第23話 父の手紙は遅すぎる――“誇らしい娘”と呼ばれても、あの日の値札の冷たさはもう消えない
アルベルトの執務室を出たあとも、リディアの胸はしばらく落ち着かなかった。
私は君を飾りとして置くつもりはない。
その言葉が、まるで静かな重しのように胸の奥へ沈んでいる。
重いのに、不思議と苦しくはない。
むしろ長く空虚だった場所に、ようやく何か確かなものが置かれたような感覚に近かった。
飾りではない。
その否定の響きは、思っていた以上に深い意味を持っていた。王太子妃候補として育てられた年月の中で、リディアは確かに知識を与えられ、礼法を叩き込まれ、判断力も磨かれてきた。だがそのすべては結局、“王家に相応しい美しい器”を作るためのものだったように思う。
中身そのものではなく、正しく飾られた完成品として。
だからこそ、アルベルトに「使う価値がある」と言われたことが、まだうまく自分の中へ収まりきっていない。
廊下を歩きながら、リディアは何度かゆっくり息を吐いた。
窓の外は午後の光が少し傾きはじめている。宰相家の庭は今日も整然としていて、風に揺れる枝さえ静かに見えた。どこにも騒がしさはない。だが彼女の胸の中だけが、今は少しだけ騒がしい。
「奥様」
自室の前へ戻ったところで、エマが一礼した。
「ハロルドより、お手紙が届いているとのことです」
「手紙?」
リディアは足を止める。
宰相夫人となってから、形式的な祝いの文や夜会の招待状ならいくつか届いていた。だがエマの言い方は少し違った。もっと私的なものを差し出すときの慎重さがある。
「差出人は……どなたかしら」
尋ねると、エマは一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「フォルセイン侯爵家にございます」
その瞬間、リディアの胸の奥で何かがひやりとした。
実家から。
そう聞いただけで、つい数か月前まで“当然の居場所”だったはずの家が、今では妙に遠く冷たい場所のように感じられる。
「そう……」
声は思ったより平静だった。
だが内側では、いくつかの感情が一度に動く。
警戒。
疲労。
ほんの少しだけの期待。
そして、その期待を持ってしまった自分への呆れ。
父からだろうか。
母かもしれない。
あるいは妹のエレノアか。
だがもし父からなら、書かれていることは大方想像がつく。
宰相家でうまくやっているか。
粗相はないか。
王宮との距離はどうか。
家の名に泥を塗っていないか。
そういうことだろう。
それでも、開かずに捨てることはできなかった。
自室へ入ると、小卓の上に封書が一通だけ置かれていた。厚手の紙、見慣れた封蝋、侯爵家の紋章。あまりにも見慣れたはずなのに、今はそれを手に取ること自体に少し覚悟が要る。
リディアは椅子へ腰を下ろし、しばらく封を見つめた。
指先が自然と慎重になる。
まるでこの中に、冷たい刃物でも入っているかのように。
やがて意を決して封を切る。
中から現れたのは、父の手で書かれた端正な文だった。
――リディア。
宰相閣下のお屋敷での暮らしには、少しは慣れたころかと思う。
王都ではお前の評判が思いのほか悪くないと聞く。先日のファーネル侯爵夫人の夜会でも、宰相夫人として不足なく振る舞ったそうだな。
父としても誇らしく思う。
今後も軽率な振る舞いを慎み、閣下の信頼を損なうことなく、フォルセインの名に相応しい立場を守れ。
必要なものがあれば申し出よ。
以上。
読み終えたあと、リディアはしばらく紙を持ったまま動けなかった。
父としても誇らしく思う。
その一文だけが、やけに浮いて見えた。
誇らしい。
それはきっと、昔の自分なら喉から手が出るほど欲しかった言葉だ。
父に認められたいと、どれほど思ってきただろう。
王太子妃候補として恥じぬように振る舞い、勉強し、笑わず、泣かず、間違えぬようにしてきたのも、その思いと無関係ではなかった。
なのに今、その言葉を目にしても、胸は温まらない。
むしろ、ひどく白々しく見える。
父が自分を厄介払いのように嫁がせた夜のことを、リディアは忘れていない。
「今度こそ失敗するな」と告げた、あの冷たい声を忘れていない。
“傷ついた娘”ではなく、“使い道を変える駒”としてしか見ていなかった視線を忘れていない。
その記憶がまだこんなにも鮮明なのに、どうして今さら“誇らしい”などと書けるのだろう。
もちろん、理由はわかる。
リディアが思った以上に宰相家で良い位置を得ていると知ったからだ。
社交界でみじめに壊れるどころか、宰相夫人として不足なく見えたからだ。
つまり、“使える娘だった”と、ようやく再評価しただけなのだ。
その打算が透けて見えるから、余計に苦しい。
嬉しくないわけではない。
ほんの一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、昔の自分が顔を上げそうになった。
でもそのすぐあとに、あの書斎で浴びた冷たさが蘇ってしまう。
遅すぎる。
そう思った。
あまりにも遅すぎる。
リディアは手紙を膝の上へ置き、静かに目を閉じた。
もしこの手紙が、王太子に捨てられた直後に届いていたら。
もし“誇らしい”ではなく、“傷ついただろう”という一言だけでも先にあったなら。
少しは違ったかもしれない。
だが現実にはそうではなかった。
父が今見ているのは、宰相家でうまくやっている“結果”だけだ。
そこへ至るまでの痛みも、恐怖も、張りつめた夜も、何一つ知らないままで。
そのとき、控えめなノックがした。
「奥様」
エマだった。
「お茶をお持ちしてもよろしいでしょうか」
リディアは少しだけ息を整えた。
「ええ、お願い」
扉が開き、エマが茶器を載せた盆を運んでくる。いつも通りの静かな所作。香りは弱く、茶菓子は小さなものが一つだけ。リディアの前に置かれたとき、エマの視線が膝の上の手紙へ一瞬だけ落ちた。
けれど何も問わない。
そのことに、リディアは少しだけ救われる。
今は「大丈夫ですか」と問われるより、この静けさのほうがありがたかった。
エマが退こうとしたとき、リディアは思わず声をかけた。
「……エマ」
「はい」
「父から手紙が来たの」
言ったあと、自分でもなぜそんなことを口にしたのかわからなかった。別に話したいわけではない。聞いてほしいのかどうかも曖昧だ。
ただ、黙って一人で飲み込むには少しだけ苦しかったのかもしれない。
エマは静かに待つ。
促しも、同情もない。ただ“話すなら聞く”という沈黙。
「誇らしい、と書いてありました」
その一言を言うだけで、胸が少し詰まる。
「でも……嬉しいはずなのに、そう思えなくて」
そこまで言って、リディアは唇を結んだ。
感情を言葉にするのは、まだどうしても難しい。
嬉しい。悲しい。悔しい。虚しい。
どれも少しずつ混ざっていて、ひとつに決めることができない。
エマは少しだけ考えるように視線を伏せ、それから言った。
「遅かったのではございませんか」
その言葉が、驚くほどすんなり胸へ入った。
遅かった。
そうなのだ。
「……ええ」
リディアはようやく小さく頷いた。
「遅かったのだと思います」
認めた瞬間、胸のつかえが少しだけ形を持った気がした。
嬉しくないわけではない。
でも、遅かった。
あの日の冷たさを塗り替えるには、あまりにも。
エマはそれ以上何も言わず、ただ一礼して部屋を出た。
一人になると、リディアはもう一度父の手紙へ目を落とした。
端正な文字。
整った文面。
必要なことだけを並べた、まるで公的な通達のような手紙。
そこには確かに“誇らしい”とある。だがその誇りは、自分が無傷で、うまく役目を果たしている限りのものだろう。傷つき、役に立たず、迷い、立ち止まる娘へ向けられるものではない。
それが、今のリディアにはもうわかってしまう。
以前なら、その条件つきの誇りでさえ求めていたのに。
少し前までの自分なら、この一文だけで嬉しくて泣いたかもしれない。
だが今は違う。
宰相家へ来てから、リディアは少しずつ別のものを知ってしまった。
何かができたから褒められるのではなく、疲れたこと自体を“当然”と認められること。
食べられないなら形を変えればいいと考えられること。
眠れない夜には、扉越しに声が届くこと。
そして、飾りではなく“使う価値がある”と言われること。
そのどれもが、父の手紙より先に心へ染み込んでしまっている。
だから戻れないのだ、とリディアは思う。
昔のように、この一文だけで父の愛情を信じてしまう場所には、もう戻れない。
窓辺へ立ち、庭を見る。
曇りがちな午後の光の中で、白い花がいくつか風に揺れている。
リディアは手紙をそっと折りたたみ、小箱の中へしまった。
捨てることはしなかった。
けれど胸にしまうこともしない。
それが今の自分にできる、精一杯の距離の取り方だった。




