第2話 雨のち雨地
「おはよう、孝太郎。入れてもらってもいいかしら?」
俺の元へ駆け寄る一人の女子生徒。
頭を雨から守るために左手でスクールバッグを頭上に構え、彼女は俺にそう尋ねた。
同じ学年である証拠の赤いネクタイを締めた彼女の名前は、1年A組女子出席番号1番、雨地響子。
高校入学後、初めて出来た友達である。
「少々狭いが、我慢してくれ」
俺がそう言うと雨地は「ありがとう」と、ボリュームは控えめだがよく通る声で言った。俺が左側に寄り、右側に雨地を受け入れる。彼女は傘の中に入って短く息を漏らし、長い髪を押さえた。雨に濡れたその髪は普段よりもどこか艶やかだ。
「雨地。お前、こんな日に傘を持ってないのか?」
土砂降りの空模様を眺め、俺は彼女に問う。
「傘ならあるのだけど」
俺は雨地が右手に掴んでいるものを見るために視線を落とす。その手に握られていたのは確かに傘ではあるようだが、もはや傘として機能することはないだろう。
なぜならそれは見事なまでに『く』の字に曲がっており、痛々しく破損していたからだ。
「……どうしたら、そんなに綺麗に折れるんだ?ほぼ直角じゃないか」
「突然いい感じの球体が飛んできて、打ち返した結果がこれ」
雨地は直角に折れた傘をバットに見立てて、軽くスイングする。「特大の場外ホームラン」とぼそりと呟き、シュッ、という耳触りのいい音を響かせる。
「……いや、状況がわからん。突然いい感じの球体が飛んでくる日常がもはや恐怖だよ。本能的にもほどがあるだろ」
「これも日頃の練習のたまもの」
雨地は表情を全く変えることなく、そんなことを言った。しかし雨地は、その無表情とクールな口調とは裏腹に、軽口やお喋りが大好きだった。
俺も何度か、そんな雨地の真顔の冗談に騙されたことがある。
「まあ何にせよ、雨地に何事もなかったならよかったよ」
「心配してくれてる?」
「そりゃあ、まあな」
「そういう気遣いが出来るところ、評価しないでもない」
「お前は一体誰の目線なんだ」
「氷菓を奢ってあげることにやぶさかではないぐらいに評価してる」
「駄洒落かよ」
雨によるものと、駄洒落によるもの、二つの意味で寒かった。
雨地は不機嫌な空を見上げ、ぼそりと呟く。
「雨の日って、無性にアイスが食べたくなるわよね」
「……それって、一般的な見解なのか?」
「雨地家では常識」
「自分の常識を疑うことも大切だぞ」
まあそうは言っても、雨の日にアイスが食べたくなると雨地が訴えたところで、それが争いの火種になるということもなさそうなので、これ以上の反論はヤボだろう。『雨の日はアイスが食べたくなる』というのが雨地の常識なら、それはそれで尊重すべきである。
「アイス奢って」
「お前が奢る側じゃないのかよ」
奢ることにやぶさかではないぐらいに俺のことを評価しているという言葉を、速攻反故にされた。相変わらず、自分の発言に責任を持たない奴だ。
「確かに、孝太郎にアイスを奢るにやぶさかではないという評価を私は下した。でもここで、一つの問題点が浮上するのよ」
雨地は無表情に、しかしながら世知辛そうに言った。
「私の家は大層裕福ではないので、それは実現には遠いのよ」
「……言い方が回りくどいな」
「大層裕福、略して大福。私、氷菓だったらみゆき大福が好き。お値段もリーズナブル」
「みゆき大福か。俺も好きだよ、それ」
みゆき大福、という商品名が雨地の口から出てきたので、俺はイメージを膨らませる。横長のパッケージの端からフタをめくると、そこには白くてまん丸な顔を仲睦まじく並べる二つのみゆき大福の姿があった。柔らかそうな眼差しで、こちらを迎え入れている。
「アレって二個入りじゃない?それなのに『一個ちょうだい』とか言ってくる人、いるでしょ」
「ああ。あれはちょっと図々しいよな」
「それを言う奴を__私は人間と認めない」
「案件が重い」
雨地はこれまで通りの淡々とした口調だったが、その言葉の裏には得体の知れない怒気を感じた。
「二つしかないみゆき大福を分け合えるような関係性を築き上げることが、私の目標…… それは決して強奪ではなく、あくまでも私が認めた場合の、共有」
そういう雨地は過去にあった出来事__具体的には、食べることを楽しみにしていたみゆき大福を、決して仲良しとは言えない誰かに『一個ちょうだい』と強奪された時のことを思い出したらしかった。
彼女の切れ長の目の奥で、復讐心にまみれた炎が勢いを増す。みゆき大福の中身のアイスがドロドロに溶けてしまいそうなほど、ぼうぼうと燃えている。それほどまでに食べ物の恨みというものは大きい……
「……ふう。柄にもなく熱くなってしまったようね」
「お前のその『亡き友を偲ぶ』みたいな感じ…… なんと言うか、迫力があったぞ」
「やっぱりダメね。憎しみは、その人間性さえ見失わせてしまう。憎しみとさえ、みゆき大福を共有出来るような関係を築きたいものだわ」
雨地は揃えた指先を自分のおでこに当てた。熱く燃え盛った炎を、その長い指で治めているのかもしれない。
「あ、そうだ。大福で思い出したんだけどな」
「何かしら?」
「一色がさ」
「大福で思い出されるあの子もあの子ね」
「まあそれは、うん」
そう指摘されてしまうと、大福から一色に繋がったことに少しだけ申し訳なくなってしまう……
まるで彼女が食い意地を張っていると言わんばかり__いや、まあ、食い意地の張った奴ではあるのだが。
既に俺たちよりも早く学校に着いているであろう、白くてまん丸な大福少女の方角に向かって『すまん』と心の中でつぶやいた。
「それで、彩花がどうしたの?」
「ああ、これ」
雨地に傘を持ってもらい、かばんの中からあるものを取り出した。朝刊のうちの一枚である。
「今日の新聞、載ってる」
「えっ…… 何をやらかしたの?」
「そこで息を飲むな。友達を疑うな」
「めんぼくない」
雨地は折りたたまれた紙を開く。俺もそちらを覗き、そこに書かれた文字を読み上げた。
「お手柄女子高生、万引き犯に右腕が唸る__ だってさ」
その見出しのあとに小さく詰め込まれた文字を黙読している雨地をしばらく待つ。読み終えた彼女は、ひとつ呼吸を往復させてから言った。
「私なら、バットでボコボコにするのに」
「猟奇的過ぎだろ」
雨地はそううそぶきながらも、一色が本当に悪い意味で新聞に載ったわけではないことに安堵したようで、ほっとした表情を見せる。とは言ってもいつもほとんど無表情な雨地だ。その表情の変化は、入学してからのこの一ヶ月彼女と接してきて、ようやく少し感じることが出来るようになった程度の微細なものだった。
「冗談、冗談」
「真顔だから冗談に聞こえないんだよ。せめて変えろよ、表情を」
「変えてるわ。 360度変わってる」
「それは一周回って変わっていない」
「……ふう、孝太郎はわかっていない。これは冗談、すなわちユーモア。私の溢れ出るユーモアセンスを具体的に言い表すとすれば、我が家のみみっちい浴槽に収まりきらないぐらいの量ってところね」
「すごい量のユーモアセンスなんだな。疲れた日に何も考えず、ざぶーんと身を浸したいところだ」
「私個人が所有するユーモアセンスの量も多いことに加え、我が家自体、私一人が中に入るだけで定員オーバーするほどにみみっちいわ」
「……いや、さすがにそれは言い過ぎだろ」
などと、雨地と楽しく取り留めのない実に非生産的なお喋りをしながらも__雨はその勢いを増すばかりである。俺の左半身と雨地の右肩を容赦なく濡らしていく。俺が一つくしゃみをすると、雨地が心配そうな顔(先ほどと同じように、なんとなくそう見える程度の微細な表情の変化)でこちらを覗いた。
「孝太郎…… あなた、濡れ過ぎじゃない?大丈夫?もっと傘をそっちにしても、私は平気よ」
「いや、大丈夫だ」
『ユーモアをわかっていない』という批判に少なからず傷付いた俺は、雨地を見返してその傷を癒すために十分な間を空けた。今までにしたことがないレベルのキメ顔を作り、手のひらを上にして親指と人差し指だけを立てた手を雨地の方へと突き出す。
そして、いつもより一段低い良い声を演出して、わざとらしくこう言った。
「これ以上に雨地が水も滴るいい女になって__惚れてしまうといけないからな」
「……あ、ごめんなさい。考え事をしていて聞いてなかったわ」
「なんで聞いてないんだよ。俺のユーモア」
渾身の__まさしく命を削って練り上げた、俺が言うには似合わなさ過ぎるキザな台詞は、果たして空回りに終わった。
そう頭で理解すると余計に恥ずかしさが込み上げてくる。
穴があったら入りたい気分。
許されるなら、今ここで穴を掘ってしまいたい。コンクリートだけど頑張るよ。
「気に障ったのならごめんなさい。今度はしっかりと、一字一句逃さない。だからもう一度聞かせてもらえる?あなたのユーモア」
そこにすかさず雨地の追い討ちがかかる。伝わらなかったボケの説明をさせるのがどれほど酷なことかわかっていないくせにユーモアを語るなど、それこそわかっていないのではないだろうか。
「……それより、その考え事ってのは何なんだ?」
込み上がる気恥ずかしさから話題を反らすと、雨地は特に気に留める様子もなく応える。
「あ、そう。この状況を打破する圧倒的手段を思い付いたの。画期的だわ。『画期的』という言葉が、私が編み出した圧倒的手段に添えられるために出来上がったと言っても過言ではないぐらい」
「それは偽りなく過言だ…… ちなみに、その圧倒的手段ってのは?」
するとそこで、雨地考案の圧倒的手段をド派手な擬音で演出するかのように、遠くで雷鳴が轟いた。
「傘を買いましょう」
雷様もびっくりの、実に一般的な手段だった。
「まず真っ先に思い浮かべる手段だぞ、それ」
「雨を避けるほどに素早く動くという名案も思い付いたのだけど、実現性の低さからその答えに落ち着いたわ」
「実現性なんて皆無だよ、そんなの」
迷案ではあるだろうがな、とまでは言うまい。
「ただ、私の家は大層裕福ではないから、持ち合わせているお金は少ないの」
「いくら持っているんだ?」
「ざっと10セント」
「なぜセント」
「昨日、銭湯に行ったからかしら」
「……銭湯では、お釣りはセントじゃくれないと思うぞ」
「我が家の浴槽に私のユーモアがこびり付いて入れない状態だったので、昨日銭湯に行ったの」
「……」
なんか汚いな、お前のユーモア。
「今日も銭湯に行くのだけど、このままの天気だったら、せっかく温まっても帰り道はまた濡れちゃうわね」
「すごい雨だしな…… それこそ、浴槽に収まりきらないよ」
「浴槽に雨を溜めるって、あなたの家には天井がないの?」
それは、単なる言葉の綾なのだが……
自分のユーモアを語りたがるわりに、他人のユーモアが通用しない奴である。
「……露天風呂なんだよ、うち」
「……あなたとの間には、それはそれは深い虚構が出来上がってしまったわ」
「本気にするな。冗談だ、冗談。お前が好きなユーモアだよ」
「そうなの?それならよかった。孝太郎との絆が、家柄の違いによって粉々に粉砕するところだったわ」
かたや雨地一人で定員オーバーするという家、かたや露天風呂付きの豪華な家。
それがユーモアでないとするなら、身分の差としては確かに十分だった。
「……まあ、まだ知り合って一ヶ月も経ってないわけだし、何があっても壊れない絆を作るのは時間的に困難だとしても、そんな理由で友情が粉砕されるのは嫌だな」
「あら。でも私は、孝太郎との友情はなかなかのものだと思っているわよ。話していて楽しいもの」
「嬉しいこと言ってくれるんだな」
「感涙で浴槽が溢れそう?」
「……浴槽はもういいよ」
何度もネタにするあたり、雨地は風呂好きなんだろうな。
風呂と、ユーモア好き。
やや偏見じみた意見ではあるが、そうなると最早おっさんだなと、しゃなりと歩く隣のモデル体型を見てしみじみ思う。
「孝太郎との友情が確認出来たのも、突然飛んできたいい感じの球体を打ち返して傘が使い物にならなくなったおかげね。数百年前から脈々と、先祖代々雨地家に伝わる家宝のビニール傘が壊れたのは痛手だけれど」
ビニール傘の起源っていつなんだろうか……
そんなことがほんの少しだけ気になったが、どうせいつもの冗談だろう。
「……だから、なんだよそれ。 突然いい感じの球体が飛んでくる日常って」
「まあ、実際に起こってしまったのだから、起きないこともないでしょうね」
「俺の日常には起こり得ない出来事だよ」
ことの発端となった『いい感じの球体』関連の雨地の突飛な発言にいい加減疲れ、やれやれと息を吐いた。
そんな俺に構うこともなく__雨地は前方の上空を指差して、言った。
「わからないわよ?現にほら、あそこにも」
「は?」
「借りるわ」
俺が承諾するより前に、雨地は俺に自分のスクールバッグを押し付け、代わりに傘を強奪して、器用に閉じてから思い切り振り抜いた。バキィ、という大きな音が響き、何かが遠くへ飛んでいく気配がした。
「……特大の、場外ホームラン」
雨地のその呟きは、雨音に掻き消されるほど小さな声だった。
雨地の所作を目で追い終わった時にはすでに、俺の傘は雨地が持っていた傘のように直角に折れ曲がっている。
あまりの展開の速さに、俺は呆気に取られるばかりだった。
「ごめんなさい。それもこれも、ちょうどいい感じの球体が飛んでくるせいなの」
「……だから、何だそれは?」
「それは、わからないけど…… でも、私がいい感じの球体を打ち返さなかったら孝太郎に直撃していたわ。そこは感謝してほしい。そして、氷菓を奢ってもいいという評価を下してほしい」
「……だから、寒いって。それより、俺の傘も駄目になっちゃったぞ」
「それなら大丈夫。もう少し行ったところにコンビニがあるから」
雨地はそう言って、俺の傘に入って来た時と同じようにかばんを頭上に構えて走り出した。俺も彼女に続きながら、コンビニに縁がある日が続くなあ、とつぶやいた。
◯
「はい、これ」
俺が出入り口付近で傘を選んでいると、先に店内に入った雨地が奥から何かを持って歩いてきた。それを受け取って、その横長のパッケージをぐるりと見遣ってから、彼女に尋ねた。
「……これは?」
「みゆき大福」
「それは見ればわかる」
「奢ってもいいって、そう評価したでしょう?」
物欲しそうな顔(くどいようだが、ほんの少し感じ取れる程度の微細な表情の変化)で、雨地はこちらを覗き込む。それに合わせて彼女の長い髪が揺れて、毛先から雫が流れ落ちた。
「……でもそれを買うと、傘が一本しか買えなくなるぞ。お前も、10セントしか持っていないんだろ?」
「私はいいわよ。 一本でも」
雨地は親指と人差し指だけを立てた手のひらを上に向け、俺の方へとその手を突き出す。そしていつもより一段低い、良い声を演出してわざとらしく言った。
「一本しかない傘のおかげで、孝太郎と響子の『強固』な絆がまた深まったのだから」
本人はきっと、今までにしたことがないレベルのキメ顔をしているつもりのようだが、その表情は言わずもがな、普段通りの無表情だった。
「『強固』、『響子』…… ほら、どっちもきょうこ。同じでしょ」
空中に手をかざし左右に振ることで、その二つの単語を表す雨地。
「……さっきの俺のユーモア、本当は聞いていたんじゃないか?」
俺自身にユーモアセンスがあるなんて思ってもいないが、自分でボケの説明をしている辺り、雨地もまだまだである……
◯
「思ったんだが、新しく傘を買ったところでまた突然いい感じの球体が飛んでくるってことはないのかな?」
「あ」
「あ、って」
言われてみたらそうね、とでも言わんばかりに、雨地は口をまん丸に開ける。どこかの『いい感じの球体』でもすっぽりと納まりそうだった。
「まあでも、大丈夫」
「どうしてそう言えるんだ?」
「もうしばらくは来ないって、声が聞こえた」
「……誰の声だ?」
「気がする」
「気のせいかよ」
雨地が言うことに嘘はないとは思うのだが、どうも話がぼんやりとしている。要領を得ないのは、俺の頭が悪いことだけが理由ではないはずだ。
「まあ、誰の声かなんてどうでもいいのだけどね」
そう軽く言ってのける雨地の大物ぶりには、凡人の俺はただただ脱帽するばかりである。
まるで弾丸のように、上空から降り注ぐちょうどいい感じの球体を日常のワンシーンとして看過出来る彼女に、敵はいないとさえ思えてしまう。
「はい、これ」
雨地は俺に横長のパッケージを差し出す。
白くてまん丸な顔がふたつ並んでいた。
「はんぶんこ」
「いいのか?」
「ん。だって私、孝太郎とならはんぶんこしてもいいと思っているから」
「嬉しいことを言ってくれるな」
「かん……」
「感涙は流さないぞ」
「……意地が悪いのね」
無表情でふてくされる雨地を横目に、俺はみゆき大福をひとつ頂き、そのままかぶりついた。雨地の持論を聞いていたからかどうかはわからないが、確かに雨の日に食べる氷菓は美味かったし、もうひとつを強奪されたら憎しみも湧くだろうな、とみゆき大福を咀嚼しながら思った。
それを共有してくれた雨地の顔を見ていると感涙…… とまではいかないが、暖かな気持ちが、俺の心の中の浴槽で溢れ出すのがわかった。
「感謝してくれてもいいのよ」
「……俺の奢りだけどな?」
「あら、何か言ったかしら?」
隣を歩く長い髪の彼女が、右肩を濡らして、みゆき大福をほおばった。その彼女の表情は直接見るまでもなく、頭の中でイメージされる。
『せめて変えろよ、表情を』とは、口に出しては言わない。




