第17話 初めて宰相夫人として立つ夜会で、私はようやく“守られる”という意味を知った
夜会への招待状は、ある日まとめてやってきた。
正確には、すでに何通も届いていたものの中から、ハロルドとマーサが「今ならまだ出ても差し支えない」と判断したものだけが、最終的にリディアの前へ置かれたのだ。
宰相夫人となって以来、社交界は彼女を見たがっていた。
好奇心。憐れみ。探り。値踏み。
王太子に捨てられた侯爵令嬢が、冷徹宰相のもとでどんな顔をしているのか。怯えているのか、やつれているのか、すでに后候補としての矜持を失っているのか。
そうした視線が待ち構えていることを、リディアはもう知っていた。
だからこそ、その薄い金縁の招待状を前にしたとき、指先がほんのわずかに冷えた。
「ファーネル侯爵夫人主催の小規模な夜会にございます」
ハロルドが淡々と説明する。
「出席者は多くございません。ですが、そのぶん王都の空気に敏い方々が揃います」
つまり、物見高い連中が集まるということだろう。
リディアは表情を崩さず、招待状へ視線を落とした。白い厚紙に流麗な文字。丁寧な文面。だがその向こうにある意図は、少しも優雅ではない。
見に来い、と言っているのだ。
宰相夫人がどれほど“壊れずにいられるか”を。
「無理にお受けになる必要はございません」
ハロルドはきわめて落ち着いた声で言った。
「旦那様もそのように」
リディアはそこで、そっと息を吐く。
やはり、と思う。
この屋敷ではまず「出るべき」ではなく「無理をしなくていい」が先に来る。まだ慣れきってはいないが、その順番に、今は少し救われてもいた。
けれど同時に、いつまでも守られたままではいられないこともわかっていた。
宰相夫人として生きる以上、いずれは夜会にも、茶会にも、王宮の晩餐にも立たねばならない。社交界の視線を完全に避け続けることはできない。
避ければ避けるほど、“やはり壊れたのだ”と面白がられるだけかもしれない。
リディアは数拍の沈黙のあと、静かに言った。
「……お受けします」
ハロルドは驚かなかった。少なくとも表面上は。
「よろしいのですか」
「はい」
その返答は思ったよりもはっきりしていた。
「いつまでも逃げているわけにはまいりませんもの」
口にしたあと、自分で少しだけ不思議に思う。
“逃げる”という言葉を、こんなふうに使うとは思わなかった。侯爵家にいた頃の自分なら、社交に出るのは義務であり、逃げるかどうかを考える余地すらなかったからだ。
だが今は違う。
ここでは一度、「出なくていい」という選択肢を与えられた。だからこそ、自分で出ると決める意味がある。
ハロルドは一礼した。
「承知いたしました。旦那様へそのようにお伝えいたします」
その日の夕刻、アルベルトは執務から戻ると、真っ先にその話をした。
書庫の前室で顔を合わせたときだった。彼は外套を侍従へ渡したばかりで、まだ王宮の冷たい空気をまとっているように見えた。
「聞いた」
それが第一声だった。
「ファーネル侯爵夫人の夜会へ出るそうだな」
リディアは小さく頷く。
「はい」
「気が進まぬなら断ってよかった」
即座にそう言われて、胸の奥が少しだけ熱くなる。
この人は本当に、そういう男なのだ。
社交界への見栄や体裁より先に、自分の心身の負荷を気にする。
「わかっています」
リディアは静かに言った。
「ですが……そろそろ、出るべきだと思いました」
アルベルトは彼女をまっすぐ見た。
その視線は相変わらず鋭い。だが以前より、受け止めるこちらの胸が無闇に縮こまらなくなっていることに、リディア自身が少し驚く。
「“べき”か」
彼は短く繰り返した。
「義務感だけで動くと、あとで反動が来る」
いかにも彼らしい言い方だ。
慰めでもなく、美辞麗句でもなく、ただ実務上の注意のように告げる。だがそれが、今のリディアにはかえって受け取りやすい。
「義務感だけではありません」
そう返すと、アルベルトの目がわずかに細まる。
「では?」
問われて、リディアは少し考えた。
言葉を選ばないと、また“出過ぎたこと”になる気がして――いや、と途中で思い直す。
この人の前では、少なくともそれを過剰に恐れなくてもいいはずだ。
「……確かめたいのです」
「何を」
「私が、本当に壊れるほど弱いのかどうか」
口にした瞬間、自分でもひどく正直すぎると思った。
だがアルベルトは笑わない。目を逸らしもしない。
「誰がそう言った」
低い声で問われる。
「言葉そのものではなくても、皆そう見ているとわかります」
社交界が。
王宮が。
きっと父も。
そしておそらく、王太子も。
そう続けたかったが、リディアはそこまで口にしなかった。
アルベルトは短く息を吐く。
「確かめる必要はない」
「ですが」
「君が弱いかどうかは他人の見立てで決まらん」
その一言が、ひどく真っ直ぐ胸へ入ってきた。
だがリディアは、今度は少しだけ首を振る。
「それでも、出てみたいのです」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「怯えているままでは……ずっと、誰かが決めた“私”のままですもの」
王太子妃候補。
侯爵家の娘。
捨てられた令嬢。
すぐ壊れる宰相夫人。
そのどれでもない自分を、少しでも自分の足で確かめたかった。
長い沈黙ののち、アルベルトは言った。
「わかった」
その返答だけで、リディアは少し肩の力を抜く。
「ただし」
彼は続ける。
「君一人で戦う必要はない」
リディアは瞬きをした。
戦う。
夜会を、そう言うのか。
いや、たしかに社交界は戦場だ。今さらながら、王太子妃候補として立っていたころより、その言葉のほうが本質に近い気がした。
「私が隣にいる」
アルベルトはごく当たり前のことのように告げる。
「それを忘れるな」
その言葉は、甘い口説き文句とはあまりに違っていた。だがだからこそ、変に飾りを疑わずに済む。
隣にいる。
忘れるな。
それだけで充分だった。
夜会当日、支度はいつもより長くかかった。
マーサとエマが選んだのは、柔らかな青銀のドレスだった。侯爵家にいた頃の“未来の王太子妃候補”としての華美な装いとは違う。胸元の露出は控えめで、線はすっきりとしている。だが布の質と仕立ての良さが一目でわかる。
華やかすぎず、地味すぎず。
“宰相夫人”として、相手に軽く見られぬための装いだった。
髪は半分だけ結い上げられ、銀細工の髪飾りが控えめに光る。首元には真珠を一連だけ。香りはごく薄く、遠目には気づかれないほどだ。
鏡の前の自分は、やはりいつものように整って見えた。
だが今日は、その整えられた外見に少しだけ意味が違っていた。
誰かに選ばれるためではない。
捨てられた女に見えないためだけでもない。
少なくとも今夜は、自分で“立つ”ための装いだ。
「お綺麗です、奥様」
エマが言う。
リディアは昔なら「そのようなことは」と即座に返したかもしれない。だが今は一瞬だけ迷い、それから小さく頷いた。
「ありがとう」
その返答を自分で口にして、ほんの少しだけ胸がざわつく。
褒められたら受け取ればいい。
あの温室で言われた言葉が、ふと蘇る。
完璧にはまだ遠い。だが少しずつなら、慣れていけるかもしれない。
玄関ホールへ降りると、既にアルベルトが待っていた。
黒に近い深紺の礼装は夜会用に仕立てられたものらしく、銀糸の細い刺繍が襟元と袖に控えめに入っている。暗い色の装いなのに、彼が着ると不思議と沈まない。むしろ周囲の光を削いで、そこだけ輪郭が際立つように見える。
リディアが現れると、アルベルトは一度だけ視線を上から下まで走らせた。
値踏みではない。確認に近い目だった。
「苦しくないか」
第一声がそれだった。
リディアは思わず小さく目を見開く。
「……大丈夫です」
「靴は」
「歩けます」
アルベルトは短く頷く。
「ならいい。少しでもきつければ言え」
エスコートのために差し出された腕を見て、リディアは一拍遅れてそこへ手を添えた。
硬い布越しにも、彼の体温は意外と温かかった。
馬車の中では、ほとんど会話はなかった。
だが沈黙は気まずくない。外から響く車輪の音と、かすかな揺れ。その中で、リディアは自分の呼吸を整える。
怖くないと言えば嘘になる。
ファーネル侯爵夫人の夜会には、確実に“見に来る目”が集まっているだろう。自分がどんな顔をするか、アルベルトがどれほど冷たく扱うか、宰相夫人がどの程度まで平静を保てるか。そうしたものを面白がる者たちがいる。
けれど隣には、たしかにこの男がいる。
それだけで、昨日までとは違う。
ファーネル侯爵家へ到着すると、案の定、視線の気配が濃かった。
玄関先からすでに、何人もの目が馬車へ向けられているのがわかる。扉が開き、アルベルトが先に降り、それから自然な動作でリディアへ手を差し伸べる。その一連の所作に一切の迷いがなく、まるで最初から当然のように彼女を“自分の隣”へ置いている。
その事実だけで、周囲の空気が少し変わった気がした。
中へ入ると、華やかな音楽と香水の香りと、薄く重ねられた会話の層が一気に押し寄せてくる。
リディアの指先がわずかに冷えた。
けれど、その瞬間。
アルベルトの腕がほんの少しだけ動き、リディアの手を支える角度が変わった。引き寄せるわけでもなく、目立つほど強くもない。だが明らかに、“ここにいろ”と示す位置へ彼女を導く。
守られた、と感じた。
初めて。
侯爵家では背筋を正すことを求められた。王宮では失敗しないことを期待された。だが“守るために位置を整えられる”という感覚は、これまで知らなかった。
ファーネル侯爵夫人が笑顔で近づいてくる。
「まあ、宰相閣下。奥様。ようこそお越しくださいました」
優雅な声。完璧な礼。だがその目の奥には、好奇心がうっすらと透けている。
リディアは練習した通りに笑みを形づくろうとして――すぐに思い直した。
無理に笑う必要はない。
心の中でそう繰り返し、代わりに静かな表情のまま一礼した。
「お招きありがとうございます、侯爵夫人」
その声は、思ったよりも揺れなかった。
侯爵夫人の視線が一瞬だけ、リディアの顔を探るように走る。怯えも、やつれも、みじめさも見つからないことに、ほんの僅かに物足りなさそうな色が差した気がした。
だが次の瞬間、アルベルトが穏やかな声音で言った。
「妻はまだ人の多い場に慣れていない。長居はせぬ」
それは一見するとただの予定確認のようでいて、実際には明確な線引きだった。
――余計なことをするな。
そう言外に告げている。
侯爵夫人の笑みが、ごく僅かに硬くなる。
「まあ、もちろんですとも」
彼女はすぐに取り繕ったが、その一瞬をリディアは見逃さなかった。
そして理解する。
この人は、こうやって守るのだ。
怒鳴りもせず、威圧もあからさまに使わず、ただ相手が踏み込める範囲を先に断つ。
夜会が始まったばかりだというのに、リディアはすでにひどく疲れそうだった。けれど同時に、ここへ来る前とは決定的に違うものが一つある。
彼女は一人ではない。
その事実だけが、社交界の灯りの中で静かに、しかし強く彼女を支えていた。




