第25話 必要とされたのではない、利用されていただけだ――そう言われて、私は初めて泣きそうになった
フォルセイン侯爵家からの帰り道、馬車の中はひどく静かだった。
宰相家の馬車は、いつものように揺れも少なく、車輪の音も重すぎない。外では夕暮れの王都がゆっくりと色を失いはじめている。昼間は華やかだった通りも、屋敷へ戻る頃には赤みを帯びた光に沈み、建物の影が長く伸びていた。
リディアは窓の外を見ていた。
けれど、何を見ているのかはほとんどわからなかった。
実家へ戻った。
けれど、帰ったという感じはしなかった。
父は優しげな顔を作っていた。母も礼儀正しく、娘を心配する母親のような言葉を選んでいた。妹のエレノアだけは、本当にリディアの顔を見てほっとしているようだった。
けれど、それだけだった。
あの家はもう、自分を迎える場所ではなかった。
いや、もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。
侯爵家は、リディアにとって“戻る場所”ではなく、“役割を果たす場所”だった。父の期待に応え、家の面目を守り、王太子妃候補として恥じぬように立つための場所。あの家の中でリディアが許されていたのは、娘であることではなく、有用であることだった。
それを今日、改めて思い知った。
王太子に切り捨てられたときも、父は娘の痛みを問わなかった。
宰相家へ嫁いだあとも、手紙で誇らしいと書いてきたのは、リディアが“使える位置”に戻ったからだった。
そして今日、実家へ呼ばれたのも、きっと同じ理由だった。
宰相家でどの程度重んじられているのか。
社交界でどれほど立て直せたのか。
フォルセイン侯爵家の面目に、どれほど役立てるのか。
それを確かめるため。
娘が寂しくないか、傷ついていないか、眠れているか、食べられているか。
そんなことは、誰も本当には聞かなかった。
父は途中、何度かアルベルトへ探るような言葉を投げていた。
王宮との距離。
社交界での評判。
宰相家でリディアが担う役割。
フォルセイン侯爵家として今後どう振る舞うべきか。
そのどれもが、父らしい言葉だった。
そしてそのどれにも、アルベルトは短く、だが逃げ道を与えない答えを返していた。
リディアが社交の道具として勝手に使われないように。
フォルセイン家が宰相家の内情を探りすぎないように。
娘という名目で踏み込んでくる線を、最初から断つように。
そうして守られていた。
それはわかっている。
わかっているからこそ、馬車の中で何も言えなかった。
アルベルトは向かい側で沈黙していた。
いつものように姿勢を崩さず、視線は窓の外へ向けている。だが、おそらく彼は何も考えていないわけではない。あの侯爵家で何が起きていたか、リディアがどの言葉に引っかかり、どこで息を詰めたか、その多くを見ていたはずだ。
それでも、何も聞かない。
その沈黙が、今はありがたかった。
問われれば、何かがこぼれてしまいそうだったから。
宰相家へ戻ると、屋敷の空気はいつも通り静かだった。
侯爵家の応接間に漂っていた、見えない値踏みの空気とは違う。こちらは冷たく整っているのに、今のリディアには不思議と息がしやすかった。
「奥様、お帰りなさいませ」
エマが迎えに出てくる。
その声を聞いた瞬間、リディアは自分でも驚くほど胸の奥が緩みそうになった。
帰ってきた。
そう思ってしまった。
そのことに気づいて、少し戸惑う。
ここは嫁いでまだ日も浅い屋敷だ。幼いころから過ごした侯爵家ではない。けれど今日、実家から戻ったとき、最初に“帰った”と感じたのはこの屋敷だった。
それが嬉しいのか、悲しいのか、まだわからない。
「夕餉のご用意ができております」
エマが言う。
リディアは一瞬だけ答えに詰まった。
食事。
その言葉を聞いただけで、胃の奥が重くなる。
侯爵家で出された茶菓子には、ほとんど手をつけられなかった。父や母の前で食べる気になれなかったし、そこで出されるものを口にすること自体が、どこか喉を塞いだ。
帰ってきたら少しは食べられるかもしれないと思っていた。
だが今も、食欲はまるで戻っていない。
「……少し、あとで」
リディアがそう言うと、エマはそれ以上勧めなかった。
「かしこまりました。ではお部屋へ軽いものをご用意しておきます」
「ありがとう」
その短いやり取りだけで、少し救われる。
無理に食卓へ向かわせない。
食べられないことを責めない。
ただ、あとで食べられるように形を整える。
この屋敷では、それが当然になっている。
アルベルトはそのやり取りを横で聞いていたが、何も言わなかった。ただ一度だけリディアの顔を見る。その目に問い詰める色はない。確認するだけだ。
「先に部屋で休め」
低く言われ、リディアは小さく頷いた。
「はい」
自室へ戻ると、緊張の糸が切れたように体が重くなった。
エマに着替えを手伝ってもらい、少し楽な室内着へ着替える。髪もほどかれ、肩に落ちる。鏡の中の自分は、朝より少し顔色が悪いように見えた。
「お茶をお持ちします」
「ええ」
エマが下がると、部屋に静けさが戻る。
リディアは窓辺の椅子へ腰を下ろした。
外はもう夜だった。宰相家の庭は淡い灯りで縁取られ、白い花だけが闇の中に浮かんで見える。あの庭を見ていると、少し呼吸が整う。
けれど今日は、それでも胸の奥が重かった。
父の言葉が蘇る。
――王都では、お前の評判も悪くないようだ。
――宰相夫人として、しっかり務めているようで安心した。
――フォルセイン家の面目にも関わる。
すべて、娘を案じる言葉のようでいて、そうではない。
役に立っているか。
価値は落ちていないか。
うまく使える位置にいるか。
その確認だけだ。
私は、あの家にとって何だったのだろう。
胸の中でその問いが生まれた瞬間、目の奥がじわりと熱くなる。
泣きそうになった。
けれど涙は落ちない。
相変わらず、泣くのが下手だと思う。
しばらくして、扉が控えめに叩かれた。
エマだと思って返事をすると、入ってきたのはアルベルトだった。
リディアは慌てて立ち上がろうとする。
「そのままでいい」
いつもの短い声で止められた。
彼は片手に本を一冊持っていた。執務室で使うような分厚い資料ではなく、革装の読み物らしい。もう片方の手には小さな燭台を持っている。
「……旦那様?」
「食べられないのだろう」
唐突なようでいて、すべて見抜いている声だった。
リディアは返答に迷い、結局小さく頷いた。
「少し……」
「無理に食べる必要はない」
彼はそう言って、部屋の中の椅子へ目を向けた。
「ここにいてもいいか」
リディアは目を瞬いた。
いてもいいか。
それは、あまりにも意外な問いだった。
夫であり、この屋敷の主である彼が、妻の部屋へ入るのに許可を求めている。いや、以前から彼はそうだった。扉を勝手に開けることも、距離を無理に詰めることもない。だが改めてそう尋ねられると、胸の奥が少し揺れる。
「……はい」
リディアが答えると、アルベルトは窓から少し離れた椅子へ腰を下ろした。
近すぎない。
けれど、完全に遠くもない。
ちょうど声が届く程度の距離。
彼は本を開き、何事もなかったかのように読み始めた。
リディアはしばらく、その姿を見つめていた。
理由を聞かない。
慰めの言葉をかけない。
食べろとも、話せとも言わない。
ただ同じ部屋にいる。
その不思議な距離感に、心が少しずつ落ち着いていくのがわかった。
しばらくして、エマが軽い食事と茶を運んできた。卓の上に置かれたのは、小さな器に入った温かなスープと、ひと口大の柔らかいパンが二つだけ。果物も少し。
エマはアルベルトがいることに驚いた様子を見せず、ただ一礼して下がった。おそらく、彼がここへ来ることを知っていたのだろう。
リディアは器を見た。
食べなければ、と思わない。
食べられるかもしれない、と思う。
その違いは小さくて、大きい。
匙を手に取り、一口だけスープを含む。
温かい。
けれど二口目へ進む前に、喉の奥が詰まった。
侯爵家の応接間での空気が、また少し蘇る。父の視線。母の声。自分がどれほど宰相家で役立っているかを見極めるような、あの気配。
手が止まる。
すると、部屋の向こうで本の頁をめくる音がした。
ただそれだけ。
アルベルトは何も言わない。
食べているかどうかをじっと見ない。止まった手を咎めない。続きを促さない。
その沈黙が、かえって食べるための隙間をくれた。
リディアは少し時間を置いて、もう一口だけスープを飲んだ。
それだけで充分な気がした。
卓へ匙を戻す。
そして、気づけばぽつりと声が出ていた。
「……私は」
アルベルトの頁をめくる手が止まった。
だが彼は顔を上げない。
ただ聞いている。
それがわかった。
「私は、あの家に必要とされたことがなかったのかもしれません」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
あまりに情けない言葉だと思った。
けれど同時に、ずっと胸の中で形にならなかったものが、ようやく輪郭を持った気もした。
「あの家で私は、父に認められたくて、ずっと……役に立つ娘でいようとしていました。王太子妃候補として恥ずかしくないように。家の面目を守れるように。失敗しないように」
声は静かだった。
泣いてはいない。
だが喉の奥は少し熱い。
「でも今日、実家へ戻って……わかってしまいました。父が見ていたのは、私ではなくて、宰相家でどれだけ役に立つかだったのだと」
言い終えたあと、部屋はしばらく静まり返った。
アルベルトはまだ本を閉じていない。
けれどもう読んではいないことがわかった。
やがて彼は、ゆっくりと本を閉じた。
音は小さかった。
だがその静けさの中では、はっきり聞こえた。
「必要とされたのではない」
低い声だった。
リディアは顔を上げる。
アルベルトは、まっすぐこちらを見ていた。
「利用されていただけだ」
その言葉は、あまりにも鋭かった。
慰めではない。
優しい嘘でもない。
逃げ場を与えないほど、はっきりした断言だった。
だからこそ、胸の奥の傷へまっすぐ届いた。
必要とされたのではない。
利用されていただけ。
それは残酷な言葉だった。
けれど、なぜだろう。
父の言葉よりも、ずっと優しく聞こえた。
リディアは息を止めたまま、アルベルトを見つめる。
「利用……」
「そうだ」
彼は静かに続ける。
「家の面目、王太子妃候補としての価値、宰相家との繋がり。君自身ではなく、君がどこへ配置されれば家に利益があるか。それを見ていただけだ」
言葉の一つ一つが、胸に落ちる。
痛い。
けれど、嘘ではない。
わかっていた。
今日、あの応接間でわかってしまった。
父が自分を娘としてではなく、価値ある駒として見ていることを。
それをアルベルトが言葉にしただけだ。
「……そう、ですね」
ようやく返した声は、少し掠れていた。
涙はまだ落ちない。
けれど、目の奥が熱い。
「わかっていたつもりでした。でも……はっきり言われると、少し痛いです」
「痛いのは当然だ」
また、当然と言われる。
その一言で、胸の奥に少しだけ息をする場所が生まれる。
「娘として必要とされなかったのだと認めるのは、簡単ではない」
リディアは唇を噛みそうになり、やめた。
この人の前では、痛いと感じることを隠さなくてもいいのかもしれない。
そう思ったから。
「……旦那様は、残酷なことをおっしゃいます」
小さく言うと、アルベルトは否定しなかった。
「そうだな」
あっさり認める。
「だが、誤魔化せば君はまた自分を責める」
リディアは目を見開いた。
図星だった。
もし誰かに“お父上なりに案じているのだ”と慰められたら、きっと自分はまた思っただろう。父を理解できない自分が悪いのだと。感謝できない自分が冷たいのだと。娘として未熟なのだと。
アルベルトは、それを最初から断ち切ったのだ。
必要とされたのではない。
利用されていただけだ、と。
痛くても、そこから始めろと言うように。
リディアはゆっくりと息を吸った。
「では、私は……ずっと、何を求めていたのでしょう」
ほとんど独り言だった。
アルベルトは少しだけ沈黙した。
そして、静かに言う。
「正しく扱われることだろう」
リディアは彼を見た。
「正しく……」
「役割ではなく、人として」
その言葉に、今度こそ胸の奥が大きく揺れた。
人として。
それはひどく当たり前の言葉のはずなのに、リディアにはまるで遠い国の言葉のように聞こえた。
侯爵家では娘としてではなく、家の駒として。
王宮では一人の女としてではなく、妃候補として。
社交界では人としてではなく、噂の対象として。
ずっと何かの役割で見られてきた。
自分自身として扱われることを、求めていたのかもしれない。
でも、それが何なのかを知らなかった。
アルベルトは椅子から立ち上がった。
リディアは少しだけ身構えたが、彼は近づきすぎず、卓の向こうで止まった。
そして低く言った。
「だからこそ、今度は私が正しく扱う」
リディアは息を呑んだ。
それは愛の告白ではなかった。
甘い言葉でもない。
けれど、どんな慰めよりも胸を打つ言葉だった。
「君を家の利益としてではなく、飾りとしてでもなく、壊れ物としてでもなく扱う」
アルベルトの声は揺れない。
「君が考え、疲れ、望み、怒り、傷つく人間であることを前提に扱う」
リディアの視界が、少し滲んだ。
今度こそ、本当に泣くかもしれないと思った。
けれどそれでも、涙は一粒だけだった。
頬を伝う前に、指先で触れてしまう。
アルベルトはそれを見ても、何も言わなかった。
ただ、リディアが落ち着くまで待っている。
「……ありがとうございます」
やっと言えた言葉は、それだけだった。
だが今度のありがとうは、胸の奥から出た。
アルベルトは短く頷く。
「礼はまだ早い」
「どうしてですか」
「正しく扱うと言っただけだ。実行はこれからだ」
あまりに真面目な返答に、リディアは涙の気配を残したまま、ほんの少しだけ息を漏らした。
笑ったのだと、あとから気づく。
アルベルトもその変化に気づいたようだったが、何も言わない。
ただ椅子へ戻り、再び本を開いた。
部屋にはまた、静かな時間が戻る。
けれど先ほどとは違う。
スープはまだ少し残っている。
リディアはもう一度匙を取り、ゆっくりと一口飲んだ。
温かかった。
今度は、さっきより少しだけ喉を通りやすかった。




