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第3章:侵食 ― 同期する悪夢  作者: 都桜ゆう


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3-5:剥がれ落ちる日常

 数日後、三嶋は少しでもあの本や白井たちから物理的な距離を置くため、大学の中央図書館の一般閲覧室で、業務に必要な過去の学内資料の調べ物を行っていた。


 ここには、あの黒い本はない。白井も加瀬もない。静寂と、一般的な書籍のインクと紙の匂いだけが漂う、安全な日常の空間のはずだった。


 三嶋は、使い終えた分厚い資料を本棚の元の位置へと戻しながら、必死に現実の感覚を取り戻そうとしていた。


 いつまでも、このインクの匂いに鼻腔を満たしていたかった。だが、これ以上ここに引きこもっているわけにもいかない。


 三嶋は逃避を切り上げるように小さく息を吐き、閲覧室の使用していた席へと戻った。


 私物と一緒に置いてあった職員連絡用の小さなメモ用紙の束を、何気なく引き寄せる。


 学内会議の予定や、他部署からの伝言、備品の申請リストなどが手書きされた、ありふれた裏紙のメモだ。


 その一番上の、真っ白なはずのメモ用紙を目にした瞬間。


「あ、――ひ、あ、」


 三嶋の喉から、空気の抜けるような悲鳴が漏れた。全身の毛穴が、一斉に開き、血の気が一気に足元へ流れ落ちて視界が暗くなる。


 その小さな四角いメモ用紙の真ん中に、鉛筆の鋭い筆圧で、紙が破れんばかりの強さでそれが書き殴られていたのだ。


ʃ̇ɰ̄

 ʔ̦ɬ̥ʃ̇

  ɤ̽ʑ̥ɰ̄

 

 昨夜、夢の中で確かに見た、そして脳内で完璧に理解させられた、あの階段状の文字列だった。


「誰だ……? 誰がこんなものをここに書いたんだ!?」


 三嶋は血走った目で周囲を見回した。

 閲覧室には、定期試験の勉強をする数人の中高生や、静かに新聞を読む大人の姿があるだけだ。誰も三嶋のことなど見ていない。


 このメモ用紙の束は、事務員数人しか触らないはずのものだ。

 白井も加瀬も、この部屋には一歩も立ち入っていない。


 三嶋は震える手でメモ用紙を剥ぎ取り、蛍光灯の光にかざした。


 筆圧は恐ろしいほどに強く、紙の裏側まで深く凹んで白く毛羽立っている。


 文字の端々は、刃物で抉ったように鋭利に尖っており、夢の中で見たあの不気味な立体感を伴って、三嶋の肉眼の視界をぐにゃぐにゃと歪ませてくる。


 見つめていると、猛烈な、胃液が逆流するような吐き気が込み上げてくる。


 スマートフォンをポケットから取り出し、カメラを向けてみる。


 画面越しに見ると、それはただの鉛筆の落書きにしか写らない。だが、肉眼に戻すと、文字は確かに生き物のようにうごめき、三嶋の正気を嘲笑っている。


「誰が……まさか、俺が……?」


 恐るべき、そして最も拒絶したい仮説が、三嶋の脳裏を過った。


 この閲覧室で、自分以外にこのメモ用紙の束に触れられる人間はいない。資料を棚に戻しに席を外した、あのわずか数分の間、他者が侵入した形跡は一切ない。


 戻ってきたとき、確かにそこには文字が浮かんでいた。誰の気配もなかったはずのデスクに。……だとすれば、この異常な筆跡の主は。


 まさか自分自身が、ここを離れる直前に、この階段状の文字列を書き殴ったのか。


 いや、そんなはずはない。直前まで、この紙は紛れもなく真っ白だったはずだ。

 だというのに、目の前にあるのは、紛れもなく俺自身の筆圧で刻まれた文字だ。


 記憶がねじ曲げられているのか、あるいは自分が書いたという事実に強制的に差し替えられているのか。


 夢の中の怪異が、ついに三嶋の肉体の制御権すらも奪い、三嶋が自覚のないまま自分自身の手を使って、現実に染み出し始めているのではないか。


 三嶋は、そのメモ用紙を狂ったようにクシャクシャに丸め、ゴミ箱の奥深くに投げ捨てた。何度も拳で押し込む。


 しかし、一度現実の光の下に現れた恐怖は、二度と消し去ることはできなかった。


 ふと閲覧室の壁に掛けられた古い時計を見上げると、秒針の刻む音が、いつもより異常に大きく、耳元で叩かれているように響いていた。


カチ、カチ、カチ、カチ――。


 その音に合わせて、三嶋の心臓が激しく、不規則に脈打つ。


 そして、ふと視線を落とした先。


 一般の利用者が読み捨てていった新聞の紙面、その隅にあるありふれた求人広告の活字が、一瞬だけ、あの階段状の文字列に変化したように見えた。


「うわあぁあ!!」


 三嶋は短い悲鳴を上げ、図書館の静寂を暴力的に破って、外へと走り出した。


 背後から、静かに本を読んでいた中高生や大人たちの、不審と嫌悪の入り混じった視線が突き刺さる。


 しかし、それ以上に三嶋を怯えさせたのは、自分が走る通路のコンクリートの床、白い壁、木製の本棚の隙間――ありとあらゆる日常のディテールに、あの階段状の文字の残像が、今や無数に浮かび上がり、自分を本の内側へと案内しようと、静かに、優しく待ち構えている現実そのものだった。


 世界はもう、元には戻らない。


 三嶋の耳の奥で、白井と加瀬の同期した不気味な笑い声が、幻聴のように、しかし圧倒的な現実感を持って、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。


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