3-4:本に読まれる男
三嶋はこれ以上あの部屋にいることに耐えられず、逃げるように事務室を飛び出し、大学の中庭にあるベンチに腰掛けた。
5月の爽やかな初夏の風が吹いているはずなのに、三嶋の肌に触れる空気は、どこまでも冷たく、湿っていた。
動悸が鐘のようにうるさく鳴り響く。
三嶋は、自分のポケットからスマートフォンを取り出し、震える画面を見つめた。
SNSを開くと、数日前に加瀬が投稿したあの黒い本の画像は、未だに底なしの炎上と拡散を続けていた。
まとめサイトやネットニュース、果ては海外のオカルトフォーラムにも転載された。
今や呪いの未解読書として、世界中の何百万、何千万もの人間が、その文字列を画面越しに見つめ、互いに罵り合い、憎悪の言葉を撒き散らしている。
コメント欄の熱量は、まるで沸騰する泥のようだった。
「みんな……繋がっているんだ」
三嶋は、ぽつりと呟いた。
白井も、加瀬も、ネットの向こうの無数の人間たちも。あの本を見た者は誰もが、目に見えない精神のネットワークで結ばれ、同じ狂気の泥を共有し始めている。
そして、それが決して他人事ではないという最悪の事実が、三嶋の脳裏を過った。
(俺も……昨夜、あの夢を見た。あの文字の階段を、確かに視たんだ……)
自分は何も読めない側として弾き出されていると思っていた。しかし、あの本は、三嶋のことを決して解放してはいなかったのだ。
むしろ、彼が眠っている無防備な時間を狙って、その精神の最深部に直接、黒いインクを流し込んでいた。
三嶋は、得体の知れない強烈な違和感に襲われながら、自らの頭を強く抱え込んだ。
最近、何をしていても、過去の記憶のピースが、じわじわと書き換えられているような奇妙な感覚があったのだ。
自分が大学の事務員になった本当の理由、白井と出会った正確な日付、子供の頃の楽しかった思い出。
それらの日常の確かな輪郭が、あの不気味な記号の形に歪められ、掠れて、モノクロに変わっていくような恐怖。
自分の脳という本棚から、大切な記録を勝手に引き抜かれ、怪異の言葉で上書きされている。その事実に気づいた瞬間、すべてが腑に落ちた。
「違う。俺が本を読んでいるんじゃない……」
三嶋の口から、絶望的な、しかし絶対的な確信を伴った直感が漏れ出た。
「――あの本が、俺を読んでいるんだ」
あの黒い本を開き、文字を目に焼き付けるという行為は、人間が情報を摂取するような生易しいものではなかった。
本という形を模した未知の怪異が、人間の脳を無理やり開き、その中身(記憶、人格、自我)をスキャンし、自らの頁の中に吸い込んでいくための捕食の儀式だったのだ。
白井も加瀬も、すでに中身をすべて読み取られ、本の代弁者として再構成されてしまった。
そして今、本は、まだ完全に染まりきっていない三嶋という最後の不純物を、じっくりと、確実に読み解こうとしている。
逃げ場など、最初からどこにもなかったのだ。
三嶋の背中に、じっとりと冷たい、執拗な視線が絡みつく感覚が、日差しの中でも消えなかった。




