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第5話 凛子と歩く道

 上靴からスパイクに履き替え、昇降口を抜けて外に出る。そこで俺は手のひらを上に向けた。

 他人と比較すると一回り大きなサイズだが、一粒たりともそこに水が落ちてくるということはなかった。

「……納得いかないな」

 空を見上げると、午前中まで降りしきっていた雨が嘘のように止んでおり、そのことに太陽は嘘みたいに喜んで、口裂け女も面食らうこと間違いなしというレベルで口角を上げて笑っていた。その素敵な太陽の笑顔は、出来ることなら今日という日以外で拝みたかったものだと切に思う。

「何をそんなに不機嫌な顔してるの?さっきまでの土砂降りみたいだよー」

 隣で俺と同じように、凛子が空を見上げる。

 彼女は俺と違って、ここまで爽やかに晴れ上がった空を全身で楽しむように「んー!」と大きく伸びをした。

 手には、彼女が愛用している焦げ茶色のグローブを持っている。頭には白地に赤い文字で『1A』とデザインされたロゴの入った野球帽。

 そしてやはり__何度見ても__白いユニフォーム姿がよく似合うなあ。

「まあでも、さっきまでの雨じゃグラウンドは使えないだろ……」

「昨日のうちに先生たちがブルーシート敷いておいてくれてよかったよねー。しかも大きなやつを三重に。グラウンドの使用は問題ないみたいだよ。まあ、覆いきれなかった部分の多少のぬかるみはしょうがないけど。おかげで今からの練習試合も中止にならなくて済みそうだよ」

 密かに抱いていた淡い期待は、しかしブルーシートに阻まれてしまった。今日の獅子座のラッキーカラーは青だったはずなのだが、やはりテレビの占いというものは信用ならない。テレビのワンコーナーではない本格的な占いの全てが信用に足るということも、もちろんないけれど。

「……ふう」

 状況を整理するためと、予想外の出来事への切り替えのために、俺は一つ嘆息する。すると途端に脱力感が俺を襲った。このままアイスのように溶けてしまいたかった。

「やっぱり、やるしかないのか」

「何かテンション低いね」

 1年B組との練習試合が行われる第一グラウンドに向かい、凛子と共に歩みを進める。

 東西南北にそれぞれ一つずつ__そして敷地内中央に一つ、計五つのグラウンドを要する広大な敷地を誇る我が校の中で、一年生校舎から最も近い、東側に位置する第一グラウンド。そこへ向かうテンションは対極だ。

 凛子は足取り軽やかに。

 俺は足枷でも引きずるように。

「さっき晴沢と約束をしたんだ」

「どんな?」

「今日の練習試合で晴沢が3本以上ヒットを打ったら、ダーゲンハッツを奢ることになった」

「え、何それ。私を差し置いてそんな約束なんてありえなくない?私も食べたいよ?バニラ&クッキーが食べたいよ?」

「これ以上俺の財布を圧迫するな。自分で買えよ」

「こういうのは、他人のお金だからいいんだよ」

「晴天ゲス女と同じこと言うなよ」

「あははー、それって小夏のこと?」

 凛子は楽しそうにけたけたと笑った。今頃晴沢も同じように、凛子のそれよりはゲスゲスしく笑いながら、1年A組の教室でユニフォームに着替えていることだろう。

「というか、小夏の3安打はもう確定なんだねー」

 憎たらしい晴沢の、憎たらしいほど綺麗なバッティングフォームを思い浮かべる。

 基本に忠実な、流れるような所作。

 左右に打ち分ける技術。

 安打を放つことに特化しているとさえ言える彼女が、俺の記憶の中で華麗な打球音を響かせると、きりきりと胃が痛くなった。

「……あいつなら、余程のことがない限りはな」

「まー、だろうね」

 隣に佇む凛子の可愛い横顔を覗く。凛子は『ん?』という表情をして、その大きな瞳で俺の視線を受け止めた。

「……凛子のことは大好きだし、これからも一蓮托生でいたいと思っているけど、今日ほど凛子が敵チームであってくれと思ったことはないよ」

「どうして?」

「凛子が守備についてれば、晴沢の3安打のうち一本ぐらいは阻止出来るだろ」

「なるほど」

 可憐な凛子の、華麗なボールさばきを思い出す。

 打球が飛んでからの、一歩目の速さ。

 的確な判断力。

 記憶の中で彼女が軽快な動きを見せると、そう思わずにはいられなかった。

「私は、評価されているんだね?」

「ああ、もちろんだ。 俺が凛子を評価しなかった日などない。 晴沢の3安打を止めてくれたらその評価はもっとうなぎのぼりなんだが、そういうわけにもいかないしな」

 ほどなくして第一グラウンドに到着する。グラウンドを囲うフェンスの一塁側の、開閉式の扉になっている所を開け、グラウンド内に入った。

「ふーん。そっかそっかー」

 凛子から軽い相槌をもらったところで、この話の流れは断ち切られた。俺は、身体をほぐし始めた凛子の隣で呆然と立ち尽くし、どうしたものかと思案する。

 しかし。

 すでに断ち切られたと思っていた話は凛子の中では終わっていなかったようで、凛子は予想外の返答をした。


「なってあげよっか?相手チームに」


「……は?」

 凛子の言葉を頭の中で反芻する。

 確かに俺自身そうは言ったが、それは『空からお金が降ってこないかな』ぐらいの荒唐無稽な望みだったので、冗談を言っている様子ではない凛子を見て驚く。

「同じポジションの人と入れ替えてもらうように、相手チームの人に頼んでみるよ。練習試合なんだし、別に大丈夫じゃない?」

「いや…… 普通に考えて無理だろ?練習試合とはいえ、向こうもチームで練習してきただろうから。それに、練習試合解禁後の初っ端だろ?チームワークを乱されるようで、受け入れてはくれないだろう」

「まあそこは、私が上手いこと言ってみるよ。それに駄目元じゃん?断られたらそれまでってことで」

 そう言って凛子は相手チーム側のベンチがある三塁側に歩いて行った。見ると、すでに今日の相手である1年B組の担任と数名の生徒がアップを始めていた。

「……相変わらず、度胸はあるな。凛子の奴」

 しかしその度胸も、今回ばかりは良い結果を生むとは思えない。

 確かに、凛子の交渉が成功すれば、晴沢の野望を阻止する可能性はぐっと上がるだろうが、そうなるとは考えにくかった。

 希望的観測に過ぎない思惑が実現する可能性よりも、ならばせめて有意義な練習試合にしようという考えが勝り、先ほどの凛子のように俺は身体をほぐし始める。

 その時だった。

「オッケー出たよ」

「なんと」

 凛子はあっけらかんとした顔で、右手で丸を作りながら戻ってきた。

「本当か?」

「本当だって。『選手を入れ替えることによって新しい発見や刺激に繋がるかもしれない』って、向こうの担任は言ってたよ」

「……寛容なんだなあ」

 にわかには信じがたいが、ここで嘘をついたところで凛子にメリットはないだろう。

「じゃあそーゆーわけで、ちょっくら小夏を止めますかあー」

 凛子は両手を上げて「んんんーっ!」と思い切り伸びをした。無邪気に微笑み「楽しくなってきたぞー」と頼もしい言葉を発している。

「ああ、頼む。 一本でいいから止めてくれ」

「あっはー、そんなにセコいこと言いなさんなって!私との関係性じゃん!」

 俺の腰をばしばしと叩いて、快活に笑う凛子。


 かと思えば。


「見せてあげる。『余程のこと』ってやつ」


 凛子の顔は、急激に真剣味を帯びた真面目なものに変わる。

 先ほどまでの実に可愛らしい、軽やかな表情とは、一変する。

 そして彼女は言った。


「全部捕って見せるよ__小夏の打球をね」


 ◯


「……まさか、あの晴沢が本当に無安打に終わるとは」

 その事実を、口に出さずにはいられなかった。

 学年一理想的とさえ称される、晴沢のお手本のようなバッティングフォームや技術を思えば、なかなか信じる気にはなれない。

 試合のスコアを見直していても、実際にその場面を見ていても、だ。

 しかし晴沢の打撃成績の欄には『遊直』『遊飛』『遊ゴ』の文字が間違いなく並んでいた。

 3打数0安打。

 遊撃手(ショート)を守る凛子に打球が飛んできて、それを全て凛子が処理した証拠であった。

「あー、仕事したなあー」

 大仕事を成し終えた凛子が、これ以上なく思い切り伸びをしてこちらへと歩いて来る。

「さすがだな…… おかげで助かったよ。晴沢のカツアゲに遭わずに済んだ」

「いやいやー、私との関係性じゃん!」

 俺が心からの拍手を贈ると、彼女は頭をかきながら嬉しそうに笑った。

「一番ほっとしているのは、案外凛子の方なんじゃないか?いくら凛子とはいえ、晴沢の全打席で打球が飛んでくる確証なんてないだろうに、『全部捕って見せる』なんてさ」

「いや、確証はあったよ」

「何?」

 凛子は「それじゃー解説してあげましょー」と、ドラマに出てくる名探偵を意識したであろう、芝居がかった口調で言った。

「小夏、驚いてたでしょう?試合前の整列時に何の予告もなく、私が相手チーム側にいるんだもん。私と一緒に二遊間を守るって小夏が思ってたところ、私が向かいにいるんだもん。小夏私のこと大好きだから、そりゃ動揺もするよね」

 その時の晴沢の様子を思い出す。『え、なになに?何で?』と俺にオロオロと詰め寄ってくる晴沢の表情は、初めて見るものだったので新鮮だった。

「その時点で、勝負の結果はおおかた決まっていたんだよ」

 先ほどまで着用していた野球帽を指先でくるくると回し、彼女は続ける。

「そっちは先攻だったし、初回に必ず打順が回る3番バッターである小夏は、動揺した気持ちを落ち着ける暇もなく打席に入った。あっはー、案外小夏ってそういうところあるね?それだけ好かれてるってことかあ、嬉しいなあ__まあいいや。で、私を意識した」

 心地の良い風に嬉しそうな顔を浮かべた凛子は、俺の周りをゆっくりと回りながら、ゆったりとした口調で続ける。

「今日のB組先発ピッチャーはそこまでの球速もないし、右打者の小夏はショート方向に打球を打ちやすい。その結果、気持ちがはやった小夏は私の方へと打球を放ち、私はそれを捕球した。そうなったらもう、決まり。で、その時思いっ切りしてやったんだ」

「何を?」

「ものすごい__ドヤ顔をね」

 そこで凛子が、両手の人差し指を頬にあてがい、にやりと口角を上げる。

 恐らくその時にしたであろう、『ものすごいドヤ顔』というやつだ。

「……それは、決まりだな」

 普段の晴沢との立ち位置的に、俺は彼女にドヤ顔などしたこともなかったが、そんな場面で満面のドヤ顔をされた晴沢がどんな感情を抱くのか、どんな表情を作るのかは、想像に難くなかった。

「小夏、負けず嫌いだからねー。自分至上主義!みたいなところあるから。今日の試合でも、自分の打力を見せ付けようと画策してたんじゃないかな?そこにきて、私の守備に阻まれて__悔しいよね。だからその後も、小夏は私の頭上を抜いてやろうと思っただろうし……小夏の技術なら今日の相手ピッチャーからヒットを打つこと自体は難しくないレベルだったからね。結果、3打席とも私の方へと打球は飛んできた」

「……理屈は分かった。とは言っても、普通だったら晴沢の当たりはどれもヒットになる当たりだったぞ」

「それは、ただ単に私の方が一枚上手だったんだよねー」

 凛子がものすごいドヤ顔のまま、俺に目配せする。凛子の頭に手を置いてやると、「にへへー」と笑った。

「これで、一つ」

 すると凛子は人差し指を立てそう言った。

「……ん?何が一つなんだ?」

「まあ、最後まで聞いてよ。『3安打したらダーゲンハッツを奢る』という小夏との約束を、私は見事阻止しました」

「ああ、ありがとうな」

「そして、二つ」

 人差し指に続いて、彼女は中指を立てる。

「私、今日の試合、3安打したじゃない?我がA組の絶対エースであるところの、彩花ちゃんから」

「……何が言いたい?」

「もう。わかってるくせにー」

 凛子は立てた二本の指を開閉させながら、表情を崩すことなくこう続けた。

 ものすごいドヤ顔。

「小夏の3安打阻止と、彩花ちゃんからの3安打__これって、ダーゲンハッツ二つ分の出来じゃない?」


 ◯


「いやー、ラッキーだったよ。たまたま三打席とも、すっぽ抜けのボールがど真ん中に来るなんてねー。攻め方が甘い!このダーゲンハッツのように甘い!」

 丸いカップから白いアイスをすくい取り、それを口へと運ぶ凛子。「仕事終わりの一口は格別だねー」と、試合前の太陽にも負けない笑顔を見せる。

 隣を歩く凛子の無邪気極まりないその顔を見ていると、金欠極まりない現実を忘れさせてくれるような気がした。

「……あれはどの打席とも、厳しいコースに球を要求したはずなんだがな」

「まあ、そうだろうね。いつもの彩花ちゃんだったら、私なんかが一試合で3回もヒットを打てるわけないもん」

『凛子が3安打したらダーゲンハッツを奢る』という身に覚えのない約束を知っていれば、凛子の打席ではもっと気を付けたのにという後悔も無いではないが、それは俺がキャッチャーとして未熟だったからとも言えた。

 いや、未熟だったのである。

 そんな賭けが行われていなくても、常に気を緩めることなく勝負に挑まなければ、夏も冬も勝てはしないだろうに。

「彩花ちゃんとまともに勝負出来るのって、学年でも小夏か雨地さんぐらいじゃないかなあ」

「そうかもな」

「3番小夏、4番雨地さん、そしてエース彩花ちゃん__このクラス、もしかしてけっこー強いんじゃない?上級生相手にも引けを取らないぐらいに」

 晴沢を無安打に抑え、尚且つ3打席連続ど真ん中のすっぽ抜けを引き当てた凛子の強運もその強さの一因だと言えたが、『私の運気はダーゲンハッツを食べるほどに上がるんだよ』という感じに、さらに凛子にご馳走してやる未来がちらりと見えたので黙っておいた。

「……まあ、一色に関しては、もっとコントロールを安定させる必要があるけどな」

 一色のボールを受けていた、先ほどまでの試合を思い出す。構えた場所から思いっ切り外れた豪速球が豪快な音を鳴らしても、ストライクが入らなければバッターはフォアボールで出塁するのみである。そして、満塁からの押し出しで点を取られるのみである。

「今度はランニング中に大福を食わせないようにしよう」

「大福?」

「何でもないよ」

 ふうん、と言ってから凛子は最後の一口を口内に入れる。容器に付属のフタを被せ、携えていたビニール袋に包み、それをスクールバッグの中に入れた。

  満足気な彼女を見ていると、アイスを買ってやってよかったと思った。

「今日は手持ちがないって言うから、私のお金で買ったけど。アイス2個分は貸しだからね」

 ……反面。

 凛子に晴沢との約束を話さなければよかったとも思った。

「このダーゲンハッツにありつけたのも、ブルーシートを前日に敷いといてグラウンドが使えたおかげだよねー。今日の獅子座のラッキーカラーは青!朝の占いが当たることもあるんだねー」

 占いなんてものは当たらない人間もいれば、当たる人間もいる。その事実こそが、科学がどんどん進んでいく現代においても、占いという文化が衰退しない要因の一つだろう。

「お、100円見っけ」

 凛子はかがんで、道端に落ちていた硬貨を拾った。

 どこかのゲスのように、それに口を付けたりはもちろんしなかった。

「これ、募金でもしてこよっかな」

「俺にか?」

「何言ってんの。 お金は正しいことに使わなきゃ」

「……俺にダーゲンハッツ二個も奢らせといてよく言うよ」

「あれは労働への対価だよ。仕事料、仕事料!」

 凛子は硬貨を親指で弾き、パシッ、と手のひらで包むように合わせる。表か裏か。

 裏を選択した俺は凛子が開いた手を覗き込む。そこには、見事に咲き誇った桜が描かれていた。

 またも繰り出される、凛子のドヤ顔。

「まあ、そんなわけで」

 凛子は100円硬貨を制服の胸ポケットにしまうと、ものすごいドヤ顔でも、満面のしたり顔でもない穏やかな表情を浮かべて、言った。


「今日という日は楽しかった?お兄ちゃん」


 そう言って彼女__1年A組女子出席番号7番の西岐凛子(さいき りんこ)は微笑んだ。

 俺が今日という妙に濃い一日を思い出しながら話してやると、彼女は嬉しそうに相槌を打ってくれた。

 我が家が見えたところで、俺は凛子の一歩先を行き「ただいま」と玄関を開ける。

 双子の妹も俺に続いて、無垢な笑顔で同じ言葉を口にした。

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