34回目 その3
夕食後、フロントに寄ったときだった。若女将がにっこり微笑んで、帳面を閉じる。
「実は今夜、お泊まりなのは皆さまだけなんですよ♡ 露天も内湯も、遅いお時間は貸切にしておきますね。雪見風呂、ゆっくりどうぞ」
「えっ、貸切?」
思わず聞き返すと、横で杏奈がぱっと顔を上げる。
「ってことは……その……れー君と混浴できちゃうってこと?」
「こ、混浴って、そんな……!」鈴音が慌てて姿勢を正し、耳まで赤くなる。
「んふふ~♡ いいお湯になりそう~」ふわりが夢心地の声で言った。
若女将は何もかも承知の笑みで、柔らかく会釈した。
「お客様のタイミングでどうぞ。雪が綺麗ですから、湯冷めにだけお気をつけて」
風が細く鳴いた。回廊を抜け、露天へ続く石畳に出る。
足元の灯籠が、雪面を橙に染めている。世界はしん、として、湯けむりの白だけが生き物みたいにゆらいでいた。
「わぁ……」
杏奈の吐息が白くほどける。
「れー君、見て。枝の上に積もった雪、ライトに当たってキラキラしてる」
「ああ。……きれいだな」
「ふわり、手、つないでいい~?」
「転ぶと危ないしな。ほら」
掌を預けると、ふわりの手はほんのり温かく、指先がそっと絡む。
「ありがとうございます……レージ君。鈴音も、転ばないように気をつけますっ」
「おう。段差、気をつけろよ」
脱衣所の戸を開けると、木の香りがふわりと立つ。時計はもう夜更け。誰もいない静けさが、少しだけ胸に響いた。
湯縁へ出る。雪の庭と真っ黒な空。岩のあいだから立ちのぼる湯気が、灯の色を孕んでゆっくり呼吸しているみたいだった。
俺は肩まで浸かって、ひと息つく。湯が肌にまとわりつくたび、外気の冷たさが少しずつほどけていく。
「……れー君」
湯けむりの向こう、杏奈がバスタオルをきゅっと結び直して、恥ずかしそうに笑った。
「そんなに見ないで。とけちゃうでしょ」
「いや、見てない。見てないけど……その、雰囲気が」
「雰囲気?」
「……綺麗だなって」
そう言った途端、杏奈は照れ隠しみたいに小さく舌を出した。
「ずる。そういうの、反則」
ふわりはいつもの調子で、湯のふちに膝を揃えて腰をおろす。肩に落ちた髪から細い滴が落ちて、丸い波紋が広がった。
「れーじくん、ここ、あったかいよ~。座ると雪が近くて、星も見えるの」
「ほんとだ」
見上げると、空は深い群青で、粉砂糖みたいに小さな星が散らばっている。
「レージ君、背、寒くないですか?」
「平気。鈴音こそ、無理すんな」
「だ、大丈夫です……っ。あ、あの……」
鈴音はタオルを胸元で押さえながら、そっと俺の隣に入ってきた。湯面がやわらかく揺れて、湯気がふたりの間をふわっと流れていく。
視線が合った。鈴音は慌てて逸らし、それでもすぐに戻して、ひと呼吸してから言った。
「こうやって、みんなで入るの……変じゃないですか?」
「変じゃないよ」
答えると、鈴音の睫毛が小さく震えて、目尻が和らいだ。
湯は静かだ。雪は音もなく落ちてくる。
近くで、杏奈が髪を耳にかけた。湯に濡れた襟足が灯に透けて、息が詰まる。タオルの端がふと緩みかけて、彼女は「わ、わ」と小さく直して、こちらに眉を寄せる。
「見た?」
「見てない」
「ほんと?」
「……見ない努力はしてる」
言うと、杏奈は肩で笑って、湯面に小さな波を立てた。
「努力、合格。れー君、そういうの真面目だよね。好き」
ふわりが胸の前で手を組んで、湯に頬を寄せる。
「れーじくん、お湯の音って、心臓に似てない?」
「心臓?」
「とく、とく、って。なんか落ち着く」
「……言われてみたら、そうかもな」
耳を澄ますと、湯が岩肌に触れてわずかに鳴る音と、雪の降りる無音が重なって、確かに胸の奥の鼓動と歩幅が合っていく気がした。
「ねぇ、れー君」
杏奈が、湯の縁に肘を乗せながら言う。
「高校、もうすぐ終わるけどさ。こういう夜が好き。なんにも特別なことしてないのに、忘れられない感じ」
「分かる」
「ふわりも~。今日の雪、覚えておきたい」
「鈴音も……です」
三人の声が湯気に混じって、灯に溶けていく。
俺は少しだけ、手を湯から出した。夜気でひやりとした指先に、杏奈が目を丸くして、ためらいがちに自分の手を近づける。
「……触っていい?」
「ああ」
湯気の中、指先がそっと重なる。
隣ではふわりが真似をするみたいに、遠慮がちに人差し指一本、俺の手の甲に触れた。
「れーじくんの手、あったかい~」
反対側で鈴音が躊躇い、そして意を決したように、そっと小指だけ絡めてくる。
「す、少しだけ……失礼します」
「少しだけって距離じゃねぇけどな」
「……それは言わないお約束ですっ」
三人の体温が、湯よりもやさしく伝わってきて、胸の奥が静かに満たされる。
どれくらいそうしていただろう。湯気の向こうの世界がほんの少しぼやけて、時間が止まったみたいに思えた。
「なぁ」
小さく呼ぶと、三人が同時にこちらを見た。
「また来ような、ここ。何年でも、何回でも」
言葉は、湯の上をやさしく滑っていく。
杏奈が目を細め、ふわりがうんうんと何度も頷き、鈴音は堪えきれずに「はい」とすぐ返事をした。
「約束だよ、れー君」
「やくそく~♡」
「や、約束です。絶対に」
「……ああ」
雪は相変わらず静かで、夜は深く、湯は心地よい。
肩まで浸かり直すと、三人が少し近づいてきて、湯面の光が四人の影をひとつに結んだ。
言葉はいらなかった。
ただ、目を閉じて、湯の音と、雪の気配と、触れた指先の温度だけを確かめる。
高校の冬。
世界が白かった夜。
きっと、何度思い出しても同じ温度で胸があたたかくなる。
――また来よう。そう決めて、俺は静かに息を吐いた。
~34回目 終了~




