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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第22話 宰相の執務室で初めて知った――私の知識は“役に立つ飾り”ではなく、本当に仕事になるらしい

 その日の午後、ハロルドが珍しく少しだけ硬い声でリディアを呼びに来た。


「奥様、旦那様よりお声がかかっております」


 書庫で静かに過ごしていたリディアは、膝の上に置いていた本から顔を上げる。


「私に?」


「はい。お時間をいただきたいと」


 その言い方が妙に正式で、リディアの胸は小さく強張った。


 アルベルトが自分を呼ぶこと自体は、今やそれほど珍しくはない。けれどこれまでは、食事や屋敷のこと、あるいは社交の予定など、どこか生活に接した話題が多かった。

 “時間をいただきたい”という表現は、もっと仕事の匂いがする。


 仕事。


 その響きに、リディアの中で昔から染みついた緊張が少しだけ顔を出した。


「どちらへ伺えば」


「旦那様の執務室にございます」


 執務室。


 やはりそうか、とリディアは思う。


 生活の場ではない。宰相が国のことを扱う、あの部屋だ。


「……わかりました」


 本を閉じて立ち上がると、ハロルドはそれ以上余計なことを言わず、静かに先導した。


 廊下を歩きながら、リディアは少しずつ呼吸を整える。


 執務室へ呼ばれる。

 その事実だけで、なぜこうも背筋が固くなるのだろう。


 侯爵家でも王宮でも、“仕事の場”へ足を踏み入れることは、常に試されることと同義だった。

 知識を求められれば即答しなければならない。

 間違えれば浅いと見なされる。

 でしゃばればたしなめられ、黙っていれば役立たずと切り捨てられる。


 その両側の崖のあいだを、ずっと綱渡りしてきた。


 だから今も、何を求められるのかわからないうちは、体が先に緊張してしまう。


 執務室の扉の前で、ハロルドが一礼する。


「旦那様、奥様をお連れいたしました」


「入れ」


 低い声が返る。


 リディアは小さく息を吸い、扉の向こうへ足を踏み入れた。


 アルベルトの執務室は、屋敷の他の部屋と同じく装飾が少なく、必要なものだけで構成されていた。大きな机、整然と積まれた書類、壁際の書棚、地図台、蝋封の入った小箱。窓は広いがカーテンは半分だけ引かれていて、光は明るすぎず暗すぎずに抑えられている。


 そしてその中央に、アルベルトがいた。


 濃紺の上着の袖を少しだけまくり、机上の文書へ目を通していたらしい。顔を上げた彼の表情には、いつものように無駄な感情はほとんどない。けれどそこに不機嫌さがないことだけは、リディアにもわかった。


「来たか」


「お呼びと伺いました」


「ああ。座れ」


 執務机の前には、客用というには少し実務的な椅子が二脚置かれている。リディアが腰を下ろすと、アルベルトは机の上の書類を一つ引き寄せ、それを彼女のほうへ向けた。


「これを見てほしい」


 リディアは目を瞬く。


 見てほしい。


 その言い方が、命じるでも試すでもなく、妙にまっすぐだった。


「こちらは……」


 恐る恐る文書へ視線を落とすと、外務局から上がってきたらしい文面だった。隣国との交易路に関する調整案。表向きは友好的な折衝文書だが、細かい表現の選び方によっては、こちらが一方的に譲歩したようにも読める。


 リディアの指先が、無意識に紙の端へ触れる。


 読める。


 意味がわかる。


 そして、どこが引っかかるかもすぐにわかった。


「……この一文は、少し危ういかと」


 気づけば口にしていた。


 言ってから、しまったと思う。

 まだ求められてもいないのに、すぐ断定めいたことを言ってしまったのではないか。


 だがアルベルトはただ顎をわずかに引いた。


「どこが」


 その問いは叱責でも誘導でもなく、純粋に続きだけを求めていた。


 リディアは息を整える。


「この表現ですと、関税の再調整を“双方の利益のための修正”ではなく、“こちらが先んじて認めた譲歩”のように読ませる余地があります。文面だけ見れば穏やかですが、相手国の議会ではそのように利用されるかもしれません」


 言葉が続いていく。


「とくに第二項の順序が逆です。先に交易量の安定を置かず、特例免除の見直しから入ると、“こちらが利を削ってでも関係維持を望んでいる”印象が強くなりますので」


 そこまで話して、リディアはようやく顔を上げた。


 アルベルトは肘をつかず、ただ静かに彼女を見ている。その眼差しに揺れはない。けれど否定もない。


「……そう考えました」


 最後だけ少し声が弱くなる。


 出過ぎたかもしれない。

 またそう思いかけた、その瞬間。


「私も同じ見立てだ」


 アルベルトが言った。


 リディアは息を止めた。


「え……」


「第二項の順序と、譲歩に見える語尾だな。外務局は表向きの柔らかさを優先しすぎた」


 彼はそう言って、机上の別の紙へ視線を落とす。


「こちらが修正版だ」


 差し出されたそれを見ると、たしかに自分が気になった箇所が直されていた。順序も変わり、表現もより対等な協議の形へ寄せられている。


 つまりアルベルトは、既に気づいていたのだ。

 そのうえで、なお自分へ見せた。


 試したのだろうか。

 確かめたかったのだろうか。


 そう思ったとき、アルベルトが先に言った。


「正確には、確認したかった」


 まるで読まれたようで、リディアは小さく肩を震わせる。


「君が以前どこまで読めていたかを」


「……試されたのですね」


 少しだけ固くなった声に、自分でも気づく。


 アルベルトはそれをそのまま受け取るように、数拍黙った。


「試す、というほど悪趣味なつもりはない」


 低い声だった。


「だが、確かめる必要はあった」


 その率直さが、またこの人らしい。


 ごまかさない。

 優しい言い方を選びすぎない。

 その代わり、何を考えていたかは隠さない。


 リディアは少しだけ視線を落とした。


「私は……その、王太子妃教育で教わったことを、覚えていただけです」


 言いながら、自分の声が少し頼りなくなっているとわかる。


 覚えていただけ。

 それは半分本当で、半分嘘だ。


 最初はたしかにそうだった。

 けれどいつからか、表現の違いに意味を見つけるようになり、誰と誰の婚姻がどの交易路へ影響するかを、自分なりに考えるようにもなっていた。

 ただ、それを“私が考えた”と認めるのがまだ少し怖い。


「覚えていただけ、ではないな」


 アルベルトは即座に否定した。


「文面の意味を読み、相手側の使い方まで想定していた。暗記だけではそこまでは行かん」


 また褒められる。


 そのたびに、リディアの胸の奥はまだ少し熱くなって落ち着かない。


「……ありがとうございます」


 今度はどうにか、謝らずにそう言えた。


 言ったあと、ほんの少しだけ胸がざわつく。

 けれどアルベルトはそれを特別なものとして扱わなかった。ごく自然に受け取り、次の紙へ手を伸ばす。


「もう一つある」


 差し出されたのは、各家門の婚姻関係と北方交易への影響をまとめた簡易表だった。だが一箇所だけ、意図的に抜けがあるように見える。


 リディアは紙面へ目を落とし、すぐに気づいた。


「……第三王妹殿下の縁談候補が抜けています」


「理由は」


「まだ正式な打診前のはずですが、だからこそです。もし北方伯家の次男との話が本当に進むなら、今のうちに王家傍流との線を加味しておかないと、二年後の関税配分見通しが甘くなります」


 言葉が自然に出る。


 それはもう“教わったことを再生している”だけの感覚ではなかった。目の前の情報を組み合わせ、自分で答えへたどり着いている感覚。


 それを自覚した瞬間、少しだけ怖くなる。


 だがアルベルトは、また静かに頷いた。


「そこまで見えるなら十分だ」


 十分。


 その言葉の重みが、じわじわと胸へ沈む。


 リディアは手元の紙を見つめたまま、ふと思う。


 王太子の隣にいたころ、この知識は“あって当然”だった。

 侯爵家では“家のために役立てるもの”だった。

 だが今、アルベルトの前では、それが初めて“実際に仕事になる能力”として扱われている。


 それがどれほど衝撃的なことか、彼女は今さらのように思い知った。


「旦那様」


 気づけば、そう呼んでいた。


 アルベルトが視線を上げる。


「何だ」


「私は……ここにいても、よろしいのですか」


 口にした瞬間、自分でも何を問うているのか曖昧だとわかった。


 執務室にいていいのか。

 こうして文書を見て意見を言っていいのか。

 妻として、ではなく、一人の人間としてこの場にいてもいいのか。


 そのすべてが混ざっていた。


 アルベルトはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと言った。


「君は自分の能力を使うことに、まだ許可が要ると思っているのか」


 その問いに、リディアは答えられない。


 要ると思っている。

 たぶん、今でも。


 使っていいと言われなければ、また“出過ぎた”になる気がする。役立てと言われれば役立つが、自分から差し出すことにはまだ怖さがある。


 アルベルトはその沈黙を見て、低く息を吐いた。


「なら、今ここで言う」


 彼の声は静かだが、妙に明確だった。


「私は君を飾りとして置くつもりはない」


 リディアは目を見開く。


「君が見て考え、気づくことに価値があるなら、それを使わぬ理由はない」


 その言葉は、彼女の胸の真ん中へまっすぐ落ちた。


 飾りではない。


 そう断言されたのは、初めてだった気がする。


 王太子妃候補として整えられた自分は、たしかに価値ある“飾り”でもあった。

 侯爵家にとっては家の威信を示す娘。

 王宮にとっては未来の正しい妃候補。

 誰もがそこへ知識や礼法を載せたが、その中身を一人の意思として扱ったことは少なかった。


 なのにこの男は、飾りではないと言う。


 使う価値がある、とも。


 リディアは喉の奥が熱くなるのを感じた。


 泣くほどではない。

 けれど、何かが少しだけほどけそうになる。


「……私は、上手くできるでしょうか」


 それは弱音に近かった。


 アルベルトは否定しなかった。


「最初から完璧を求めていない」


 その一言がまた、彼らしい。


「必要なのは、できることを隠さぬことだ」


 できることを隠さぬこと。


 それはリディアにとって、思った以上に難しい命令だった。

 いや、命令ではないのかもしれない。

 けれど長く身についた“隠す癖”を外すのは、そう簡単ではない。


 それでも。


 今この机を挟んで、アルベルトは確かに自分を“使える頭を持つ人間”として見ている。


 その事実が、リディアの中に静かに根を下ろし始めていた。

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