第1章:怪人の誕生
国家首脳部に恐怖という刃を突きつけ、神聖不可侵なる大権を恣意的に乗っ取り、アジアの地政学すらも塗り替えた怪人。
その名を荒澤玄蔵。
彼がいかなる高度な教育を受け、どのような知識層に属していたのかと問われれば、我々歴史家は沈黙せざるを得ない。
なぜなら後に日本中の知識人や政府を翻弄し、列強の首脳たちすら瞠目することになる怪人の出発点は、東北の寒村、極貧の小作農の次男坊としてであったからだ。
若き日の彼の足跡を示す公的な記録は極めて乏しい。
だが陸軍省の文書庫の片隅に眠っていた陸軍教導団の卒業生徒人名表に、確かにその名を見出すことができる。
口減らしのために下士官養成機関である教導団へ放り込まれた荒澤玄蔵。
卒業席次から判断するに、彼は日清戦争勃発の三年前、同団を極めて優秀な成績で卒業して伍長に任官している。
当時の軍の制度上、教導団を首席クラスで卒業した極めて優秀なる者には、陸軍士官学校へ進学し、将校への道を歩む扉が開かれていたはずである。
だが彼が士官学校の門を叩いた形跡は一切ない。
日清戦争に従軍して軍曹へ昇進し、そのまま下士官としての軍歴を重ねている。
この不可解な経歴の停滞は、彼の生家を覆っていた極度の困窮が原因と推察される。
士官学校の高額な装備代や交際費の捻出を許さず、将校への道が閉ざされたのだ。
才能がありながらも、貧困ゆえに地を這うしかなかった挫折とルサンチマンが、のちに彼が国家の構造的欠陥に向ける敵意の原点となったことは想像に難くない。
彼の名が戦史上において異常な光を放つのは一九〇四年(明治三十七年)。
日露戦争の最激戦地である旅順・二〇三高地においてである。
ロシア軍の機関銃掃射により、中隊の将校が悉く戦死するという凄惨な絶望の中、特務曹長であった荒澤はパニックに陥る農民兵たちを強引に掌握した。
そして自らも左目を失う重傷を負いながらも、味方の屍をさえ肉壁にして進む常軌を逸した突撃を指揮し、奇跡的に敵堡塁を奪取したのである。
下士官によるこの越権行為とも言える独断専行は、しかし圧倒的な武勲として高く評価された。
そして、本来将校に与えられるはずの功五級金鵄勲章が特例として授与されることとなった。
だがこの栄誉と引き換えに負傷退役を余儀なくされた彼が、生家に足を運んだ記録や証言は退役直後以外に一切残っていない。
そればかりか記録に残る彼の活動時期に生まれ故郷を訪れた形跡すらほとんど皆無である。
史料が物語っているのは、彼が戦地に赴いていた一九〇二年に東北地方を襲った冷害によって、彼の故郷の村が壊滅的な被害を被ったこと。
そして続く一九〇五年の大凶作がトドメとなり崩壊したという事実のみである。
彼が再び歴史の表舞台である帝都に姿を現すのは、明くる一九〇六年頃のことだ。
退役軍人である荒澤は、突如として急進的な社会主義活動に身を投じる。
この頃から彼は、常に洗い晒しの粗末な黒い着物をまとい、失った左目には野ざらし柄の不吉な眼帯。
そして胸元にそればかりが色鮮やかな功五級金鵄勲章をピン留めという、世にも異様な怪人としての風貌を完成させていた。
彼が街頭で熱弁を振るった『尊皇社会主義』は、大きく以下3つで言い表せる極めて単純かつ権威主義的な思想であった。
① 一君万民の下での君民共治
天皇陛下は、すべての国民を等しく我が子のように愛しておられる。本来のこの国の姿は、主上の下にすべての国民が平等である絶対的な家族国家である。
② 諸悪の根源は君側の奸
なぜ農民や労働者は日々困窮しているのか。
それは陛下の意思ではなく、主上と国民の間に割り込み、富を独占して私腹を肥やしている寄生虫のごとき地主たちがいるからだ。
彼らこそが天皇の目を塞ぐ国賊である。
③ 忠義としての富の再分配
地主から土地を奪い返し、農民に分け与えることは反逆ではなく陛下の大御心を日本に取り戻すための真の忠義である。
堺利彦や山川均といった正統派マルクス主義者を始めとする社会主義運動家は、この荒澤の唱える思想を論理が破綻した稚拙な田舎芝居、軍国主義者の戯言として猛烈に蔑視し、論壇において徹底的な口撃を加えた。
だが、知識人たちが嘲笑すればするほど、荒澤の放つ分かりやすく日本的情緒に合った論旨は、貧しい都市労働者や小作農たちの心を掴み、熱狂的な支持を集めていった。
彼ら貧民にとって、社会主義者たちが西洋から持ち込んだ難解なマルクス主義や無政府主義こそが、己の倫理観からかけ離れた受け入れがたいものでしかなかったのだ。
この大衆の熱狂が、後に国家中枢を震え上がらせる巨大な爆弾となる。
一九一〇年(明治四十三年)、明治大帝暗殺を計画した明科事件が発生。
これをきっかけとして、桂太郎内閣による社会主義者の一網打尽作戦、すなわち大逆事件(幸徳事件)が勃発する。
幸徳秋水をはじめとする多くの著名な社会主義者が投獄され、死刑台へと送られる中、荒澤玄蔵もまた官憲の手によって連行された。
しかし急進派としてすでに絶大な知名度を誇っていたにもかかわらず、荒澤は不可解なことに不起訴釈放という形で野に放たれている。
筆者が発掘した当時の警視庁高等警察の捜査記録の断片には、その釈放理由として証拠不十分ならびに戦傷による心神喪失・精神異常と記されていた。
だが、後述する彼が成し遂げた大正維新の緻密な計画を鑑みれば、彼が精神異常であったなどという記録は、彼のカリスマ性を貶めるために官憲が捏造した虚偽であることは明白である。
尊皇を掲げているとはいえ、地主と小作人を分断し、軍の大部分を占める農民出身の兵士たちを扇動する荒澤の思想は、良兵良民を是とする国家体制にとって最大の癌細胞である。
政府が彼を危険視していなかったはずがない。
このちぐはぐな釈放劇の裏には、恐るべき政治的暗闘が隠されていたのではないだろうか。
その決定的な証拠となるのが、当時の内閣総理大臣・桂太郎と、内務大臣・平田東助、そして陸軍省軍務局長であった田中義一の間で密かに交わされた覚書の一部である。
そこには驚くべき一文が残されている。
『某下士官ヲ討テハ、彼ノ者ハ軍ニトツテノ大塩平八郎トナリカネヌ。狂人トシテ扱ヒ監視ニトトムルヘシ』
この「某下士官」が荒澤を指していることは疑いようもない。
政府首脳部は貧民から熱狂的な支持を集める天皇崇拝の戦争英雄を処刑すれば、彼が悲劇の英雄もしくは殉教者と化し、全国で暴動の火種が撒かれることを極度に恐れたのである。
とりわけ田中義一が危惧したのは、まもなく彼の主導で組織化されようとしていた帝国在郷軍人会への悪影響であろう。
想像を逞しくすることが許されるならば、獄中の荒澤はこの政府の恐怖を完全に読み切っていたのではなかろうか。
中央が全国に散在する地域の予備役たちの親睦団体を一つに統合しようと動いていることを、英雄である彼がこれら団体との関わりから事前に察知するのは容易である。
さらに先立つ一九〇八年の戊申詔書発布から、国家が国民の思想的弛緩の引き締めを焦っているというマクロな政治動向を正確に見抜いていたのではないか。
取調室において
「俺を殺せば、全国百万の退役軍人が黙っていないぞ」
と自身の処刑が組織統合の致命的な火種となることを仄めかし、堂々と官憲を脅迫した可能性すらある。
荒澤の釈放後、官警は彼の威信を失墜させるべく
「荒澤某は社会主義者からも相手にされぬ、単なる不満分子の気狂いである」
と喧伝した。
だが、この稚拙なプロパガンダは全くの逆効果となった。
日本の社会主義に冬の時代をもたらした大逆事件の凄惨な弾圧を、彼が懲役すら課されず無傷で生き延びたという事実。
それこそが大衆の目には
「荒澤玄蔵の尊皇の念こそは本物であり、政府そして天皇陛下に認められたのだ」
という強烈なメッセージとして映ったからである。
政府の思惑を逆手に取り、死地すらも自らの権威づけに利用した冷徹な算盤。
この一事をもって官警さえ殺せない、主上から忠誠のお墨付きを得た社会主義者という、我が国の歴史上で類を見ない異形の怪人が、明確な輪郭を持って誕生したのである。




