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第6話 凛子と休日

「なあ、凛子。どうして学生のうちは勉強させられるんだろう」

 座椅子の背もたれに体重を預け、俺は凛子にそう問いかけた。同じ机の向かいに座る彼女は俺の倍以上の速さで手を動かし__まあ、俺の手がほんの僅かしか動いていないということもあるが、ともかく。流麗にペンを走らせていた。

 紺の半袖Tシャツに空色のホットパンツという身軽な服装に身を包んだ凛子は、俺に目をくれることもなく言った。

「国語は言語力と思考力のため。数学は数字に強くなって損をしないため。社会は先人の過ちを繰り返さないため。理科は自然の美しさを本質的に理解するため。英語は己の見識を広めるため」

 双子の妹の言葉ひとつひとつが、ペンを持つ俺の右手へ、まるで敵兵が弓矢で攻めてくるかのように襲ってくる。現実逃避の手段さえそれらしい正論に潰されていたのでは、もはや逃げ場などどこにもない。

 考えてみれば当然のことだが、生まれた場所と育った環境が同じでも、どういう価値観を身に付けていくのかは同じではないらしい。主に勉学面でいっぱいいっぱいな俺と、何事にも余裕を感じさせる凛子を対比すると、いつもそう思わされる。

「……それなら、古典からは何を学べばいい?現代で役に立つのか?」

 すると凛子は顔を上げて、至極真面目な表情で言った。

「何言ってるの、お兄ちゃん。道に迷った平安貴族が尋ねてきた時どうするの」

「……さすがだな。 我が妹、いとかしこし」

「我がお兄ちゃん、かたはらいたし」

 本来の使い方さえ把握していないような古語をぶつけたところで、俺の右手が速さを増すことはなかった。それどころか、気付けば向かいに座る凛子が左に九十度横向きになっていた。右の頬にひんやりとした机の感触が広がる。

 視点を奥に移し、凛子のバラエティ豊かな書架に並んだ漫画本を眺め、長編の少年漫画の巻数が欠けているなあ、なんて現実逃避をした。

「やっぱりかあ」

「何がだ?」

「お兄ちゃんは勉強してると、やっぱりこうなっちゃうなあ」

 嫌味たらしいことを言いながらも、凛子は書くことを止めない。二つのことを並行して行えるスキルは羨ましいばかりである。

「いくらうちの学校が__天望学園が特殊だからって、勉強は将来のためにしとかないとダメだよ」

「将来って言ってもなあ」

「その将来はお兄ちゃんが思ってるような遠い将来じゃないよ」

 シャッ、という小気味の良い音が連続する。見ると凛子は赤ペンに持ち替えており、自己採点を始めたようだ。

「私のこと、先輩って呼びたくないでしょ?」

「……留年は、嫌だな」

 凛子のノートに円が描かれていく。その図はさながらしゃぼん玉のようにも見え、青空の下でそれを飛ばす風景をイメージすると、すでに失ってしまった童心をほんの少しだけ取り戻した気がした。

「まあ、な」

「ん」

 今度は反対の頬を下に置くと、窓が晴天を切り取っていた。家で勉強をしなければならない日にこんなに晴れることもないだろう、と心の中で悪態をつく。

「さてと」

 すると凛子はノートを閉じ、ゆっくりと立ち上がった。九十度回転した俺の視界の上から下へ、凛子が通り過ぎてゆく。

「とは言ってもなあ。モチベーションってものがな」

「やっぱりかあ」

 凛子は俺の丸くなった背中に、両手に収まる程度の硬いものを置き、俺の背にあるテレビの前でごそごそと動く。彼女がカチッとスイッチを入れると、起動音が響いた。

「お兄ちゃんと勉強してると、やっぱりこうなっちゃうのかあ」

 俺は背に手を回し、両手に収まる程度のコントローラーを握る。そして後ろのテレビの方向に向き直った。

「お前は、勉強しなくていいのか?」

「私は区切りがついたから、お兄ちゃんの気分転換に付き合ってあげようと思って」

 凛子は俺の左隣に正座し、同様に両手に収まる程度のコントローラーを握る。二人で同じ方向を見ると、テレビの中ではコミカルなヒゲのキャラクターがタイトルを叫んでいた。

「勘違いしないでよね。私の息抜きのためであって、お兄ちゃんのためなんかじゃないんだからね」

「なるほどな…… これが、妹萌えってやつか」

 真顔で淡々と、作業的にそう言った妹に萌えも何もなかった。まあ俺にとっては、それはそれで胸にくるものがないではない(むしろすごくある)が、揚々と打ち明けるものでもあるまい。

 何だかんだで甘々な妹にもう一つ甘んじて、俺は尋ねた。

「ダーゲンハッツよりも甘いって言われたことないか?」

「言ったことならあるかもね」


 ◯


「ところでお兄ちゃん。 高校生活には慣れた?」

 何度目かのレース中。

 凛子はバナナの皮と同時に、脈絡なくそんな質問を投げてきた。

「親みたいなことを聞くんだな…… まあ、お前が見ている通りだよ」

 バナナの皮を避けながら、俺は無難に受け答える。引っ掛かればよかったのに、という旨の台詞を、レースゲーム中特有の自己の発現により、やや乱暴に吐き捨てる凛子。

「お前こそ慣れたのか?いじめられてないか?」

 トップを独走する凛子に追撃を仕掛けるも、後ろを走るCPUの妨害によってそれは阻まれる。転倒している隙に、一台、二台と俺のヒゲのキャラを追い抜いていった。

「それこそ、まさに不器用に子供を心配する親のセリフだよ…… 大丈夫だって、お兄ちゃんが見てる通りだよ」

 三台、四台と抜かれながら、俺は「そうか」と短く相槌を打った。

「晴沢にたかられてないか?」

「それはお兄ちゃん自身のことじゃないの?」

 五台、六台と抜かれつつ、俺はゴールテープを切る。ヒゲのキャラクターは落胆の表情でそのままサーキットを走り続けたが、俺は至って平常心だ。

「抜け目のない双子の妹になら、晴沢の倍、たかられていたかもしれないけどな」

「えー、ひっどーい。誰がそんなことするのー?」

「わざとらしさが全開かよ。そのままエンストしちまえ」

「お兄ちゃんの妹は抜け目しかない、純情可憐な私一人だけでしょ?それとも、もしかしてお兄ちゃんにはもう一人妹が見えてるの?小悪魔的美少女な妹を頭の中で作り出して、現実と妄想の境目に迷っているの?サイコホラーなの?」

「抜け目しかない妹っていうのもどうかと思うけどな…… ていうか、勝手に俺を幻覚を作り出してる奴みたいに言うなよ。幻覚を心の拠り所にするほど追いつめられてはない」

 コントローラーを操作して、次のレースを開始する。三秒待って合図が鳴り響くと同時に、レーサーたちは我先にと一斉に走り出した。

「私の隣にいるのは、ゴツくてお勉強が苦手な、ゴリラみたいなお兄ちゃんだけどね」

「お前こそ、幻覚でも見えているんじゃないか?凛子の兄はスリムでハンサムな美少年だろ」

「『少年』の部分しか合ってないよ、それ」

 意気揚々とトップをひた走っていた俺の背後から、無敵状態の凛子が迫って来る。回避を試みるも、凛子は問答無用で俺の車体に激突した。

 現実ならとんでもない事故である。

「本来の姿は、ゴリラと中身が入れ替わっちゃった少年だよね。『俺がゴリラでゴリラが俺で!?』みたいな」

「使い込まれた設定の物語のタイトルみたいに言うなよ」

「実際にお兄ちゃんがゴリラと入れ替わったらどうなんだろう。案外、気付かないかも」

 カッコの中に『笑』という一文字を入れて文末に添えるように、凛子は冗談を口にする。このやりとりは、俺と凛子に体格の差が出てきた頃から今まで続いている。随分と年季の入ったやりとりだ。

「……何を喋っても『ウホ』としか言わなくなるんだぞ?」

「それじゃあ私が、ゴリいちゃんに日本語を教えてあげなきゃねー」

 急なコーナーに差し掛かった凛子が俺の方向へ体を傾ける。時間差で、俺も同じ方向に体を傾けた。

「ゴリラと俺を一緒くたにするな」

「安心してよ。私はお兄ちゃんがゴリラでも、ゴリラがお兄ちゃんでも、変わらずお兄ちゃんの妹であり続けるからさ」

 凛子が『私はなんて兄想いの健気な妹なんでしょう』とでも言いたげなしたり顔で俺の方を向いている隙に、俺は前方を走る凛子の背中に向かって、妨害アイテムである追尾式の甲羅をぶつけてやった。

「あー!ひっどー!」

「やれやれ、レース中によそ見しているからだ。そんな風に注意力が散漫してちゃ、簡単なゴロさえ捕り逃すぞ」

「むむむ」

 俺は再びトップに躍り出る。

 やはり進むべき道の前方に人がいないというのは、気持ちが良いものだ。

「それを言うなら、お兄ちゃんはどうなの?」

「何がだ?」

「私がゴリラと入れ替わったら、私に日本語を教えてくれる?」

 凛子のその問いに、俺は彼女の方を向いて迷わずこう答える。

 キザな__わざとらしさ全開のしたり顔を忘れることなく。

「英語は無理でも、日本語なら…… 漢文は無理だけど、俺が教えられる日常会話レベルなら教えてやるよ。いくらでも付き合ってやる。凛子がゴリラに、ゴリラが凛子になっても__凛子は俺の妹だ」

「スキあり!」

 妹の言葉につられてテレビに目を向けると、俺のヒゲのキャラの背中に甲羅がぶつけられていた。好機と言わんばかりに、凛子はそのまま俺の車体に激突しながら通り過ぎてゆく。一台、二台と、CPUも通り過ぎていった。

「さすがお兄ちゃん。ちょろいねー」

「……体型は違えど、やはり双子か。よもや同じ手に引っかかるとは」

 三台、四台と、それに続いてゆく。進むべき道の後方から抜かれることはあまり気持ちの良いものではなかった。前方に人がいないということは、後方から狙われているのだと痛感した。

「さー、最終コーナーだよ。これを取ったら私の勝ちだから!」

 凛子は威勢良く、良い姿勢でアクセルを踏み込む。

「これに勝ったらダーゲンハッツって約束だったよね?」

 身に覚えのない約束を持ち出すことによって俺の動揺を誘おうとでも考えたのだろう。

 しかし、俺には負けるつもりなど毛頭なかった。

「……今に限りお前とは、血縁関係を断ち切ることにしよう」

 負けた時のことを考えていたのでは勝てるものも勝てないし、勝つ前に勝てると思い込むのも早計だ。

「兄も妹も関係ない。ありのままの西岐孝太郎をもって、西岐凛子を倒す。 ただ、それだけだ」

 願わくば、この手に高級カップアイスを握る未来を信じ__俺は思い切りアクセルを踏み込んだ。


 ◯


「いやー、ラッキーだったよ。 私が手を打つまでもなく、CPUがお兄ちゃんをひき逃げしてくれるなんてねー。私以外の存在に気付かないなんて甘い!このダーゲンハッツのように甘い!」

 凛子はその手に高級カップアイスを持ち、付属のスプーンでまだ少し硬い白いアイスをググッとすくい上げる。

 血縁関係さえ絶った決死のドライブは、五台、六台と続いたCPUによって散々な結果がもたらされた。

 俺は公園のベンチに座り、敗因を考える。右隣に座る凛子がアイスを口に運ぶ。プァン、という、遠くを走る電車の音が耳に届いた。

「もっと状況を確認しなきゃー。散漫な注意力でボール逸らしてみんなに迷惑かけないでよね」

 先ほどの意趣返しを凛子からのありがたい教訓として噛みしめると同時に、俺はさっきまでソーダ味のアイスが刺さっていた木の棒を噛みしめた。

「そんなだから私がダーゲンハッツで、お兄ちゃんがギャリギャリきゅんなんだよ」

「ギャリギャリきゅんを馬鹿にするなよ。安くて美味い、最高だろ」

 木の棒を歯先で上下させながら、財布を寒くしたことにふて腐れていた俺の横で、凛子は「さあてとっ」と立ち上がった。

「食後の運動、しよっか!」

 凛子はベンチに置いてあった、片手にハマる程度の柔らかいものを俺の頭にかぶせ、ご機嫌に鼻歌を歌いながら距離を取った。

「……付き合ってやるか」

 俺は頭上に手を回し、片手にハマる程度の柔らかいグローブを持って、そのまま装備する。

 使い慣れた手触り。薄茶色のキャッチャーミット。

「いっくよー」

 凛子がそう発すると、ぼすん、という音が左手の中で鳴り響く。それを投げ返すと、凛子の方からも同じ音が聴こえた。

「それにしてもお兄ちゃん、テストは大丈夫なのかなー?」

 意識的に避けていた話題を、にやにやした顔で聞いてくる凛子。それに対し、俺はいつもの調子で答える。

「譲ってやってるだけだよ」

「というと?」

「今は、他の参加者に進むべき道の前方を譲ってやってるだけだ。 時が来たら」

 テストなど__なんてことのないように。

 今ボールを投げているように、軽く言った。

「全員、追い抜いてやるよ」

「レースゲームならまだしも、こと勉強に至っては、お兄ちゃんには困難極まるだろうけどね」

 俺の、意味深なようで特に何も考えていないセリフは、凛子の真面目な返答によって沈められた。

 雨地にしてもそうだが、もう少し俺のユーモアに対して真摯に反応してもらいたいものだ。

「……まあ、それはそれとして」

 そのことへの気恥ずかしさを隠したいのと、もう一つの想いを抱いて、俺は言う。


「これからやって来る、夏と冬は__譲ってやるつもりはないよ」


 その想いは決してユーモアでも、冗談でもない。

 俺の本心__そこから溢れ出る気持ちを言葉に乗せて、双子の妹に贈ることで、自分の気持ちを再確認する。

「誰が相手だろうと関係ない…… 俺は、俺たちは勝つんだ」

「……うん。そうだね」

 バシィッ、という力強い音が凛子の方から聴こえてくる。投げ返された凛子の球を捕ると、同様の音がした。

 その後数十分キャッチボールを続けたあと、どちらからともなく球の威力を弱め、距離を詰める。球の往復を止め、手荷物が置かれたベンチへと戻った。

「ふう、やっぱりもう動くと暑いねー」

「そうだな」

 凛子は額の汗を拭い、不思議そうな顔でこちらを覗き込みながらこう言った。

「ところでさ、何でこんなの買ったの?」

「お前が思い出させたんだよ」

 凛子はさらに不思議そうに頭上にクエスチョンマークを浮かべ、それを咥える俺をじっと見ていた。軽く吹いてやると、いくつもの球体が青空へ舞い上がった。

「しゃぼん玉なんて、いつぶりかなあ」

「童心に帰るだろ?」

 俺たち双子に体格差が出てきた頃よりもっと昔__何を考えて過ごしていたか、今となってはぼんやりとしか思い出せなくなってしまった幼少時代。

 その時の気持ちをおぼろげながら思い出すことが出来たので、たまには双子の妹のためにアイスでも買ってやるものである。

「メルヘンだなあ。お兄ちゃんのくせに」

 狂いのない音程でしゃぼん玉の歌を口ずさみ始めた凛子の隣で、俺はしばらくの間、子供時代に思いを馳せる。

 記憶の中で楽しそうに笑う凛子を見ていると、体格差のことはどうでもいいかと、そんな気持ちになった。

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