17
働いていた宿屋の女将さん、洋装店の店主に挨拶を済ませ、アイリーンは一日を終えようとしていた。
昨日、いきなり「明後日迎えに来る」とライナルトに言われ、アイリーンは最後の仕事と挨拶回りに奔走する一日となった。
疲れを感じ、アイリーンはベッドにその身を投げ出した。殺風景になった部屋に、カバンが一つ。特に持って行く物も思いつかず、数分で準備も終えた。
「どうせすぐに帰ってくるんだし…」
その独り言は小さな部屋によく響く。言っておきながら、虚しさが募る。
何の為に行くのだろう、どうして行くことを決めたのだろう。すぐに帰ってくるのに。何かを期待しているのだろうか。だとしたら、愚かな話だ。
まるで自分と会話するかのようにアイリーンは心の中で呟く。
そして、今更ながら断りたいという気持ちが大きくなってきた。
「だめ、決めたことだから…」
自分に言い聞かせるかのように呟く。口にしたその言葉は震えていた。
もう、考えない。アイリーンは悶々と浮かんでくる悩みに蓋をするかのように硬く目を瞑った。
次の日の朝。
まだ湖の周囲に朝靄が残る時間帯に、馬の嘶きと共にライナルトはアイリーンの元へとやって来た。
「おはよう、アイリーン。準備は?」
嬉しそうなライナルトと異なり、アイリーンは眠そうに目を擦って頷くだけだった。
「馬車だと昼過ぎになってしまうから。先に急いで来たんだ」
「そこまで急がなくても」
「善は急げってことだよ。何事も早いに越したことは無い」
そう言いながら、ライナルトはてきぱきと立ち回った。アイリーンの両親であるシャレルやエルフィードへ挨拶し、アイリーンを王城で見習いとして連れていくことへの書状を手渡す。
シャレルはその慌しさにつられて、昨晩悩んでいたことを思い出す暇も無かった。
父や母へ、暫しの別れを告げ、ライナルトに促されるまま、馬に跨り…ようやく一息つく頃には、既に隣村にまで到達していた。
「…目まぐるしいわ」
「慌しかったね」
「馬も、飛ばしすぎだと思うわ。どうしてそんなに急ぐの」
「ああ、ごめん。もう少しゆっくり行くことにしようか」
そう言ってライナルトは自らの腕の中に閉じ込めているアイリーンの髪に唇を寄せた。
途中の町で馬車と合流することになっている。それまでは、アイリーンを腕の中に閉じ込めておける。馬で来た特権というものだ。
ライナルトは上機嫌で馬の手綱を握りなおした。
「行儀見習いって…何をするのかしら」
「え?ああ、まあ、お茶を入れたり、舞踏会に合うドレスを準備したり…」
「出来るかしら」
「出来るよ。それに一番の仕事は、朝、俺を起こすことと…夜、寝る前に酒を用意することだから」
頭の後ろの方から聞こえてきたライナルトの発言に、アイリーンの思考は暫し止まってしまった。
行儀見習いとして王城に向かう。でも、一番の仕事は…何だって?
「…どういうこと」
「俺が一番楽しみにしてることって意味」
「私、あなたお付きの侍女じゃないわ」
「そりゃそうだね」
「…どうしてあなたを起こさないといけないの?」
「朝からアイリーンの顔を見れるなら最高だと思って」
「…他の女性にでも頼めば良いじゃない!」
「だから、他の女性じゃ意味が無い」
アイリーンの耳元でライナルトが囁く。みるみる内にアイリーンは耳から首筋にかけて赤に染まっていく。
「そ、そんなことばっかり言って!もう知らないわ」
拗ねるその様すら可愛らしいと、ライナルトは自然と顔が綻んだ。
ライナルトにとっては楽しい乗馬の時間、アイリーンにとってはどこか居心地が悪い乗馬の時間は終わり、アイリーンは町で合流した馬車へと乗り換えた。
一昨日、ライナルトがアイリーンの家を訪れた時に護衛として付いてきていた騎士が今日も同じように控えている。
どことなく気まずい気持ちでアイリーンは馬車に乗り込む。ここから先は言葉にも気をつけなければならない。
一つため息をつき、アイリーンは馬車の中からこっそりと馬で進むライナルトを一瞥した。
当たり前のように話をしていた相手が、急に遠く感じる。これが本来の距離なのだと分かっていながら、寂しくも感じる。
心の中で吹き荒れる嵐は更に大きさを増していく。後に残るのは傷ついた心だけだと分かっていながら、アイリーンはライナルトに惹かれている自分を止めることが出来なかった。




