第20話 たった一言の「ありがとう」が、こんなにも胸をざわつかせるなんて思わなかった
翌朝、目が覚めたとき、リディアはしばらく天蓋を見上げたまま動けなかった。
昨夜は、結局あのあともう一度深く眠ることができた。扉越しに置かれた茶はぬるくなる前に飲み終え、小さな焼き菓子も半分だけ口にした。そうしているうちに胸のざわつきは少しずつ薄れ、寝台へ戻ったころには、夢の残骸も遠のいていた。
だから体は昨日より軽い。
けれど心のほうは、妙に落ち着かなかった。
眠れない夜に、夫が扉越しに声をかけ、茶を置いていく。
開ける必要はない、と先に言い、悪い夢を見たかと静かに尋ね、次からは前もって言えとだけ告げて去る。
その一つ一つが、朝になって改めて思い返すと、ひどく現実味の薄い出来事のように思えた。
本当にあったのだろうか、と疑うほどだ。
だが窓辺の小卓には、昨夜使った白磁のカップがまだ置かれている。香りはもう残っていないが、半分だけ欠けた焼き菓子の皿が、あれが夢ではなかったと静かに告げていた。
リディアは毛布の上で、そっと指先を握った。
昨夜のことを、どう受け止めればいいのだろう。
礼を言うべきなのは間違いない。だが、改まって“昨夜はありがとうございました”と言うのは、どこか大袈裟な気もする。かといって何も言わないのは、自分の中で落ち着かない。
こんなことで迷う自分が、少し可笑しかった。
侯爵家では礼を言う相手も、その場も、ずっと決まっていた。王宮でもそうだ。だがここでは、形式の中に収まりきらない小さな気遣いばかりが先に差し出されるから、どう返せばちょうどいいのかわからなくなる。
「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」
エマの声が、いつものように扉越しにした。
「ええ」
返事をすると、扉が開き、朝の支度が始まる。
湯の温度はちょうどよく、今日のドレスは薄い青灰。髪を結いながら、エマは何も尋ねなかった。眠れたかどうかも、夜中に何があったかも。たぶんハロルドあたりから、昨夜アルベルトが自ら茶を運ばせたことくらいは伝わっているのだろう。けれど屋敷の誰も、そのことを“話題”にはしない。
その静けさが、この家らしい。
「朝餉は小食堂でよろしいですか」
とエマが尋ねる。
「ええ」
少し迷ってから、リディアはさらに付け加えた。
「……旦那様は?」
「本日は既にお取りになっております」
やはりそうか、とリディアは思う。朝の執務がある日は、アルベルトはかなり早く動いているらしい。食事の席で顔を合わせることは少ない。
少しだけ、ほっとした。
少しだけ、残念でもあった。
その両方を感じたことに自分で驚きながら、小食堂へ向かう。
今朝の食事も、最初から少量に整えられていた。温かなスープ、薄く焼いたパン、柔らかく煮た果物。侯爵家なら“少なすぎる”と判断されたかもしれない。だがリディアにはこれで充分だし、何より“食べられる形”で置かれていることがありがたい。
匙を手に取り、ゆっくりスープを口へ運ぶ。
温かさが喉を通り、胸のあたりまで落ちていく。その単純な感覚が、朝にはひどく大事に思えた。
昨日より、少し食べやすい。
それはたぶん、体調のせいだけではない。夜にきちんと眠れたこと、眠れないときにどうすればいいかを少しだけ知ったこと、その安心が小さく効いているのだろう。
食事の途中で、ハロルドが小食堂へ入ってきた。
「奥様」
いつもの一礼。
「旦那様は間もなく王宮へ向かわれます」
「そう」
「お見送りなさいますか」
リディアは一瞬、匙を止めた。
見送り。
侯爵家では父の出立を見送ることなど滅多になかった。必要があるときだけ形式的に挨拶をし、普段は執事や従者が整える。王宮でも、王太子を見送るのは“候補者の役目”として定められた場面だけだった。
だがここでは、それが“するかどうか”の問いとして差し出される。
「……ご迷惑ではないかしら」
思わずそう尋ねると、ハロルドは淡々と答える。
「旦那様が奥様へお伺いするようにと仰せでした」
また、そう来る。
自分から決めるよう促されるたび、まだ胸のどこかがざわつく。だが同時に、それを少しずつ当然として受け止め始めている自分もいる。
「では……もしお時間が合うなら」
「承知いたしました」
朝食を終えて玄関ホールへ向かうと、既に出立の準備は整っていた。
黒塗りの馬車。控える従者たち。薄曇りの朝の光を受けて、石造りの玄関前が静かに冷えている。侯爵家の見送りよりずっと静かで、しかし張りつめたものがある。
アルベルトはちょうど階段を下りてきたところだった。
今日の彼は王宮用の正装に近い装いで、濃色の上着の襟元だけに銀の装飾が走っている。いつも通り隙がなく、ただそこにいるだけで周囲の空気が引き締まる。
彼はリディアの姿を見つけると、一瞬だけ足を止めた。
「来たか」
短い言葉。
けれどその声音に、驚きや迷惑の色はなかった。
「お見送りをと思いまして」
そう言いながら、リディアはふと迷う。ここで何をどう言えばいいのだろう。ただ見送るだけなら、それでもいい。だが昨夜のことを思うと、それだけでは足りない気がする。
アルベルトは階段を下りきると、リディアの前で止まった。
「眠れたか」
やはり、最初に問うのはそこだった。
リディアは小さく頷く。
「はい。……昨夜は」
そこまで言って、胸の奥が少し熱くなる。
ただ礼を言うだけ。簡単なはずなのに、妙に落ち着かない。
「ありがとうございました」
ようやくそう口にすると、アルベルトは少しだけ眉を動かした。
「茶のことか」
「はい」
「眠れたなら、それでいい」
返答はあっさりしていた。
けれどそのあっさりさのせいで、リディアの胸は余計にざわつく。
この人はいつだってそうだ。してやった、とは言わない。恩に着せる気配もない。ただ必要だからやっただけだという顔をする。なのに、だからこそ礼を言いたくなる。
「でも……助かりました」
もう一言だけ、そう続けると、アルベルトはしばらく彼女を見つめた。
その視線は鋭いままだが、以前ほど身を固くしなくて済む。何かを測られているというより、ただ言葉を受け止められている感覚に近い。
「そうか」
短い。
だが、その一言が思いのほかやわらかく響いた。
沈黙が落ちる。従者たちは距離を保ったまま待機している。馬車の扉も開かれたままだ。長く引き留めるわけにはいかない。
それなのに、リディアはなぜだか今この場が少し惜しいような気がした。
昨夜の礼を言えた。
それだけのことなのに、胸のどこかが少しほどけたように思える。
「本日、何か予定は」
アルベルトがふいに尋ねる。
「特には……書庫か、温室で過ごそうかと」
「そうか」
彼はわずかに頷いた。
「無理に人と会う必要はない」
また、その言葉だ。
必要なことだけを言う声。
安心を置くような言い方。
リディアは小さく息を吸い、それから静かに答える。
「はい」
出立の空気がそろそろ満ちてきたころ、アルベルトは馬車へ向かいかけて、ふと振り返った。
「今夜は戻りが遅くなる」
それは予定の共有にすぎないのだろう。だがリディアはなぜか、その一言をわざわざ告げられたことに少し驚いた。
「……わかりました」
「眠れぬようなら、昨日と同じように言え」
昨日と同じように。
つまり、また扉越しでも構わない、と言っているのだ。
リディアの胸がまた小さく跳ねる。
「そこまでご迷惑は……」
思わず出かかった言葉を、途中で飲み込む。昨夜から何度も言われているではないか。そういうものも言っていいのだと。
だから今度は、少しだけ言い直した。
「……覚えておきます」
アルベルトはそれで充分らしく、短く頷いて馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まり、車輪が静かに動き出す。黒塗りの馬車は門の向こうへ滑るように消えていった。
玄関前に残されたリディアは、しばらくその背を見送っていた。
たった一言の「ありがとう」が、こんなにも胸をざわつかせるなんて思わなかった。
礼を言っただけなのに。
ただ助かったと伝えただけなのに。
それがまるで、自分の中の何かを一つ認めたような気分にさせる。
あの人に頼ったこと。
助けられたこと。
そして、それを嬉しいと思ってしまったこと。
玄関ホールへ戻る足取りが、心なしか少し軽い。
侯爵家では、礼とは義務だった。王宮でも、礼は形式だった。だが今朝の「ありがとう」は、もっと個人的で、もっと不器用で、だからこそ自分のものだった気がする。
それが少し恥ずかしく、同時に少し嬉しい。
そんな感情を抱く自分が、リディアにはまだうまく理解できなかった。




