第3章:大正維新がもたらした構造転換
一介の退役下士官が国家最大の暴力装置を麻痺させ、天皇大権を盾にして強行した農地改革。
この議会を完全に足蹴にした超法規的措置によって、政府は寄生地主から国内の全耕作地の実に六割弱に及ぶ膨大な小作地を強制的に買い上げた。
それは明治六年(一九七三年)の地租改正以来、半世紀近くにわたって日本資本主義の根底に巣食っていた寄生地主制という構造的欠陥が解体された瞬間であった。
大正維新以前の日本経済において、国民の大多数を占める農民層は極度の貧困状態に置かれていた。
彼らは生産過程に一切関与しない地主に対し、収穫高のおおよそ五十%という極めて高率な小作料を現物(米)で納めることを強いられていたのである。
この過酷な収奪構造により農村には資本が蓄積されず、国内には近代的な工業製品を消費する大規模な購買力が存在していなかった。
その結果、我が国の産業は低賃金労働力を酷使し、繊維産業を中心とした軽工業品を海外へ廉価で売り捌く外需(輸出)依存型モデルとならざるを得なかったのだ。
だが緊急勅令によって数百万の小作農に土地が分配され、広範な自作農が創設されたことで、このマクロ経済の前提は根底から覆ることとなった。
ここで特筆すべきは、この前代未聞の劇薬が単なる土地の分配というポピュリズムで終わらなかった点である。
荒澤玄蔵という怪人が国家の中枢に風穴を開けたその瞬間を、虎視眈々と待ち構えていた者たちがいた。
石黒忠篤や柳田國男をはじめとする、当時の農商務省の若きエリート農政官僚たちである。
彼らは長年、地主制という分厚い壁に阻まれながらも、自作農創設を悲願として研究を重ねてきた。
「ただ小作人に土地を配るだけでは、資本力のない零細農家が大量に生まれるだけであり、いずれ再び土地を手放すことになる」
長年の研究によりこの冷徹な実情を正確に理解していた。
ゆえに彼らは荒澤が強行した農地改革の波に乗じ、温めていた緻密な国家主導の農業インフラ整備計画をセットで発動させたのである。
全国規模での大規模な水利・灌漑整備事業が国策として推進され、同時にドイツからの最新技術導入によって、アンモニア合成による国策化学肥料工場(硫安の国産化)が次々と建設された。
この基盤整備と化学肥料の普及は、農地改革と完璧な相乗効果を生み出した。
小作料という五十%の重圧から解放され、農業剰余を自らの手元に留保できるようになった自作農たちは、その増加した所得を肥料購入や農機具の導入へと積極的に投資したのである。
農民たちの労働意欲と土地への投資意欲の劇的な向上は、我が国の労働生産性と土地生産性を飛躍的に高めた。
農家は単なる生存維持のための米単作から脱却し、市場向けの商業的農業(養蚕、果樹、野菜、畜産など)へと多角化を図る余裕を持つに至ったのである。
さて、ここまで読まれた賢明な読者諸兄においては、自作農が負担すべき地租(および土地の長期年賦払い)が、この小作料と比べてそれほど低いものなのか懸念される方もいらっしゃるであろう。
そもそも日本においてここまで小作農が増大した要因の一つとして、明治初期の地租の金納化と松方デフレによる農作物価格の暴落が重なり、多くの自作農が納税できず借金により土地を手放し、小作農に転落したという過去がある。
これに対して大正期は米価上昇により、地価を基準とする地租の実質的な負担割合は、収穫量全体のうち小作料が五十%だったのに対して、わずか数%~十数%まで目減りしていた。
つまり新たな自作農たちは、毎年収穫の半分が持ち去られる状態から、一割程度を税金と年賦のために払えばよい状態へ、劇的に改善されたのである。
農業部門におけるこの生産性革命は、直ちに強大な需要面でのインパクトとなって日本経済全体を牽引し始めた。
農村部に巨大な購買力を持った分厚い中間層が誕生したのである。
彼らの所得向上は、衣類、時計、自転車、さらにはラジオといった近代的な耐久消費財や日用品の巨大な市場を農村部に創出した。
この爆発的な国内需要の存在は、企業の投資意欲を強烈に刺激し、規模の経済を機能させることで持続的な経済成長の好循環を生み出した。
日本経済は海外市場の動向に左右されやすい脆弱な構造から、内需に支えられた自律的かつ強靭なマクロ経済構造へと、一九二〇年代を通じて見事な脱皮を遂げたのである。
同時にこの構造転換は資本の還流というもう一つの奇跡を引き起こした。
農地改革において、政府は買収の財源として巨額の農地証券(国債)を発行して地主への補償を行った。
大正期の我が国は、第一次世界大戦に伴う未曾有の輸出超過によって正貨(金)を大量に蓄積しており、この時発行された国債は極めて健全な資産価値を保持していた。
改革によって土地という非流動的資産と、小作料という安定収入を失った旧地主層は、手元に交付された国債を市場で売却し、あるいは担保として資金を借り入れ、新たな成長産業への直接投資へと向かった。
一九二〇年代は、まさに化学工業、電力産業、重機械工業といった新しい技術体系が勃興しつつある時期である。
旧地主資本がこれらの新興産業に対する巨大なリスクマネーとして大挙して流入したことで、日本の重化学工業化は猛烈なスピードで進展したのである。
それのみならず、地方の中小地主がその資金を食品加工や機械部品などの地場産業に投じたことで、財閥に過度に集中していた資本が分散化され、地方都市の自立的な工業化と厚みのある産業基盤が形成されることとなった。
この内需の爆発と工業化の加速は、我が国の労働市場における長年の宿痾を早期に融解させた。
かつての日本経済は、農業部門において限界生産力が極めて低く、膨大な過剰労働力が滞留していた。
この労働力が都市部の工業部門へと絶え間なく供給され続けることで、工業労働者の賃金上昇が構造的に抑制されていた。
しかし、自作農の所得水準が大幅に上昇したことで、農村における留保賃金(農業に留まった場合に得られる期待所得)が跳ね上がったのである。
もはや若年労働力は、農村の豊かで安定した生活を捨ててまで、都市部の劣悪な低賃金労働に従事しようとはしなくなった。
この労働供給曲線の構造的変化は、都市部の工業部門に対して強烈な賃金上昇圧力をもたらした。
企業は安い労働力を大量に使い捨てるという、旧態依然とした労働集約的な経営モデルの放棄を余儀なくされる。
企業は労働コストの上昇を吸収するため、機械化や技術革新による資本集約的な生産方式への移行(資本深化)を急速に進めたのである。
すなわち、過剰労働力が枯渇し実質賃金が全産業的に上昇し始める「ルイスの転換点」が、我が国においては一九二〇年代後半という極めて早い段階で訪れたのであった。
国内経済におけるこのドラスティックなパラダイムシフトは、必然的に大日本帝国の植民地経済政策や対外外交にも不可逆的な軌道修正を迫ることとなる。
一九一八年の大正維新に前後して、政府内では朝鮮および台湾を長期的な食糧供給基地と位置づけ、巨額の投資を行って内地へ大量の米を移出させる『産米増殖計画』の構想が存在していた。
しかし、農地改革と農政官僚たちの尽力によって内地の米生産が内発的な増産軌道に乗った今、植民地から大規模な米の移入を行えば、国内の米価を暴落させる豊作貧乏を引き起こし、新たに創設されたばかりの自作農の経営を直撃してしまう。
自国の自作農保護という至上命題を前に、政府はこの計画の規模を大幅に縮小し、政策目標を根本から転換せざるを得なかった。
結果として、植民地への投資は米単作からの脱却が図られ、急成長する日本の紡績工業を支えるための綿花栽培や、軽工業を中心とした植民地の早期工業化へと誘導されたのである。
これにより、東アジアにおける帝国経済圏は、過度な一次産品の収奪(モノカルチャー化)を避け、より高度で相互補完的な産業連関へと再編されていった。
このような強靭なマクロ経済構造の構築が、いかに我が国の運命を決定づけたか。
その真価が試された最初の国難が、一九二三年(大正十二年)に発生した関東大震災であった。
帝都を灰燼に帰した未曾有の大震災の復興においては、大正維新による農村中間層形成がもたらした「国民の貯蓄力向上」と「地方経済の強靭化」が、最大のカギとなったのである。
もし大正維新が成し遂げられておらず、国内の貯蓄が乏しいままであったならば、政府は震災復興のために必要となった約五・五億円もの莫大な資金を、英米からの高金利な外債に頼らざるを得なかったであろう。
それは間違いなく、その後の国家財政の首を真綿のように締め付ける致命的な足枷となっていたはずだ。
しかし我が国には数百万もの新たな自作農が存在し、既に彼らが巨大な余剰金を生み出していた。
彼らが市中銀行や郵便局へ預け入れた膨大な貯金が、復興のための内国債を消化する能力を飛躍的に高め、国家の財政負担を劇的に軽減したのである。
さらに、旧地主資本の流入によって強靭化していた地方の経済力は、壊滅的被害を受けた東京を再建するための巨大な復興特需を見事に吸収し、消化してみせた。
結果として、震災からの復興事業が日本全体に一種のケインズ経済政策的な乗数効果を生み出し、未曾有の災害すらも経済成長のバネへと転化させることに成功したのである。
そして、この震災復興を経てさらに強固となったマクロ経済の真価が、最も劇的な形で試されたのが、一九三〇年に本格化した『昭和不況』であった。
前年のアメリカの株式市場暴落に端を発する世界大恐慌の波及と、旧平価での金解禁による円高デフレは、輸出激減を招き日本経済に深刻な危機をもたらした。
特に農村部においては、アメリカ向け生糸の国際価格暴落と大冷害が重なり、甚大な打撃を受けたことは事実である。
だが、大正維新を経た我が国の農村は、この外的ショックに対して驚異的な耐性を発揮した。
生糸価格の暴落による被害はあったものの、彼らにはもはや収穫の半分を地主に奪われるという搾取が存在しなかったのである。
自作農たちは自家消費用の食糧を自ら確保しつつ、多角化された農業収入によって生活の絶対的崩壊に至る限界線までの強固なバッファーを維持することができた。
かつての農村不況期に見られたような、娘の人身売買や、欠食児童が全国に溢れ返るといった破滅的な貧困ゆえの悲劇は、最小限に抑え込まれたのである。
さらにマクロ的視点においては、一定程度豊かになっていた農村市場という巨大な内需が下支えとなり、輸出減少による外需の喪失を見事に吸収し、日本経済全体の収縮幅を大幅に抑制した。
この農村の絶対的貧困の回避がもたらした政治的帰結は、計り知れないほど大きい。
もし農村が壊滅的な貧困に陥り、特権階級だけが富を独占する状況が続いていれば、荒澤玄蔵の先導で既に芽吹きがみられた、農村出身の青年将校たちの「腐敗した政党と財閥を討ち、農民を救済する」という義憤が沸き起こっていたことだろう。
その結果巻き起こる血塗られたクーデターにより、我が国は共産主義もしくは急進的ファシズム政権が台頭していたことだろう。
そして過剰人口と貧困の捌け口として、満州や中国大陸を武力で獲得しなければならないという地政学的な強迫観念が、我が国を破局的な対外膨張政策へと駆り立てていたに違いない。
しかし、怪人が創り上げた豊かな中産階級は、もはや現状維持を望む保守的で安定した層へと変質していた。
急進的な体制変革やテロリズムを支持することはなかったのである。
農村の安定は政治の安定をもたらし、我が国が協調外交と自由貿易体制を維持し、破滅的な侵略戦争の泥沼を回避する要因となったのである。
荒澤玄蔵。
彼が扇動と脅迫によって切り開いた焼け野原に、エリート官僚たちが緻密な設計図を引き、数百万の農民たちが汗水を流して強靭な国家を建設した。
彼は狂った国賊か、それとも救国の志士か。
大正維新という原罪を背負ったこの国が歩んだ奇跡的な軌跡を前にする時、我々はその問いの答えを歴史の深淵に探さざるを得ないのである。




