二人で一役
「おっはよー。くしゅんっ!」
不穏すぎる大きなくしゃみと共に第三音楽室のドアを開けたのは、髪がしっとりした、ジャージ姿のゆ太朗だった。小さくて見えなかったが、後ろに同じクラスのめぐるもいる。
「え、なに、お兄ちゃん。風呂上がり?」
「風呂上がりちゃうわ!」
「グラウンドで社交ダンスの練習してたの。そしたら小泉ゆ太朗の彼女がめぐに怒って。ホースの水噴射されそうになったの。それで小泉ゆ太朗がめぐを庇ってこうなったの」
「ごめんなさいなの」とジャージ姿のゆ太朗に謝罪するめぐる。やはりいつもと変わらず全くの無表情なのだが、申し訳なさそうな気持ちは何となく伝わってきた。
「コミュの練習やゆーてんのに嫉妬する理依子が悪いねん。気にすんな」
「分かったの。もう全く気にしないの」
「いや、多少は気にしろや! 自分が俺のこと噛むから理依子も過剰反応しだしてんぞ!」
「言われてから噛んでないの。震えながら噛みたい衝動を必死に抑えてるの」
「禁煙中のおっさんか! ガムでも噛んどけ!」
そういえばめぐるには人喰い宇宙人疑惑があったのだということを肇は久しぶりに思い出した。これだけ一緒に過ごして何もないのだから、疑惑は疑惑でしかなかったのだろうけれど、今度勇気を出して聞いてみようかなと思う肇なのだった。
「小泉、今日は帰ったらどうだ?」
「え! やや! 本番まで日ぃないやん! こんなん動いとったら乾くわ! くしゅっ!」
「お兄ちゃん最近ちょっと体調悪いじゃん。本番に備えて今日は帰った方が良いよ」
「悪ないし! 今、二十二位やねん! もっと頑張らんと! くしゅんっ!」
「悪化して本番出れなかったら元も子もないですよ?」
みんなに正論を突きつけられ、ゆ太朗は悔しそうに顔を歪めた。しかし駄々をこね続けても意味がないと分かったのか、素直に応じ、第三音楽室を出ていった。
「お兄ちゃん、アイドルのイベント参加したさに上京してさ、今一人暮らししてるのね。生活費とかも半分くらいバイトで稼いでるから、コミュにバイトにって、ここ最近ちょっとオーバーワーク気味なの」
「そうだったのか……」
双子だから一緒に住んでいるものだと思っていたが、どうやら違うらしい。まあ、親が離婚しているのだから仕方ないのかもしれない。
「風邪が悪化しないと良いんだけど……」
ゆ子のその願いは届かず、ゆ太朗は次の日高熱を出して学校を休んだ。
一人暮らしで心配だからとお見舞いに行き、少し学校を遅れてきたゆ子。熱は高いがご飯は食べられるらしく、病院にも連れて行ったからすぐに治るだろうとのことだ。
しかしルーキースターまでは今日を合わせて後二日しかない。例え治ったとしても、病み上がりの状態で舞台に立たせて本当に大丈夫だろうかと肇は心配だった。
「すぐ治すから心配せんといてーって言ってたよ」
「いや、こんなん心配しない方がおかしいだろ」
「めぐが悪いの。めぐもお見舞い行きたいの」
「風邪うつってもダメですし、やめておいた方が良いですよ」
めぐるが行けばまたゆ太朗の機嫌が悪くなるかもしれないし、と肇も思った。
「ま、めぐたそが行ったら喜ぶだろうけどね」
「喜ぶの? 変なの」
「喜ばねえだろ。またキレるだけだって」
「はじタン……」
「はじめちゃんさん……」
哀れむような目でみいあやゆ子に見つめられ、肇は意味が分からず、めぐると一緒に首をひねるのだった。
「さ、はじタンは放っておいて練習始めよっか、君島さん」
「ですねー、NASA」
「おい! 何なんだよ!」
本当に女子というものは喧嘩したり結託したり、意味の分からない生き物である。
次の日。今日は土曜日。つまりルーキースターの前日である。そして午後からコンサートホールでリハーサルが行われる日でもある。
要するに、しっかりと練習が出来るのはもう今日の午前中しかない。泣いても笑っても、これで最後だ。
肇はピアノにみいあと並んで座り、最後の猛特訓を行っていた。
「安定して音が取れるようになったな」
「はじめちゃんさんが付きっきりでレッスンしてくれるからですよ。みゅふふ、大人の夜のレッスンもしてほしいですー」
「それは経験豊富な小泉にしてもらえ」
「えっ!? あっ!? はじめちゃんさん、まさかっ! どう……」
みいあが大変不名誉なことを言い掛けたので、ジャジャジャジャーンとベートーベンの運命を思い切り弾いて誤魔化した。
「顔真っ赤ですー。本当、はじめちゃんさんってば可愛いんですから。大丈夫ですよ、みいあが奪ってあげますからっ」
「は、はあ!? ち、違うからな!」
「そんな恥ずかしがらなくてもー。みいあだって初めてですし。みいあの初めてもらえちゃうんですよ? 嬉しいでしょ?」
肇の腕に胸を押し当てるようにぎゅっと抱きつき、とろけた表情で上目遣い。悔しくもドキドキしてしまい、恥ずかしさから振り解くのだが、すぐにまた抱きついてくる。「いっそその胸揉んでやろうか!」と馬鹿なことを考えていたら、ゆ子に「ここ教えてー」と引っ張られて、解放されたのだった。
「お、おはよう」
一瞬、誰の声か分からなかった。
声をした方を見ると、立っていたのはマスクをしたゆ太朗で。
高熱を出したというのに一日で復帰したことにも驚きだが、もっと驚きなのは――。
「こ、小泉……どうしたんだよ、その声!」
「い、いやー。ちょっと枯れてもてん。で、でもハチミツ舐めてるから明日には治るし! けほっけほっ!」
「む、無理でしょ、それ。どうすんの……」
公演は明日だ。ゆ子の言うとおり、ゆ太朗がこの状態では、ミュージカルに出演することは無理だ。
だったらどうする?
主人公の思い人である大輝を削ることなんて不可能だ。みいあの台詞をなくした時とは訳が違う。今から台本は変えられない。
じゃあ代役を立てる?
でも誰が今から代役なんてやってくれるだろう。そんな人間、いるわけがない。
こんなの、どうしようもない。
「めぐが。めぐが悪いの」
「お前は悪ないゆーてるやろ! 自己管理出来ひん俺が悪いねんから! けほっ!」
「ちょっ、お兄ちゃん、怒鳴らない!」
ゆ子に怒られ、ゆ太朗は子どものようにシュンと小さくなった。
「こうなったら、はじめちゃんさんが大輝をやるです! それが良いです!」
みいあが心底嬉しそうに、突然そんなことを言い出した。
「はあ!? 何言ってんだよ! 無理だよ!」
そりゃあ台詞も歌もダンスも立ち居振る舞いも、一緒に練習しているうちに覚えてしまってはいる。
しかし舞台には立てない。視線に耐えられるわけがない。
それに例え立てたとしても、ここまで一生懸命頑張ってきたゆ太朗の役を、横から奪うようなことは絶対にしたくない。
ゆ太朗は徹夜までしながら明日のために全力で練習してきたのだ。それをちょっと見ていて覚えたくらいの自分がやるだなんて、そんな酷いことはない。
「残念やけど、それが良さそうやな」
「小泉も何言ってんだよ! 無理だって!」
「無理ちゃうって。台詞とか覚えてるやろ?」
「お、覚えてるけど……でもっ! ここまで頑張ってきた小泉の役を取るような真似は……」
「何ゆうてん! そんなん気にせんでええって!」
ゆ太朗はそう言うが、やはり肇は舞台に立つことが出来ない。
「そ、それに! 俺は視線が……。絶対途中で気絶する……」
「そこが問題だよねえ」
どうしようかとみんなは考え込む。どうにかしたいのは山々だが自分にはどうしようもないんだと、肇はがっくりと肩を落とした。
「……青空肇、めぐに言ったの。別に役者を立てて、アテレコした方がよさそうって」
「え? あ、す、すまん。あの時は言いたい放題言って……ん?」
めぐるが肇の酷い発言を突然蒸し返してきたので、怒っているのかと一瞬思った。
しかしそれは違った。
「そ、そうか! アテレコ! アテレコだ!」
「お兄ちゃんが動いて、はじタンがそれにアテレコするんだね!」
「あ、ああ! これなら俺は舞台に立たなくて良いし、小泉の頑張りも全部無駄にはならない!」
アテレコとは、主に映像に声を割り当てることを言う。
つまりゆ太朗が舞台に立ち、踊り、立ち振る舞う。それに裏から肇が声を当てる。簡単なことではないが、ルーキースターに出るにはこれしかない。
「やだです! みいあ、はじめちゃんさんと舞台に立ちたいです!」
「お前、空気読めよ?」
「みゅう……だってだって、みいあ……」
丸く収まりそうになっているのに、一人だけ駄々をこねて、本当にこのわがまま女には頭を抱える。
「ごめんな、みいあちゃん。でも肇のイケボで俺がささやいたるからな? ちょうどフリーなったから、惚れてもええで?」
「すみません、警察ですか? 不審者が……」
「光の早さで通報せんといて!」
振ったのか振られたのかは分からないが、理依子とかいう女子とは別れたようだ。まああんなことがあって、今まで通り付き合おうだなんてお互い思わないだろう。
「さ。時間ねえし、練習するか、小泉」
「やな! タイミングとか合わせんとな」
「みゅうう……みいあと練習は……?」
「十分やっただろ。後は個人練習してろ。名香川と合わせても良いし」
「みゅうううう……」
ぶすっと頬を膨らませて子どもみたいに拗ね始めるみいあ。
本当、めんどくさいやつだ。
ここで甘やかせば絶対につけあがる。今は無視するのが正解だ。
拗ねるみいあを放っておいて、肇はゆ太朗と打ち合わせを始めるのだった。
「ばかばか……。はじめちゃんさんのばか……」




