第19話 眠れない夜、扉越しの声だけで少しだけ救われることがあるなんて知らなかった
夜会から戻ったその夜、リディアは寝台に入ってからも目を閉じることができなかった。
体は疲れている。肩も重いし、背筋はずっと張りつめていたせいで鈍く痛む。湯浴みを終え、髪も乾かし、いつもより早く灯りを落としたというのに、眠気だけがどこか遠かった。
瞼を閉じると、夜会の光景が次々に蘇るからだ。
ファーネル侯爵夫人の笑顔。
探るような貴婦人たちの目。
「お加減はいかが?」と聞きながら、本当は別の何かを見たがっている顔。
そして、その一つ一つの前へごく自然に立ち、何事もないように流していったアルベルトの横顔。
守られた。
たしかにそう感じた。
けれど“守られた”と自覚したからこそ、逆に今まで自分がどれほど無防備に晒されてきたのかを思い知ってしまった気もする。
侯爵家でも王宮でも、誰かが自分を整えることはあった。
姿勢を直し、言葉を選び、立つ位置を教えることはあった。
だがそれはいつだって、「よりうまく見せるため」であって、「消耗を減らすため」ではなかった。
今夜のアルベルトは違った。
あの人は最初から、リディアを“見せる”ためではなく、“削らせない”ために動いていた。
その違いが、ひどく大きかった。
大きすぎて、今になってじわじわと胸へ沁みてくる。
リディアは寝返りを打った。
窓の外では風が木々を揺らしている。宰相家の夜は相変わらず静かだ。静かなのに、心の内側だけが少しも落ち着かない。
眠らなければ。
そう思うほど、意識は冴えていく。
やがて、うとうとしたかと思えば、浅い夢へ引きずり込まれた。
夢の中で、リディアはまた夜会の広間に立っていた。
けれど今度の広間には顔がない。
ドレスと宝石と笑い声だけが浮かび、誰もがこちらを見ているのに、誰一人として輪郭を持たない。ざわざわと重なる声だけが、耳元で形を変えていく。
――王太子に捨てられた。
――宰相もすぐ飽きるわ。
――可哀想に。
――でも見てみたいでしょう?
――あの女がどんな顔で壊れるのか。
逃げようとしても、裾が重くて足が動かない。
気づけば広間の中央に立たされ、どこからか父の声が響く。
――役に立て。
――今度こそ失敗するな。
次いで、東の回廊の冷たい石床が足元へ変わる。
エドワードが振り返る。
冷たい目。
息が詰まる、と言った口元。
その背後で、また別の声が重なる。
――物わかりがよくて助かる。
――すぐ謝るのだな。
――可愛げがない。
――正しすぎる。
――冷たい。
どの声が誰のものなのか、もうわからない。
ただ責められている感覚だけが、幾重にも重なってくる。
逃げたいのに、足は動かない。
息を吸おうとしても、胸の中央がきつく締め上げられて、うまく空気が入らない。
そのとき、不意に別の声がした。
低く、短い声。
君が望まぬ限り、私は君に触れない。
夢の中なのに、その声だけは妙にはっきりしていた。
次いで。
無理に笑う必要はない。
声の方向を振り向こうとした瞬間、広間も回廊もすべて遠のいて、リディアは目を開けた。
暗かった。
寝台の天蓋。薄い闇。カーテンの隙間からかすかに差す月明かり。
胸が上下している。呼吸が浅い。喉が乾いている。
夢だとわかっても、すぐには体の強張りが解けなかった。
リディアはゆっくりと起き上がり、寝台の縁へ足を下ろした。裸足の裏に床の冷たさが伝わる。その冷たさで、ようやく少しだけ現実へ戻ってこられた気がした。
また、だ。
王太子妃候補としての教育が厳しくなった頃から、こういう夜がときどきあった。
失敗を責められた日。
父の期待に押し潰されそうになった日。
大勢の前で完璧であることを求められた日。
眠っても、夢の中でまた立たされる。
責められ、見られ、逃げられないまま朝になる。
最近は少し減っていたはずなのに、今夜は久しぶりに色濃く出てしまった。
夜会のせいだろうか。
それとも、守られたことで逆に昔の傷が浮いてきたのだろうか。
うまく考えられない。
ただ胸がざわざわして、もう一度横になってもすぐには眠れそうになかった。
水を飲もう。
そう思って立ち上がり、卓の上の水差しへ手を伸ばした。けれど指先が少し震えて、うまく持ち上がらない。ようやく杯へ注いで一口飲んでも、喉の渇きは癒えたのに、胸のざわめきまでは収まらなかった。
誰かを呼ぶほどではない。
そう思う。
発熱したわけでも、倒れそうなわけでもない。ただ眠れなくて、少し苦しいだけだ。そんなことで侍女を起こすのは気が引けた。
けれど一人でいるには、心が落ち着かなかった。
部屋の中を少しだけ歩く。窓辺へ行き、また戻る。温室へ行こうか、と一瞬考えたが、夜中にそんなことをしたらさすがに屋敷を騒がせるだろうと思い直す。
どうすればいいのか、わからない。
そうしてしばらく迷っていたとき、不意に扉の向こうから、微かな足音が聞こえた。
リディアは息を止める。
こんな時間に、誰かが廊下を?
盗人や不審者の類ではない。歩き方に無駄な慌てがない。静かだが、隠れる気配でもない。
足音は彼女の扉の前で止まった。
次いで、控えめな声がした。
「起きているか」
アルベルトだった。
リディアは一瞬、返事ができなかった。
どうして。
どうして、この時間に、この人が自分の扉の前にいるのだろう。
「……はい」
ようやくそう答えると、扉の向こうでわずかな沈黙があった。
「眠れないのか」
問いかけは短い。
けれどその静けさの中に、詮索でも命令でもない“確認”の気配がある。
リディアは扉を見つめたまま、小さく頷くように言った。
「少しだけ」
少しだけ、ではないかもしれない。
けれど、少しだけとしか言えなかった。
「開ける必要はない」
アルベルトが続ける。
「ただ、茶を置いていく」
それだけ告げられて、リディアはまた言葉を失った。
開ける必要はない。
その一言が、ひどくありがたかった。
今の顔を見られたくなかったからだ。夢から覚めたばかりで、きっと髪も乱れているし、目元も落ち着いていない。夜中に怯えて起き出した自分を、誰かに見られるのは少し怖かった。
けれど完全に一人でいるのも、今は苦しい。
その、どちらの気持ちもわかった上での言葉に思えた。
扉の向こうで小さな物音がする。たぶん、小卓か盆が置かれたのだろう。
「香りは弱いものにした」
低い声が続く。
「眠気を邪魔しない」
どこまで先回りするのだろう、この人は。
リディアの胸の奥で、さっきまでざわついていたものとは別の熱がじわりと広がる。
「……ありがとうございます」
扉越しにそう言うと、しばらく返事はなかった。
もう行ってしまったのだろうか、と少しだけ寂しさに似たものがよぎったとき、やがて低い声が戻る。
「悪い夢を見たか」
リディアは息を呑んだ。
見抜かれている。
扉越しなのに。顔も見えていないのに。
けれど今の彼女には、その見抜かれ方が不思議と怖くなかった。
「……はい」
素直に認めると、今度はアルベルトがごく短く息を吐く気配がした。
「そうか」
それだけだった。
慰めの言葉はない。
大丈夫だとも、気にするなとも言わない。
ただ、その事実を受け取る。
けれど、それが今のリディアにはちょうどよかった。
優しい言葉を重ねられたら、たぶん泣いてしまったかもしれない。けれどこの人は、必要以上に踏み込まない。だからぎりぎりのところで息ができる。
「……私は」
扉へ向かって、小さく声を出す。
「こういうことが、ときどきあるのです」
自分でも驚くほど自然に言葉が続いた。
「昔から……少し、緊張が強い日や、人前に長く出た日のあとに」
扉の向こうは静かだ。
聞いているのだとわかる静けさ。
「眠れなくなったり、夢を見たりして」
そこまで言って、リディアはふと唇を結んだ。
これは説明だろうか。言い訳だろうか。あるいは、ただ弱さを明かしているだけだろうか。どれにしても、あまり見せたくない部分のはずなのに、扉一枚隔てた向こうにいる相手へは、不思議と隠しきれなかった。
しばらくして、アルベルトが言った。
「次からは、そういう夜が来る前にわかるようなら言え」
リディアは目を瞬く。
「前に?」
「夜会でも、王宮でも、人が多い場へ出る前にな」
やはり、そう来るのだ。
慰めではなく、対策。
励ましではなく、次の備え。
「予兆があるなら、最初から負荷を減らす」
扉越しの声は低く静かで、まるで執務の手順を確認しているかのようだった。なのに、それがひどく心へ沁みる。
「そういうものも、言っていいのですか」
問い返すと、ほんの短い沈黙のあと、アルベルトは言った。
「言わねばわからん」
あまりにもその通りで、リディアは少しだけ肩の力を抜いた。
言わなければわからない。
当たり前のことなのに、これまでの彼女はずっと“言わずに察されないのは自分が未熟だから”と思ってきた気がする。
だが今、あの人は言う。
言っていいのだと。
言わなければわからないのだから、と。
リディアはしばらく扉を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「……覚えておきます」
扉の向こうで、ごく小さく何かが動く気配がした。頷いたのかもしれないし、ただ体勢を変えただけかもしれない。見えないからわからない。
けれど見えないままのほうが、今はむしろありがたかった。
「茶が冷める前に飲め」
最後にそう言って、足音が遠ざかる。
リディアはしばらくその場から動けなかった。
急に一人へ戻されるのが寂しいというより、ただ今の短いやり取りが、自分の中でどこへ落ち着くのかがわからなかったのだ。
やがて扉をそっと開けると、小さな盆が置かれていた。白磁のカップから、たしかにごく薄い香りが立っている。刺激のない、温かな香り。横には小さな焼き菓子が一つだけ添えられていた。
リディアはそれを部屋へ運び、窓辺の椅子へ座ってカップを両手で包む。
温かい。
喉を通る熱が、夢の残りを少しずつ溶かしていく。
悪い夢を見た夜に、扉越しの声だけでこれほど救われることがあるなんて、知らなかった。
見なくていい顔がある。
開けなくていい扉がある。
それでも、そこに誰かがいて、必要なだけの言葉を置いていく。
その距離が、今のリディアにはひどくありがたかった。
カップを傾けながら、彼女は思う。
この屋敷では、安心は大袈裟な優しさの形ではやってこない。
ただ必要な分だけ、静かに置かれる。
温かな茶のように。
扉越しの声のように。
そして、その静かな安心を受け取れるようになってきた自分がいることに、リディアは少しだけ驚いていた。




