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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第26話 温室の花を好きだと言っただけなのに、なぜ彼はそんなことまで覚えているのだろう

 その夜、リディアは自分の部屋で、いつもより少しだけ多くスープを飲んだ。


 たったそれだけのことだった。

 皿を空にしたわけではない。パンも半分残したし、果物にも手は伸びなかった。


 けれど、それでも。


 侯爵家から戻ったあと、あれほど胸が重く、食べ物を見るだけで喉が細くなっていたのに、アルベルトと話したあとには、スープをもう一口飲もうと思えた。


 それが自分でも不思議だった。


 ――必要とされたのではない。利用されていただけだ。


 アルベルトの言葉は、決して優しく包むものではなかった。むしろ鋭く、逃げ場をなくすほど正確だった。


 それなのに、その残酷さの奥には、自分を責めなくていいという確かな線が引かれていた。


 父を許せない自分が悪いのではない。

 父の言葉を素直に喜べない自分が冷たいのではない。

 利用されていた痛みを、痛いと感じてよい。


 そう言われた気がした。


 部屋の片隅では、アルベルトが相変わらず静かに本を読んでいる。


 彼は、リディアが少し多くスープを口にしたことに気づいているはずだった。おそらく絶対に気づいている。けれど何も言わない。


 よく食べた、と褒めるわけでもない。

 もっと食べろ、と促すわけでもない。

 ただ、彼女が自分の速度で匙を動かすのを、見張らないふりをしている。


 そのふりの仕方が、ひどく上手い。


 リディアは匙を置き、湯気の薄くなった器を見つめた。


「……旦那様」


 小さく呼ぶと、アルベルトは本から顔を上げた。


「何だ」


「先ほどのお話ですが」


 言いながら、少し迷う。


 自分でも何を言いたいのか、完全にはまとまっていない。けれど今夜のうちに、何かを少しだけ言葉にしておきたい気がした。


「正しく扱う、と仰ってくださいました」


「ああ」


「それは……どういうことなのでしょうか」


 問いかけてから、自分でも子どものような質問だと思った。


 だが、わからないのだ。


 人として扱う。

 正しく扱う。

 その言葉の意味を、リディアはまだよく知らない。


 これまで彼女が受けてきた扱いは、常に何かの役目と結びついていた。侯爵令嬢として、王太子妃候補として、家の面目として、社交界の噂として。


 そのどれでもない扱い方があるとしたら、それはどんなものなのか。


 アルベルトは本を閉じた。


 ぱたり、という音が静かに部屋へ落ちる。


「難しく考える必要はない」


 低い声だった。


「君が疲れているなら疲れているものとして扱う。食べられないなら、食べやすい形を探す。知識があるなら、飾りではなく力として見る。嫌なことがあるなら、嫌だと言える余地を残す」


 リディアは息を止めるようにして聞いていた。


「君の反応を、役目の失敗として片づけない。それだけだ」


 それだけ。


 彼はいつも簡単そうに言う。


 けれどリディアにとっては、それが決して簡単ではなかった。


 疲れたら、疲れたものとして扱われる。

 食べられなければ、食べやすくされる。

 嫌なら嫌だと言える。


 それは、彼女がずっと欲しかったものなのかもしれない。


 けれど、欲しかったと認めることすら知らなかったものでもある。


「……私は、嫌だと言うのが苦手です」


 ぽつりと漏れた。


 アルベルトはすぐに答えなかった。


 その沈黙が、考える時間をくれる。


「嫌だと思う前に、私が我慢すれば済むと思ってしまいます」


「だろうな」


 あまりにも即答だった。


 リディアは少しだけ目を瞬かせる。


「そんなにはっきりおわかりに?」


「わかる」


 アルベルトは淡々と言った。


「君は自分の不快より先に、相手の都合を処理しようとする。今日の侯爵家でもそうだった」


 リディアの胸が小さく跳ねる。


 やはり、見ていたのだ。


 父が言葉を選びながら探りを入れたとき。母が心配の形で体裁を確認したとき。リディアはどれも受け流そうとした。嫌だとも、不快だとも、苦しいとも言わずに。


 昔からそうだった。


 何かを言えば面倒になる。

 我慢すれば場は整う。

 自分一人の胸が少し痛むだけなら、それが一番楽だと思っていた。


「それは、よくないことでしょうか」


 恐る恐る尋ねると、アルベルトは少しだけ目を細めた。


「場合による」


 即座に否定しないところが、彼らしい。


「交渉の場なら、感情を処理して場を整える能力は有用だ。だが私生活で常にそれをやれば、自分の輪郭が削れる」


 自分の輪郭。


 その言葉が、妙に胸へ残った。


「君はもう、充分に削られている」


 低い声が続く。


「これ以上は必要ない」


 リディアは目を伏せた。


 自分が削られている。

 そんなふうに考えたことはなかった。


 ただ正しく整えられているのだと思っていた。

 役に立つ形へ磨かれているのだと思っていた。


 けれど、整えられることと削られることは、きっと紙一重なのだ。


 その境目を越えてしまったとき、人は自分が何を好きで、何が嫌で、どこで疲れるのかさえ、わからなくなる。


 リディアは、自分の手を見下ろした。


 細い指。

 傷跡はもうほとんど消えたが、爪を立てていた掌の記憶はまだ残っている。


「……では、どうすればいいのでしょう」


「まずは、小さなことからでいい」


「小さなこと?」


「食べたいもの。行きたい場所。見たいもの。今日は休みたい、という程度のことだ」


 アルベルトは淡々と挙げていく。


「そういうものを、必要があれば口にしろ」


 リディアは少しだけ黙った。


 食べたいもの。

 行きたい場所。

 見たいもの。


 それを言うだけのことが、彼女にはまだ少し難しい。


 けれど思い浮かぶものが、ひとつだけあった。


「……温室」


 自然と、そう口にしていた。


 アルベルトが彼女を見る。


 リディアは視線を落としたまま、続けた。


「温室に、行きたいと思うことがあります。あそこは、少し……息がしやすいので」


 言ってしまってから、恥ずかしさが頬へ上った。


 何でもない言葉のはずだ。

 なのに、自分の内側を少し差し出したような気分になる。


「そうか」


 アルベルトは静かに言った。


「なら、好きなときに行け」


「……よろしいのですか」


「だから、誰の許可が要る」


 以前と同じ言葉。


 温室で初めてそう言われたときと同じだ。


 リディアは少しだけ肩の力を抜いた。


「旦那様は、本当にそうおっしゃるのですね」


「事実だからな」


 真顔で返され、リディアは今度こそほんの少しだけ笑いそうになった。


 この人は、どこまでも真面目だ。

 優しさも、許可も、慰めも、全部が事実や判断の形をしている。


 だからこそ、嘘に見えない。


「温室のブルースターが、好きです」


 ぽつりと、リディアは言った。


 今度は自分で意識して、“好き”という言葉を使った。


 胸が少しだけ緊張した。

 けれど逃げずに言えた。


「母が好きだった花です。小さいころ、空の欠片みたいだと言っていて……そのことを、なぜかよく覚えています」


 リディアは言いながら、遠い記憶を見ていた。


 侯爵家の庭。

 小さな白い手袋。

 屈み込んで花を見せてくれた母の横顔。

 母は厳しい人ではなかった。けれど侯爵夫人としての立場に縛られ、リディアへ自由な愛情を注げる人でもなかった。それでも、あの花の前で笑った顔だけは、今もやわらかく思い出せる。


「だから、温室であの花を見ると……少しだけ、昔のことを思い出します」


 そこまで話して、リディアはふと顔を上げた。


 アルベルトは黙って聞いていた。


 途中で遮らず、余計な慰めも挟まず、ただ彼女が言葉を最後まで出すのを待っていた。


 それが不思議と、さらに言葉を続ける力になる。


「侯爵家では、花を見る時間も、たいてい何かの理由が必要でした。季節の話題を覚えるため、とか、客人をもてなす知識として、とか。けれど本当は、ただ見ているのが好きだったのだと思います」


 好きだった。


 言ったあとで、また胸が少しざわめく。


 自分に“好き”がある。

 それを口にしていい。


 その小さな事実が、まだ不慣れで、少し怖い。


 アルベルトは静かに言った。


「知っている」


 リディアは目を瞬いた。


「……知っている?」


「ああ」


「なぜ」


 思わず問い返すと、アルベルトはごく自然に答えた。


「君は温室へ入ったとき、最初に花ではなく空気を吸った。そのあと、白い花ではなく奥のブルースターで足を止めた」


 リディアは固まった。


 見ていた。


 そこまで。


「それだけで……」


「それだけで十分わかる」


 アルベルトは当然のように言う。


「それに、侯爵家の庭でも、君は昔から花の前でよく足を止めていた」


 リディアは完全に言葉を失った。


 侯爵家の庭でも?


 昔から?


 どうしてこの人がそんなことを知っているのか。


「……旦那様は、いつの話をなさっているのですか」


 声が少し震えた。


 アルベルトは一瞬だけ沈黙した。


 珍しい間だった。


 それから、低く答える。


「王宮の茶会や式典で、君を見かけることはあった。侯爵家の庭へ出入りしたこともある。政務上の訪問でな」


「そのとき……私を?」


「少しはな」


 少し。


 この人の“少し”は、たぶんまったく少しではない。


 リディアは頬が熱くなるのを感じた。


 自分が気づかないところで、この人は自分を見ていた。

 それも、王太子妃候補としての完璧な振る舞いではなく、花の前で足を止めるような、ほんの些細な部分を。


 その事実が、ひどく恥ずかしく、そして不思議なほど胸を揺らした。


「……私は、そんなにわかりやすかったでしょうか」


「他の者には、わかりにくかっただろうな」


「では、なぜ旦那様には」


「見ていたからだ」


 簡潔すぎる答えだった。


 だがその一言に、リディアは胸を突かれた。


 見ていたから。


 誰も見ていなかったと思っていた。


 侯爵家でも、王宮でも、彼女は常に“正しく整った姿”として見られていた。そこからはみ出す小さな好き嫌いも、疲れも、視線の動きも、誰にも気づかれていないと思っていた。


 けれど、アルベルトは見ていた。


 花の前で足を止めること。

 空気を吸うこと。

 ブルースターを見ること。

 そういう、リディア自身でさえ見落としかけていた小さな輪郭を。


「……そんなことまで、覚えていらっしゃるのですね」


 声が小さくなる。


 恥ずかしさと、くすぐったさと、怖さが混ざる。


 アルベルトは少しだけ視線を外した。


 それは本当にわずかな変化だったが、リディアにはなぜか強く印象に残った。


「覚えていただけだ」


 彼はそう言った。


「深い意味はない」


 その言い方が、少しだけいつもより硬かった。


 リディアはその硬さに気づき、なぜかさらに頬が熱くなる。


 深い意味はない。


 本当にそうなのだろうか。

 少なくとも、花の前で立ち止まったことを覚えている人がいるというだけで、リディアの胸はこんなにもざわついている。


「……ありがとうございます」


 そう言うと、アルベルトがこちらを見る。


「何に対してだ」


「覚えていてくださったことに」


 今度は、はっきりと言えた。


 アルベルトはしばらく黙った。


 それから短く、


「そうか」


 とだけ答えた。


 けれどその声は、いつもよりほんの少しだけ低く、落ち着かないものを隠しているようにも聞こえた。


 リディアは視線を落とす。


 胸の奥がまだ温かい。


 自分の“好き”を口にした。

 それを覚えていたと言われた。

 そして、そのことを嬉しいと思った。


 たったそれだけなのに、何かがまた一つ変わった気がした。


 この屋敷へ来てから、リディアは少しずつ自分の輪郭を取り戻している。

 食べられるもの。

 眠れない夜。

 怖い場所。

 好きな花。


 そういう小さなものを、ひとつずつ。


 そしてそのたびに、アルベルトはなぜか、もう知っていたという顔をする。


 それが少し悔しくて、少し恥ずかしくて、けれど今は少しだけ嬉しかった。

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