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私が一度捨てられたのでしたら、二度と拾わないでください。――冷徹宰相は、傷もの令嬢を離さない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第21話 「あの女、少し変わった」――そう気づいたときには、もう彼女は俺の手の届く場所にいなかった

 王宮の小広間は、昼下がりになると貴婦人たちの声で満たされる。


 公式の謁見や会議が行われる場ではない。だがだからこそ、王宮内の“空気”が最も濃く集まる場所でもあった。王妃付きの女官たち、各家門から出仕している令嬢たち、年長の貴婦人たちが、茶器の触れ合う音の合間に噂と推測を交換する。誰がどの席へ呼ばれたか、どの家に新たな縁談が動いているか、どの夜会で誰がどんな顔をしていたか。


 そんな声の流れが、今は一つの話題を中心に渦を巻いていた。


「見ましたの、昨夜の宰相夫人」


「ええ。思っていたよりずっと……」


「もっと怯えているものかと」


「でも、以前のままでもありませんでしたわ」


「そう、あの方、少し変わられた気がするの」


 言葉の端々に浮かぶのは、失望半分、興味半分の色だった。


 王太子エドワードは、その場にいるつもりはなかった。


 本来ならば外務局との打ち合わせを終えたあと、そのまま執務室へ戻るはずだった。だが廊下を歩いていた足が、この小広間の前で止まったのは、扉の向こうから“宰相夫人”という言葉が聞こえたからだ。


 聞くつもりはなかった。

 少なくとも、自分ではそう思っている。


 だが結果として彼は、半ば無意識のまま、扉の陰に立つようにしてその会話の断片を拾っていた。


「宰相閣下が、まるで最初からご自分のもののようにお扱いになって」


「そうでしたわね。あんなに自然に隣へ置かれて」


「もっと冷ややかかと思っておりましたのに」


「逆に近づけさせない感じで……あれでは面白くありませんわ」


 面白くありませんわ。


 その言い方に、エドワードは胸の内でわずかに眉をひそめる。


 あの女たちは、結局それなのだ。表向きは憐れみを装いながら、内心では“どれほど気の毒に見えるか”を楽しんでいる。かつてリディアが王太子妃候補として立っていたときは、その整いすぎた振る舞いを冷たいと嘲り、今は宰相のもとでどう壊れるかを見たがる。


 くだらない。


 そう思うのに、足がその場から動かなかった。


「でも本当に、あの方、前と少し雰囲気が違いましたでしょう?」


 年若い令嬢の声がする。


「あれほど美しい方だったかしら、と」


「お可愛らしくなった、というのとも違うのよね」


「ええ。なんというか……前は完璧に整いすぎていたのに、昨夜は少しだけ空気が柔らかかったような」


 その言葉が、エドワードの胸に鋭く引っかかった。


 少しだけ空気が柔らかかった。


 それは彼自身も、先日の夜会で遠目に見て感じたことだった。


 笑顔を振りまいていたわけではない。相変わらず大きく感情を見せる女ではなかった。だがそれでも、以前の“息が詰まるほど隙のない整い方”とは何かが違っていた。


 それが何なのか、うまく言葉にできなかった。


 だが今、貴婦人たちの口から同じような感想を聞いて、妙に腹立たしさが込み上げてくる。


 なぜ今さらそう見えるのだ。


 なぜ自分の隣にいたときではなく、宰相のもとへ行ってから。


「以前のあの方は、もっと……なんと申しますか」


 別の声が続く。


「王太子妃候補そのもの、という感じでしたもの」


「ええ。美しくて、正しくて、でも近寄りがたくて」


「今はあそこまで尖って見えないのですわ」


 そこで一人の年嵩の貴婦人が、少しだけ声を潜めて言った。


「それはたぶん、“見張られなくてよくなった”からではなくて?」


 広間に小さなどよめきが走る。


 エドワードの指先がぴくりと動いた。


 見張られなくてよくなった。


 その表現が気に障る。

 誰が。

 誰に。

 何を言おうとしているのか。


 だが年嵩の貴婦人は、それ以上あからさまなことは言わなかった。ただ、わざとらしいくらい優雅に茶を口へ運び、それで話を区切る。


 けれどその一言だけで充分だった。


 エドワードの胸の奥に、ひどく居心地の悪いものが残る。


 見張る、などという意識はなかった。

 自分はただ、王太子妃候補としてあるべき形を求めていただけだ。王家に恥をかかせぬよう、感情で乱れぬよう、整っていることを望んだ。それは立場上当然のことではないか。


 そう思う。


 思うのに。


 もしその当然が、リディアにとっては“見張られているような息苦しさ”だったのだとしたら。


 そう考えた瞬間、ひどく不愉快な沈黙が自分の中に落ちた。


「殿下?」


 不意に声をかけられ、エドワードははっと顔を上げた。


 いつの間にか、小広間の入口近くに控えていた若い侍従が、少し困惑したような顔でこちらを見ている。


「……何だ」


「外務局の方がお待ちでございます」


「ああ」


 短く返すと、エドワードは踵を返した。


 小広間の中から聞こえる笑い声は、もう背後へ遠ざかっていく。だが会話の断片だけが、耳の奥へ残り続けていた。


 少し変わった。

 空気が柔らかい。

 見張られなくてよくなった。


 どれも気に障る。

 それなのに否定しきれないことが、なおさら不愉快だった。


 外務局の控え室へ入ると、既に書類が整えられ、役人たちが起立した。エドワードは席につき、説明を受ける。北方交易の見直し、諸侯間の反応、西側家門への配慮、税率の調整――本来なら聞き慣れているはずの内容だ。


 だが頭の片隅では、まだ別のことを考えている。


 リディアは昨夜、どんな顔をしていたのだろう。


 王太子妃候補として自分の隣に立っていたときではなく、宰相の腕を取って夜会へ現れたとき、どんな目をしていたのか。


 遠目にしか見ていない。

 なのに、その曖昧な記憶が妙に胸へ引っかかる。


 あの女は、自分のもとにいたころより、少しだけ息をしやすそうだったのではないか。


 そう思った瞬間、エドワードは机の端を指で強く押さえた。


 滑稽だ。


 自分で切り捨てた相手の変化を、今さら気にしている。


 しかもその変化が、自分の手を離れてから起きたことに苛立っている。


「殿下、こちらの文言ですが」


 役人の声で我に返る。


 差し出された文書には、交易条項の一文が記されていた。表向きは問題ない。だが細部が甘い。以前なら、こうした小さな綻びにもっと早く気づけていた気がする。


 いや、気づいていたのではない。


 誰かが先に整えていたのだ。


 その誰かの顔が脳裏に浮かび、エドワードは無意識に低く舌打ちしかけた。


 リディアはいつも、表へ出ることなくこういう瑣末を埋めていたのではないか。


 自分はそれを“いて当然の整い”として扱ってきたのではないか。


 そう気づくたびに、王太子としての誇りがじわじわと削られるようだった。


 会議を終え、部屋を出ると、回廊の向こうからセシリアが歩いてくるのが見えた。今日も明るい色のドレスに身を包み、こちらを見つけるとぱっと顔を輝かせる。


「殿下!」


 その弾む声に、以前なら自然と口元が緩んだはずだ。


 だが今のエドワードは、わずかに疲れを覚えただけだった。


「どうした」


「今夜の音楽会、ご一緒いただけますでしょう? お席、よい場所を取っていただけると伺って」


 屈託のない笑顔。


 可愛らしい。

 はずだ。


 けれどその“わかりやすさ”が、今は妙に薄っぺらく感じてしまう。


 その瞬間、エドワードは自分で自分に苛立った。


 何を比べている。

 何を求めている。


 セシリアはセシリアだ。彼女には彼女の愛らしさがある。自分はその軽やかさを好んだはずだ。なのに今、それを前にしても胸が少しも満たされない。


「殿下?」


 返事が遅れたせいか、セシリアが不安そうに首を傾げる。


「……ああ。あとで確認させよう」


 そう答えると、彼女は笑顔を取り戻した。


「嬉しい。では、楽しみにしておりますね」


 そう言って去っていく背を見送りながら、エドワードはふと考える。


 もしリディアなら、こういう場面でどんな返事をしただろう。


 即答せずとも相手を不安にさせず、期待だけを煽りすぎず、だが曖昧さは残さず、必要なら後の段取りまで先に整える。おそらく、そういう返しをしていた。


 そしてそれを、自分はただ“息が詰まる”とだけ感じていた。


 失ってから価値に気づく男ほど、みっともないものはない。


 昨日そう思ったばかりなのに、今日もまた同じところへ戻っている。


 それが自分でも、どうしようもなく醜かった。


 だがさらに醜いことに、エドワードは思ってしまう。


 あの女は、今どんな場所で何をしているのだろう、と。


 宰相家の書庫か、温室か。

 それとも、あの冷たい男の隣で、自分の知らない顔を少しずつ見せ始めているのか。


 その想像が胸を引っかくたび、エドワードはなおさら不機嫌になっていくのだった。

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