35回目 その1
温室の中は、春そのものだった。
陽の光がビニール越しに差し込んで、空気がほんのり赤く染まる。
鼻をくすぐる甘い香りに、思わず深呼吸をしてしまう。
「ねぇ、れー君、見て見て!」
杏奈がしゃがみ込んで、指先で摘み取ったイチゴを掲げた。
ハート型の実。表面が艶やかで、まるで飴細工みたいに輝いている。
「これ、絶対あたし達向けだよね♡」
「……確かに、運命感じる形してんな」
「でしょ? じゃ、これは“れー君専用いちご”ってことで~♪」
そう言って、イチゴを俺の口に押しつけてきた。
「んぐっ!? おい、いきなり!?」
「ほら、食べてみて! 愛の味~♡」
「味の圧がすごい……っ!」
頬を膨らませて笑う杏奈の顔は、イチゴよりも赤くて楽しそうだった。
「ふわりも、見て見て~♡ こっちのはね~、ふわりの手よりおっきい~♡」
「おいおい、それはもう別の果物じゃね?」
「えへへ~。ふわりサイズのイチゴってことで♡」
彼女がそっと持ち上げた実は、まるでりんごのようなボリュームだった。
太陽の光を浴びて透けるような果肉が、指先に赤い影を作る。
「れーじくん、食べてみて~♡ あ~ん♡」
「……また!?」
「ホワイトデーなんだから、いっぱい食べて~♡」
「……ああ、もう分かったよ。いただきます」
口に含んだ瞬間、ふわりが両手を頬に当ててとろけるように笑う。
「どう? ふわり味でしょ~♡」
「いや、普通にいちご味だよ」
「も~、つれないなぁ~。でも……そう言うれーじくんも、甘い味~♡」
「ふわり、それ多分糖分のせいだぞ」
「ううん。恋分だよ~♡」
「こいつ……朝から全開だな……」
俺が呆れてため息をつくと、杏奈がすかさずツッコミを入れる。
「も~、ふわりちゃんのそういうとこずるい~! れー君に恋分とか言いたかったのに~!」
「んふふ~♡ 言ったもん勝ち~♡」
「ぐぬぬ……」
温室の中、笑い声が赤い空気の中を転がっていく。
「れ、レージ君! ここ、ここですっ!」
鈴音が呼ぶ声に振り向く。
彼女は一列向こうの畝で、両手に真っ赤なイチゴを山ほど抱えていた。
「糖度が高いのはこの辺りの株みたいですっ! この計測器、持ってきてよかった……!」
「お前……まさか糖度計まで持ってきてんのか!?」
「だって、いちご狩りって“狩り”ですよ? 調査と分析は基本です!」
「理屈っぽいのにノリノリなんだよな……」
鈴音は真剣な顔で数値を確認し、にっこりと笑った。
「13.4度ですっ! 完熟の極みっ!」
「……お前、それ理科の実験テンションだろ」
「おいしい理屈を知ると、もっとおいしく感じるんですよっ!」
その瞬間、鈴音の頬に果汁が垂れた。
「あっ……!」
俺が反射的に指で拭ってやると、彼女は一瞬で顔を真っ赤にする。
「れ、れれれれレージ君っ!? そ、そういうのは……っ!」
「ごめん、反射的に……」
「ふわり見ちゃった~♡」
「杏奈も~♡」
「ふ、ふたりとも見ないでくださいっ!」
両手で顔を覆って縮こまる鈴音。
その仕草が可愛すぎて、つい笑ってしまう。
鈴音は拗ねたように唇を尖らせたが、すぐに小さく笑い返した。
「……ま、まぁ、ホワイトデーだから……特別、ってことで」
「ん? なんか言ったか?」
「な、なんでもないですっ!」
太陽が真上に来た頃。
三人が並んで座るベンチの前には、食べきれないほどのイチゴの山ができていた。
「やっぱり自然の甘さが一番だな」
「ね~! チョコより軽くて罪悪感ゼロ♡」
「ふわり、まだ食べられる~♡」
「もう十分食べたろ……」
「れーじくんの分も~♡ はい、あ~ん♡」
「まだ続くのか……!?」
俺が苦笑しながら口を開けると、杏奈と鈴音も真似してイチゴを構える。
「じゃ、れー君に“ホワイトデー三重あ~ん”プレゼント!」
「いっせーのーでっ!」
「おい待て! 同時は無理だって――んぐっ!?」
三方向から押し寄せる甘い果汁。
まさに、いちご地獄だった。
「……おいしい?♡」
「……味の洪水だ……」
三人が楽しそうに笑う。その笑顔を見て、俺もつい笑ってしまう。
ビニールハウスの外は、風が少し冷たかった。
けれど、不思議と寒さは感じない。
手に残るのは、イチゴの香りと、三人の笑い声。
それが胸の奥をほんのり温めていた。
――こういう時間が、一番贅沢かもしれない。
プレゼントより、言葉より、ただ一緒に笑い合う時間。
それこそが“お返し”になるんだろう。
「れー君っ!」
杏奈の声で我に返る。
「次は、王様ゲームでデザートタイムね♪」
「またやるのか!?」
「当然! ホワイトデーだから特別編だよ!」
ふわりが両手を胸の前で組む。
「ふわり、甘いゲームだ~♡ れーじくんのハート、とろけさせちゃう~♡」
鈴音もおずおずと手を挙げた。
「ルール、また正室くじですよね? ……き、緊張しますけど、楽しみですっ」
俺は三人の顔を順に見た。
赤く染まった頬、イチゴの香りをまとった髪、そして期待で輝く瞳。
どれも、春の日差しより眩しかった。
「ああ。じゃ、始めるか――」
風がハウスの外から入り込み、ビニールがぱたんと鳴る。
春の陽光の下で、再び始まる“絶対俺だけ王様ゲーム”。
笑顔と甘い香り、鼓動と小さな予感が混ざる午後。
――まだ誰も知らない“命令”が、静かに始まろうとしていた。




