見える”だけだった。


 外務局の若い官吏が、額に汗をにじませながら説明する。


「恐れながら、殿下。西部侯爵家と北方伯爵家の席順につきまして、先代からの慣例と今回の婚姻関係の扱いに齟齬が」


「齟齬があるなら、事前に処理すべきだろう」


「はい。ただ、今回は王太子殿下主催の晩餐会ということで、王家側の序列を優先するものと」


「誰がそう判断した」


 室内が一瞬、静まり返った。


 官吏は答えられなかった。


 その沈黙が、エドワードの苛立ちに油を注ぐ。


 たかが席順。


 そう言えばそれまでだ。だが王宮における席順は、ただの椅子の位置ではない。家門の序列、王家との距離、婚姻による力関係、領地間の対立、すべてがそこに反映される。


 軽く見れば、相手は軽んじられたと受け取る。

 重く扱いすぎれば、別の家が不満を持つ。


 それを調整するのが王宮儀礼の面倒なところだった。


 そして以前は、こんな不備が直前に自分の卓へ上がってくることは少なかった。


 少なくとも、ここまで粗い形では。


「修正案は」


 エドワードが問うと、別の侍従が慌てて紙を差し出した。


「こちらに」


 受け取り、目を通す。


 だが、すぐにわかった。


 これでは駄目だ。


 片方を立てれば、もう片方が下がりすぎる。表面上は丸く収めたように見えて、今度は王妃側の古参貴族が面白く思わない配置になっている。


 なぜ気づかない。


 そう思った瞬間、胸の奥に嫌な違和感が走った。


 自分は、以前なら本当に気づけただろうか。


 いや、違う。

 以前は、気づかずに済んでいたのではないか。


 誰かが先に気づき、誰かが先に整え、誰かが先に小さな危険を取り除いていた。


 その誰かの顔が、また浮かぶ。


 リディア。


 エドワードは内心で舌打ちした。


 まただ。


 最近、こういう場面で何度もあの女の名が浮かぶ。

 浮かばせたくないのに、紙の上の小さな不備を見るたび、どうしても思い出してしまう。


 リディアなら、どうしただろう。


 そんな考えが頭を掠めた瞬間、自分自身に腹が立った。


 自分で切り捨てた女だ。

 息が詰まると言った。

 愛のない結婚などしたくないと告げた。

 もっと自然に心が動く相手を選びたいと、自分から遠ざけた。


 それなのに今さら、仕事の不備が出るたびに彼女を思い出すなど、あまりにもみっともない。


「殿下?」


 官吏の声で、エドワードは現実に引き戻された。


「……この案は使えない」


 紙を卓へ戻す。


「西部侯爵家を立てるなら、北方伯爵家には別の形で配慮を示せ。席次だけで調整しようとするな」


「別の形、でございますか」


「贈答だ。北方の新しい交易路に絡む品を選べ。表向きは祝意、実際には軽んじていないという合図になる」


 言いながら、エドワードは自分の言葉に少しだけ違和感を覚えた。


 これは誰の発想だ。


 自分のものか。

 いや、そうかもしれない。王太子として当然の判断だ。


 だが同時に、昔リディアが似たようなことを言っていた気がする。


 ――席で示せない敬意は、贈答で補えます。

 ――ただし相手の土地に関わる品でなければ、形だけに見えます。


 いつのことだったか。

 王宮の小さな茶会の前だった気がする。


 あのとき自分は、彼女の言葉をどう受け取っただろう。

 おそらく、当然の補足として流した。

 感謝もせず、すごいとも思わず、妃候補ならそれくらい知っていて当然だと。


 その記憶が、今になって薄く胸を刺す。


 官吏たちは慌ただしく書類を持って下がっていった。


 部屋に残ったのは、エドワードと数人の侍従だけだった。


 沈黙が落ちる。


 その沈黙の中で、侍従の一人が小さく漏らした。


「……リディア様なら、最初からそこまで整えておられたでしょうに」


 声は本当に小さかった。


 独り言に近い。

 本人も、王太子に聞かせるつもりはなかったのだろう。


 だが、聞こえた。


 はっきりと。


 エドワードはゆっくりと顔を上げた。


 侍従は自分の失言に気づいたのか、血の気を失って頭を下げる。


「申し訳ございません、殿下。出過ぎたことを」


 出過ぎたこと。


 その言葉までもが、また別の記憶を連れてくる。


 リディアもよくそう言っていた。

 少し意見を述べただけで、すぐに「出過ぎた真似を」と謝った。


 そのたびに、エドワードはどう思っていたか。


 またか、と。

 堅苦しい女だ、と。

 何をするにも正しさに縛られていて、息が詰まる、と。


 だが今、目の前の侍従が同じように恐縮している姿を見ると、なぜか不快だった。


「……下がれ」


 エドワードは短く言った。


 侍従は深々と頭を下げ、逃げるように部屋を出ていく。


 扉が閉まると、室内は静まり返った。


 エドワードは椅子にもたれ、片手で額を押さえた。


 リディア様なら。


 その一言が、胸の中で何度も反響する。


 王宮の者たちも、そう思っているのだ。


 自分の周囲から、彼女が消えたことを。

 その不在によって、以前は見えなかった隙間が露わになっていることを。


 誰も口には出さない。

 だが皆、気づいている。


 リディアがいたころ、王太子の周囲はもっと整っていた。


 その事実を。


 エドワードは強く拳を握った。


 腹立たしかった。


 侍従にではない。

 官吏にでもない。

 ましてリディアにでもない。


 自分にだ。


 あの女がしていたことを、何一つ見ていなかった自分に。


 見ていたつもりだった。

 妃候補としての姿勢、言葉遣い、礼法、表情。

 そういうものは見ていた。


 だが、本当に見ていたのは表面だけだったのだ。


 彼女がどれだけ先回りしていたのか。

 どれだけ小さな不備を潰していたのか。

 どれだけ目立たない場所で、王太子である自分の足元を支えていたのか。


 それを、見ていなかった。


 そして今、彼女はもう別の男の屋敷にいる。


 宰相アルベルト・グランディス。


 その名を思い浮かべるだけで、胸の奥がざらつく。


 あの男は、気づいているのだろうか。


 リディアの価値に。

 あの女が黙って積み上げてきた知識や判断力に。

 感情を見せないのではなく、見せないように作られてきたのだということに。


 そう考えた瞬間、エドワードは嫌な予感を覚えた。


 気づいているのではないか。


 あの宰相なら。


 王宮の誰もが恐れる、冷徹で、無駄を嫌い、人の綻びを見逃さない男なら。


 自分が見落としたものを、あの男は最初から見抜いていたのではないか。


 それは、王太子としての誇りをひどく傷つける想像だった。


 自分が捨てたものを、他の男が拾ったのではない。

 自分が価値を見誤ったものを、他の男は正しく値踏みしたのだ。


 そう考えると、胸が焼けるように不快だった。


 午後になって、セシリアが執務室へやって来た。


 花を飾った籠を手に、明るい笑顔で。


「殿下、少し休憩なさいませんか? 庭園で摘んだお花ですの」


 その声は変わらず愛らしい。


 以前なら、その無邪気な明るさが救いだった。

 リディアの堅苦しさとは違う、柔らかい日差しのように感じていた。


 だが今日は、机の上にまだ積み上がる未処理の書類と、その花籠の軽さとの落差が、どうにも耐えがたかった。


「今は忙しい」


「少しだけでも。朝からずっと難しいお顔ですわ」


「忙しいと言っている」


 思ったより鋭い声になった。


 セシリアがびくりと肩を揺らす。


 その顔を見て、エドワードはすぐに後悔した。

 彼女が悪いわけではない。

 悪いのは、自分の苛立ちを処理できない自分だ。


「……すまない」


 短く言う。


 セシリアは一瞬だけ悲しげな顔をしたが、すぐに明るく取り繕った。


「いいえ。お忙しいのに、わたくしったら」


 その健気さに胸が動くはずだった。


 だが、動かなかった。


 代わりに、別のことを思ってしまう。


 リディアなら、花籠を持って執務中に入ってくることはなかっただろう。


 こちらの忙しさを読んだ上で、必要なら茶だけを置かせ、邪魔にならない時間を選んだだろう。

 あるいは、休憩を促すにしても、次の予定の合間を見計らっていたはずだ。


 比較している。


 そう気づいた瞬間、エドワードは自分に強い嫌悪を覚えた。


 セシリアを選んだのは自分だ。

 リディアの“正しさ”に息が詰まると感じて、わかりやすい感情のある彼女を求めた。


 それなのに今、彼女の自由さに苛立ち、リディアの慎重さを思い出している。


 身勝手にもほどがある。


「殿下?」


 セシリアが不安そうに見上げる。


「……今日は下がってくれ」


「はい……」


 彼女は花籠を置いて、静かに出ていった。


 扉が閉まったあと、エドワードはしばらくその花籠を見つめていた。


 綺麗な花だった。


 だが今の彼には、そこに安らぎを見つける余裕がなかった。


 書類へ視線を戻す。


 席次表。

 修正案。

 贈答品の候補。

 各家門の婚姻関係。


 その一枚一枚の隙間から、リディアの不在が滲んでいるように思えた。


 王太子として、彼は初めて認めざるを得なかった。


 自分は、誤ったのではないか。


 感情のない女だと思っていた。

 正しすぎて息が詰まると思っていた。

 愛のない相手だと切り捨てた。


 だがもしかしたら、自分が見ていたのは、彼女の本質ではなかったのではないか。


 そしてその本質は今、もう自分の手の届かない場所で、別の男に見出されつつあるのではないか。


 その疑念は、王太子の胸に初めてはっきりとした後悔の形を刻み始めていた。

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