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第2章:大正維新と緊急勅令

大逆事件という未曾有の思想弾圧から、奇跡的とも言える不起訴釈放を勝ち取った荒澤玄蔵。

だが彼が自由の身となったわけでは決してなかった。


大逆事件の翌年、危険思想の徹底的な取り締まりを目的として警視庁内に特別高等課(特高警察)が設置された。

政府から極度の危険人物と目されていた彼は、当然のごとくその厳重な監視下におかれることとなったのである。


常識的に考えれば、彼の社会主義者としての政治的活動は、この時点で大きく制限され、事実上の終焉を迎えるはずであった。


釈放後の荒澤は表向き過激な社会変革の主張を突如として控えるようになった。

そして純粋な天皇信仰の涵養や農村の道徳向上を目的とする精神修養団体『養民会』を設立し、全国的な啓蒙活動へとシフトしていったのである。


しかしこれが彼の周到に計算された隠れ蓑であったことは、後の歴史が証明している。

彼は養民会という合法的な外殻を利用し、その裏教義として自身の真のイデオロギーである尊皇社会主義を構成員に浸透させ、組織の幹部たちと密かに蜂起計画を共有し、着々と爪を研いでいたのである。


この時期の荒澤の暗躍を可能にしたのは、彼の持つ特異なカリスマ性と、国家の治安維持機構が抱えていた構造的な欠陥への極めて冷徹に突くことにあった。

当時、国内の治安維持を担う特高警察(内務省管轄)と、軍の秩序を維持する憲兵隊(陸軍管轄)の間には、熾烈な縄張り争いと相互不信が存在していた。


荒澤はこの両者の間隙を縫うという神業のごとき綱渡りを演じた。


彼は特高警察が直接的な介入をしにくい、帝国在郷軍人会の会合——すなわち簡閲点呼や青年団への軍事教練といった公的な軍事行事——に公然と参加した。

そこで彼は農村出身の青年将校や在郷軍人会の下部構成員(かつての日露戦役の部下たちも含まれる)と、極めて自然な形で接触を繰り返したのである。


ここで特筆すべきは軍隊という階級社会において絶対的であるはずの下士官と士官(将校)という身分格差を、彼がいとも容易く飛び越えてみせたことである。

荒澤は日露戦争の最激戦地・二〇三高地で偉大な戦功をあげ、特例中の特例として功五級金鵄勲章を授与された戦争英雄である。


この血と泥に塗れた本物の勲章は、軍学校の机上でしか戦争を知らないうら若き青年将校たちから、強烈な畏敬と心酔を獲得するに十分な印籠であった。

青年将校たちはいつしか戦術研究や精神訓話という名目で仲間を誘い合わせ、教えを乞うという体で荒澤の元へ通い詰めるようになったのである。


この状況は特高警察にとって非常に歯がゆいものであった。

彼らは今となっては民間人である荒澤を監視できても、現役の帝国軍人である青年将校たちに直接手出しをすることが法的に不可能であったからだ。

この現役軍人には手が出せないという特高警察の構造的弱点を、荒澤は完璧に突き利用したのである。


特高警察にできることといえば、青年将校たちの出入りを忌々しく思いながら憲兵隊に通報することのみであった。

しかし憲兵隊は特高警察からの通報を受けると、内務省への強烈な対抗意識と縄張り意識から

「尊皇思想を掲げる立派な退役軍人を、特高の犬どもから守ってやる」

とばかりに皮肉にも軍上層部の意向に反して、荒澤を庇う行動に出てしまったのである。

荒澤玄蔵はこの青年将校たちとの濃密な関わりの中で、国家最強の暴力装置である軍内部に自身の強固なシンパを着実に培養していった。


並行して彼は市井の最底辺をも組織化していった。

出稼ぎ労働者や行商人のネットワークを巧みに利用し、自身の隠された思想を全国の小作人や労働者の草の根にまで浸透させていったのである。


もちろんこの大掛かりな暗躍を、為政者たちが完全に看過していたわけではない。


しかしここでも権力闘争という政治的脆弱性が荒澤を利することとなる。

当時、政界に君臨していた元老・山縣有朋ら『長州閥』の力を、大隈重信を中心とする非長州閥の政治家たち、あるいは海軍の一部勢力などが削ごうと画策していた。

彼らは荒澤を山縣の足を引っ張るのに使える便利な不満分子と見なし、彼に密かな庇護と資金援助を与えていたのだ。


荒澤を庇護した非長州閥の政治家たちは、彼を煽てて寺内内閣を揺さぶる程度の小規模な農民一揆を起こさせる腹積もりであったのだろう。

だが彼らは荒澤玄蔵という男の底知れぬ組織力と、彼が目論むマクロな国家改造の展望を過小評価していた。

彼と彼の育てた組織は権力者たちの甘い想像を遥かに凌駕する怪物へと成長していたのである。


今に残る史料の中に、元老・山縣有朋が当時の内閣総理大臣・寺内正毅に宛てた極秘の手紙が存在する。

その文面からは、荒澤の暗躍とその不気味な気配を感じ取りつつも、決定的な対応に苦慮する政府中枢の焦燥を如実に伺い知ることができる。


『例の特務曹長、毒蛇の如し。地に潜り海を泳ぎ、大手町の隘路を自在に這い回り、果ては大風呂敷に覆われ、決して尻尾を見せじ』


歴史研究の観点からこの暗号めいた文面を解読させてもらおう。

「地」とは軍隊を下支えする農村の農民たちを、「海」は海軍の非主流派勢力を示していると考えられる。

また「大手町」は、憲兵司令部と内務省庁舎が位置する彼らの権力の中枢であり、彼がその対立の間隙を自在に立ち回っていることを示唆している。


興味深いのは「大風呂敷」という表現である。

これは広く後藤新平の異名として知られる言葉である。

しかし、この手紙の文脈においては、荒澤を資金援助していたとみられる山縣の政敵・大隈重信ら非長州の野心家たちを揶揄したものと解釈すべきだろう。

大隈重信もその大言壮語から『早稲田の大風呂敷』と仇名されていたのである。


山縣はこの一介の退役下士官が、国家のあらゆる階層に深く潜り潜む毒蛇であることを、誰よりも正確に見抜いていたのである。


そして一九一八年(大正七年)七月。

年始から続く異常な米価の高騰により、都市下層民の生活が限界に達し、北陸地方において主婦らによる米積み出し停止要求行動が勃発した。


これを千載一遇の期であると捉えた荒澤玄蔵の恐るべき国家改造計画が、ついに本格始動する。


事態は単なる自然発生的な暴動とは全く異なる異様な展開を見せた。

全国の主要都市近郊や東北・北陸を中心とした底辺労働者たち、そして小作人たちがまるで目に見えない長大な指揮棒に操られるかのように、一斉に組織的な行動を起こしたのである。


彼らは天皇の御真影を恭しく掲げ、「天皇陛下万歳」を叫びながら、大地主の邸宅や特権階級の倉庫を次々と包囲していった。

その目的は小作料不払いの訴えと、悪徳商人・地主による売り惜しみに起因する米価高騰への抗議であった。


彼らの行動において何よりも為政者を戦慄させたのは、この全国規模の蜂起が『暴動』ではなく、徹底した非暴力の下で行われていたことであった。


荒澤玄蔵の蜂起計画は、暴力を厳しく禁じていた。

なぜならば抗議運動が一度でも打ちこわしなどの暴動に転化すれば、軍隊や警察による武力鎮圧に大義名分を与えてしまうことを、戦争のプロフェッショナルである彼は熟知していたからだ。


彼の狙いはただ一つ。

非暴力の民衆という衣で武力鎮圧を躊躇わせつつ、全国の大衆一斉蜂起を維持することで、国家機能を麻痺させる。

そして政府や特権階級の心胆を寒からしめ、彼らの心中にロシア革命の再来という恐怖を熟成させることにあった。


この数百万規模の非暴力を徹底させるため、荒澤は自身がかつて属した軍隊の組織構造を大衆運動の中に流用した。


第一に兵站ロジスティクスである。

抗議の座り込みに参加した大衆が飢えて暴走せぬよう、全国の養民会支部を補給拠点として機能させ、炊き出しなどの飲食を組織的に確保した。


第二に憲兵システムの導入である。

群衆の中には必ず暴発する者や、暴動を誘発しようとする官警の工作員が紛れ込んでいる。

荒澤は運動の内部に自発的な自警団を組織させ、暴徒と化した民衆を即座に制圧し、法を乱す者として警察に差し出させたのである。


軍隊の兵站と憲兵のシステムを民間デモに組み込むという、この前代未聞の高度な社会統制により、大衆は決して暴徒化することなく、ただ天皇への祈りと座り込みという圧力をもって体制側を包囲し続けた。


このあまりにも組織立って統制された大規模蜂起を前にパニックに陥った政府は、ついに全国での陸軍師団出動を決定する。

非常時の発砲許可(実弾使用の命令)まで下した上での、武力鎮圧を命じたのである。


だが軍隊という国家最大の暴力装置も、ここで機能不全を起こす。

治安維持のために出動した師団には、荒澤が長年かけて庇護し思想を植え付けてきた荒澤シンパの青年将校たちが多数存在していたのである。

彼らは師団の内部で

「天皇尊崇を唱え、非暴力で慈悲を乞う飢えた親兄弟を武力で鎮圧することが、果たして帝国軍人のあるべき姿なのか」

「もし銃を向ければ、それこそがロシア革命を我が国に呼び込む引き金となるのではないか」

という懸念を強力に発信・醸成していった。


さらに決定打となったのは、出動した師団の指揮官クラスの動向であった。

出動師団の中には、水呑み百姓から軍のトップエリートへと上り詰めた師団長(後の宇垣一成に極めて近い出自と経歴を持つ将官)なども存在したことが、現在の研究で明らかになっている。


彼らは荒澤シンパの青年将校たちと同様に、貧困に喘ぐ農民に対して同情を抱いていた。

師団内の突き上げと、眼前で御真影を掲げて非暴力を貫く群衆の姿を鑑みた彼ら前線指揮官は、ある重大な現場判断を下す。


「ここで発砲すれば、ロシアの『血の日曜日事件』の再来となり、軍と皇室への国民の信頼は永遠に失墜し、国体そのものが崩壊する」


彼らは中央からの発砲命令を事実上骨抜きにし、

「発砲せずに群衆を包囲のみとすることで鎮静化を待つ」

という名目の下、パニックに陥った上層部に対して面従腹背に等しい政治的決断を下したのである。


軍隊が民衆への銃口を下ろしたこの瞬間、大日本帝国の治安維持機能は完全に麻痺し、事実上の無政府状態が訪れた。


前年のロシア革命の凄惨な記憶——ロマノフ王朝の崩壊——が脳裏にフラッシュバックし、極限の危機感と死の恐怖に怯える政府指導部と元老たちの前に、ついにその男は姿を現した。

洗い晒しの着物に金鵄勲章を輝かせた隻眼の怪人、荒澤玄蔵である。


彼はうろたえる国家の最高権力者たちに対し、暴動の収束と引き換えに即刻の農地改革の実行による小作農の救済という、超法規的な要求を突きつけた。


この絶望的な状況に至り、政府首脳部とその最大のスポンサーである財閥の重鎮たちは、ついに寄生地主階級の切り捨てを決断する。

財閥側には、革命による資本主義体制の崩壊を回避するという消極的理由だけでなく、農村の貧困を解消して農民を労働力として都市へ供給させることや、彼らに購買力を持たせて巨大な国内消費市場を創出するという、極めて実利的な思惑があったと見られている。


革命回避の合意形成がなされるや否や、まさに緊急と呼ぶにふさわしい異常な速度で手続きが進められた。

閣議決定から枢密院からの上奏が瞬く間に行われ、天皇陛下の裁可のもと、議会を完全にバイパスする形で『農地改革の緊急勅令』が公布されたのである。


しかし、大日本帝国憲法第八条の規定によれば、緊急勅令は次期の帝国議会に提出し、その承諾を得ることが法的に要請されている。

当時の衆議院は立憲政友会が過半数を占めており、その最大の支持基盤は他ならぬ地主階級であった。

さらに貴族院においても、高額納税者議員として多数の大地主が議席を占めていた。

つまり議会が自らの既得権益を守るためにこの勅令に反対票を投じれば、勅令を不承認として無効とすることが、法制上は十分に可能だったのである。


だが荒澤の敷いた盤面は、議会すらも完全に詰ませていた。

政党の最大の資金提供者である財閥が革命回避のために寄生地主の切り捨てに賛同し、あまつさえ政府・枢密院と結託しているという状況が、議員たちを政治的・資金的に追い込んでいた。


そして何より決定打となったのは、緊急勅令の発令に間を置かずして、国内最大の地主とも言える「皇室」が、自らの皇室財産たる御料地の明け渡しを宣言したことである。

国家の絶対的権威である天皇自らが、窮乏する農民への御仁恵として財産を手放すことを選択した時点で、臣民に過ぎない地主階級が私有財産権の保護を主張して抵抗する余地など、政治的にも道義的にも完全に消滅してしまったのである。


かくして、速やかに召集された帝国議会の臨時会において、緊急勅令およびそれに関連する財政処分の承諾に関する審議は、恐るべき静寂の中で承認された。


政府は寄生地主から国内の全耕作地の実に六割弱に及ぶ膨大な小作地を、巨額の農地証券(国債)の交付をもって強制的に買い上げた。

そして、その土地を数百万に達する小作農たちに対し、低利かつ長期の年賦で売り渡すことが国策として正式に決定したのである。


ここに、荒澤玄蔵が企図した大正維新は、革命の血を流すことなく農地改革の実現という、世界史上類を見ない奇跡的な成果を勝ち取ったのである。


では次に一介の退役下士官が憲法と立法府を蹂躙してまで強行したこの農地改革が、その後の日本経済にどれほどの計り知れない影響をもたらしたのか、そのマクロ経済的構造転換の全貌を検証することとしよう。

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