第3話 うぐいす駆ける
「んん……」
四角い窓によって、外の風景が切り取られる。教室に並ぶ席の、右から二列目の最後尾__そこからみるその図はさながら額縁に入った絵画のように見えなくもなかったが、その絵画の中で降りしきる雨は自分の帰り道にも影響するので、『この中を歩いて帰りたくはないな』と思うばかりで、絵画を鑑賞するような落ち着いた気持ちにはなれなかった。
無論、俺には日常的な絵画鑑賞というやや敷居の高い趣味はなく、額に入った絵画を見に行った経験は僅かしかなかった。誰の付き添いで行ったんだったかな。
しかし理解は出来ずとも、静かな館内で絵を見て落ち着いた気持ちになれたことは確かだ。
それが、まだ虚ろな俺の視界が捉えた最初の風景だった。徐々に鮮明になってゆく頭の中で、自分が今まで眠っていたことにようやく気が付いた。
「……何時だ?」
「あ……」
「うん?」
机に突っ伏していた頭を上げると、そこには同じクラスの品行方正な優等生__1年A組女子出席番号3番の鴬谷美空が、見る者に利発な印象を与える楕円型の眼鏡を光らせながら、心配そうな面持ちで前の席に座っていた。
「おはよう、孝太郎くん……」
鴬谷がおずおずと手のひらを向けながらそう言ったので、俺も同様に彼女に手のひらを向け「おはよう」と挨拶した。
「寝起きで悪いんだけど、次、教室移動だよ。 行かないと」
鴬谷は申し訳なさそうな顔をして、教室の前方に掛けられた丸時計を指差した。針の位置を見ると、すでに一限目の休み時間に突入している。いつから寝ていたのかさえ、はっきりと覚えていない。
「ああ、そうだったな。 ……他の奴らは?」
辺りを見回すと、教室内には俺と鴬谷以外は誰もいなかった。彼女の返答を待つほんのわずかな時間が、雨に彩られる。
「みんなもう、行っちゃったよ」
「……早くないか?」
「一限が早く終わっちゃったからね。次が教室移動って言ったら先生が早めに切り上げてくれたんだ」
「……授業中に寝て、終わりの号令に気付かなかった俺も大概だけど、それならそれで誰か起こしてほしかったもんだ」
俺がそんな風にぼやくと、鴬谷はさらに申し訳なさそうに、両手の指先を軽く押し合って、もじもじとつぶやいた。
「……孝太郎くんのこと、私は起こそうとしたんだけどね? 起こさなくてもいいって」
「誰がだ?」
「晴沢さん」
「あいつか……」
「『学校で寝るなんて隙を見せるそんなバカ、ほっときゃよくない?』って」
「あいつめ……」
「『それにその大男は声かけても起きないじゃん。起こし甲斐ってもんがないってゆーか。冬眠中のゴリラに何やっても無駄』とも」
鴬谷の性格からして、その穏やかな口調から紡がれた晴沢の言葉は、丁寧にも一言一句再現されたものであろう。いつも柔らかい雰囲気の鴬谷に(彼女の言葉ではないとは言え)そんなことを言われてしまうと、より心が痛いぜ。
なので、その発言を憎たらしい晴沢のものへと頭の中で変換すると、人を小馬鹿にしたような晴沢の顔がいくつも浮かんだ。そもそも冬眠の季節でもなければゴリラでもねえよ。心に湧いた憎々しさを払拭するように軽く左右に顔を振った。不愉快さを上書きして掻き消そうと、三つ編みを一つに束ねた優等生のとろんとした優しげな目を覗く。しかし、逸らされてしまった。
「相変わらず失礼な奴だ、晴沢は。俺だって起こされたら起きるのに。一応の試みは見せてほしいもんだぜ」
「ご、ごめんなさい……」
すると鴬谷はバツが悪そうに謝るので、俺は手のひらを向けて『いやいや』というアクションをとった。
「鴬谷が謝る必要はないよ。待っててくれただろ、俺のこと。そんなに自分を責めないでやってくれ」
「う、うん…… 優しいんだね」
「鴬谷の方がよっぽどだよ」
両手を上げて伸びをすると、間延びした、大きなあくびが出た。それを見て、ずっと申し訳なさそうにしていた鴬谷はやっと笑ってくれた。
「それにしてもよく寝たもんだ」
「そうだね。気持ちよさそうだったよ」
「何て言うんだったかな?この季節はよく眠ってしまう、みたいなことわざ…… 『村民タダ飯を食らわず』だったかな」
「……『春眠暁を覚えず』のこと?」
「全然違ったな」
「ひ、響きは合ってたよ。それに、その言葉、『働かざるもの食うべからず』みたいなニュアンスにもとれて、私はいい言葉だと思うよ。うん、思う思う。『村民であるからには村のために働いてこそ、食すことを許される』みたいな」
「……自分で間違えておいてなんだが、そこまで甘やかしてくれなくてもいいんだぞ」
なんだかすごい気の遣われ方をされてしまったものだ。何の考えも無しにバカみたいなツラで軽く言った言葉を、倍以上の容量で返してくれる鴬谷には感謝を通り越して謝罪の念すら湧いてくる。
「ご、ごめん……」
すぐに謝る鴬谷に対していよいよ本格的に申し訳なくなってしまう。下手したら自分を責めかねない。鴬谷は気遣いが出来る良い奴だが、ダメダメな俺のせいでどんどん自己評価を下げてしまう。そのせいでストレスを抱えてしまっては大変だ。
「でも、その優しさが鴬谷のいいところなんだよな」
「え」
「なかなか他の人間には出来ないことだよ。俺からすれば、すごいことだと思う」
俺がそう言うと、鴬谷は目を伏せてしまった。するとその角度によって眼鏡が少しずれたので、彼女は両手で眼鏡を直した。
「そ、そんなことないよ!そんなことよりもさ、よく寝てたよね、孝太郎くん。昨日は遅かったの?」
そう聞かれて、俺は時計を睨みながら昨晩のことを思い出す。
「なんとなく観始めた深夜番組がなかなか面白くてなあ…… そう言う鴬谷は、普段何時ぐらいに寝てるんだ?」
「私は、遅くても11時には寝ちゃうかな。あんまり遅くまで起きていられないし」
「そうなんだな」
「あんまり遅くなっちゃうと、寝坊して朝にお弁当作れなくなっちゃうから」
「自分で作ってるのか?」
「う、うん。そうだよ」
「すごいな。家庭的だ」
それを聞いた鴬谷は顔を赤らめて、またも顔を伏せてしまった。直した眼鏡がまたずれる。
「そ、そんなこと、ないよ…… 孝太郎くんは、お弁当、どうしてるの?」
もじもじとしながら、眼鏡を直す鴬谷。
「母さんが作ってくれるよ。人よりたくさん食べるから、作ってくれる側には申し訳ないんだがな」
「……きっと、お母さんは迷惑だなんて思ってないよ。子どもが大きく、特に孝太郎くんぐらいまで成長が進んだら、嬉しいんじゃないのかな」
俺は自分の、やけにでかい身体に一瞥する。利点もあるので『無駄に』でかい、とまでは言わないものの、この身体ゆえに悪目立ちしてしまうこともままあった。昨日も居間で寝ていたら、双子の妹に「邪魔」と掃除機をぶつけられたところだ。
「だったらいいんだけどな。今日も、一限の間に一つ弁当を食べ切ったところだ」
「えっ、も、もう食べたの?それに朝ごはんは?」
「早弁だ。朝ごはんももちろん食べたぞ」
「まだ一限が終わったところなのに、お昼まで持つの?」
「もう一つあるから平気だよ」
そこで俺は、そのもう一つの弁当箱を見せてやろうと、机の横に掛けてあったかばんに手を入れる。しかし、かばんの中では手が泳ぐばかりだった。その先にある答えが、自ずと頭に浮かぶ。
「……忘れたかもしれない」
「ええっ!?」
突如浮上してしまった最悪の可能性は、かばんの中を直接確認することで確定してしまった。購買で買おうにも、今日は朝に傘とみゆき大福を買ってしまったので、所持金を掻き集めても俺の腹を一日保たせる量のパンには届かないだろう。弁当のありがたみは分かっていたつもりなのに、確認を怠っていたばかりに、このような事態を招いてしまった。俺の中で、自責の念が暴れ出す。
「そ、それじゃあ、私の分けてあげようか?今日はちょっと多めに作っちゃったから。……も、もちろん!私のなんかでよければだけど」
女神が幸福を手土産に舞い降りた。
神様や仏様と実際に対面したことがないので本当かは分からないが、後光が射すとはこういうことなのだろう__その圧倒的な眩しさに目が眩んでしまいそうだ。
「何と言うか…… 大和撫子だな、鴬谷は」
「へっ!?」
「聡くて、穏やかで。料理も出来るし、何て言うか奥ゆかしい。それに包容力もある」
「そ、そそ、そんなに褒めても何も出ないよ!おかずの出し巻き卵と唐揚げとタコさんウインナーとみかんぐらいしか!」
結構出るんだな……
「そ、それにしても授業中に早弁して、寝て、孝太郎くん…… 自由人だね。食べてすぐ寝ると牛になっちゃうよ」
そう言われて、あの黒白模様を思い浮かべる。牛になるかどうかはともかくとして、うちのクラスの中で__ いや、もしかしたら学校の中で、俺が一番牛の体積に近いかもしれない。
「牛か。のどかに放牧されている風景をイメージすると、それも悪くなさそうだ。牛として生きていくのも」
「出荷されちゃうよ……?」
「それもそうか。……あ、それなら、もし俺が出荷されたら、鴬谷が食べてくれよ」
「え」
まん丸に見開かれた鴬谷の目を見ていると、饒舌になってしまう自分に気が付く。なんだか楽しくなってきた。
「牛肉は好きか?」
「も、ももも、もちろん。……大好き」
「決まりだな」
「……わ、私としては、牛になってほしくはないんだけどね?」
「あっ、でも駄目か」
「え?」
「牧草だけを食って生きていく自信が、今の俺にはないな。 胡麻ドレッシングでもあればいいんだが」
「ああ……」
「アレって美味いのか?ちゃんと消化出来るのか?」
鴬谷は「ええと」と一拍置いて、あごに指先を当てて答える。
「人間には無理だけど…… 牛には四つの胃袋があって、その内二つの胃の中には牧草を消化してくれる微生物がたくさん住んでいる、って話だよ。だから食べても大丈夫なんだって」
「へえ、やっぱり鴬谷は物知りだな」
「た、たまたま知ってただけだよ」
「鴬谷みたいに頭の良い子に放牧されたいものだ」
「へっ!?」
鴬谷は一瞬で顔を真っ赤にして、目を見開く。その様子をとても愛くるしく感じ、それによって軽くなった俺の弁舌はまるで風船のようにさらに宙へ浮いていく。遮るものがなければどこまでも飛んでいきそうだった。
「そういう子が作ってくれた環境だったら整ってるだろうし、不自由はなさそうだろ? そんな環境で人生__牛生を謳歌してみたいもんだ」
そして俺は、畳み掛けるようにこう言った。
「一生__俺の牛生の面倒を見てくれないか?」
キザな台詞を吐いた瞬間、鴬谷の背中が見えた。
それも束の間、彼女の姿が瞬く間に見えなくなる。
廊下に響く小気味の良いリズムを聴いていると『やはりあの大人しそうな顔からは想像が難しい、クラス一の俊足だ』と思ってしまった。人や壁に激突しないことを祈るばかりである。
「……からかい過ぎたかな」
時間も時間なので、そろそろ筆記用具を用意する。俺も鴬谷に続いて教室を出るとそこには、今にも沸騰してしまいそうなほど顔を真っ赤にした鴬谷がいた。
さながら、タコさんウインナーのようだった。
「……きょ、教科書、忘れちゃった」
◯
「ところでさ、今日の練習試合はどうなるのかな?」
鴬谷が、廊下に並ぶ雨の絵画を眺めて言う。俺も同じように鑑賞した。
「多分、無理だろう。さっきより弱まってるとはいえ」
外で身体を動かせないことは、実にもどかしく感じる。早くA組の連中と暴れてみたいものだ。
「一ヶ月経って、やっと試合が解禁されたのにね。順延するにしても、どういうスケジュールになるのかな?夏に向けて、対策を練り始めたかったところだけどな」
「……まあ逆に言えば、俺たちの手の内も知られずに済んだんじゃないかな?エースを始めとしたうちの面々が、溢れる力を抑えられるほど器用とは思えないし」
元気いっぱいの大福とクールなおしゃべりの顔を思い出す。鴬谷もどうやら俺と同じ顔を思い浮かべたようで、口元を手で覆ってくすくすと笑った。
「ずいぶん楽しそうだな」
「ご、ごめんね」
「謝らないでいいって」
「うん…… でもね、本当に楽しいの」
鴬谷の次の言葉までに若干の間があったのは、彼女の中で一つずつ丁寧に、慎重に言葉を紡いでいるからだろう。
鴬谷は、それが出来る優しい子だと思う。
「楽しいし、嬉しい。彩花ちゃんと響子ちゃんと__みんなと、出会えたことが。 ……それに、孝太郎くん、とも」
徐々に弱まる語尾に、俺は耳を近付ける。すると鴬谷は、驚いたように反射的に身体を揺らして、俺の方を向いた。
「ごめんな、ビックリさせたか?」
「いや、そんな」
「まあ、いきなりでかい図体が近くなれば驚きもするよな」
顔を逸らした鴬谷の表情は見えなかったが、代わりにほんのりと赤く染まる耳が見えた。
「俺と出会えたことが嬉しいなんて、心躍らざるをえない一言が聞こえた気がしたものだから」
「__!」
またしても瞬きをしている合間に、彼女の背中は小さくなる。そして、やがて見えなくなっていった。からかい過ぎたかな、と降りしきる雨の絵画を眺めていると、今にも沸騰してしまいそうなほど顔を真っ赤にした鴬谷の姿が大きくなって、俺の前で止まった。
「……さ、先に、行ってるね!」
律儀なんだな、と返事をする前に、またも彼女の背中は小さくなる。
絵画の中の雨音と小気味の良い足音が奏でるハーモニーが、薄暗くて辛気臭い廊下に花を添えた。




