東陽の街医者
「ここだよ、美並。着いたぜ、翠葉」
そう言って稑名が連れてきてくれたのは、東陽一の腕利きとして名高い名医、環伯のもとだった。
東陽の門をくぐってから走り続けること約30分。ようやくたどり着く頃には、すっかり日が暮れていた。目の前にそびえる環伯の病院・・・いや、そう呼んでいいのか迷うほどの建物は、息をのむほど大きく立派で豪華だった。
ここまで嫌な顔ひとつせず一緒に走り抜けてくれた稑名に向かい、美並は心からの感謝を伝えた。
「ありがとう、稑名。稑名のおかげで助かったよ。無事病院に辿り着くことができた」
美並に両手をとられて、稑名は照れ笑いを浮かべる。
「いいよそんなこと!!オレも一緒に旅できて、無事帰れてよかった...!母さんに叱られるとこだったよ。よくなるといいな、翠葉」
稑名は美並におぶられた翠葉にそっと近づいて、覗き込む。
「またな、美並。オレは東陽の南の方に住んでる。これ地図だ!また困ったことあったら言えよ!じゃーなぁ!」
病院の待合室で、美並はずっと待たされていた。
だだっ広くて見たことのない居心地の悪い長椅子の上に座らされ、ただ時間が過ぎるのを待つ。周りには見たことのない装飾品や置物が飾ってあって普段だったら好奇心も湧くが、今は翠葉のことが心配でそれどころではない。
「医者はなんて言うかな、翠葉は大丈夫かな……」
何時間も経過した。美並はそう感じたが、実際は2時間ほど経過しただけで、奥の扉が開く。美並は「翠葉!」と言って中に駆け込んだ。
翠葉は、真っ白で綺麗な診断台の上に横たわっていた。腕の下には脈を診るためのひんやりとした小さな木枕が敷かれ、脇の棚には整然と並ぶ銀色の鍼や、竹で作られた古い聴診用の筒が置かれている。漂ってくる独特な薬草の香りと静まり返った室内が、ここが治療のための場所であることを物語っていた。医者の環伯は言った。
「翠葉さんの病名は不明です。ここではできる限りのことを調べてみましたが、私どもにはそこまでの知識がなく……このような症状の患者を診るのは初めてで、正直分かりません。症状としては咳、吐血、高熱、喘息が見られますが、原因の特定には至りませんでした」
翠葉と美並の話をしっかりと聞いた上でも、原因となりそうなものにはまったく見当がつかなかったのだ。
「原因も病名も特定できず、本当に申し訳ない。私にできることはもうありません……」
申し訳なさそうに頭を下げると、環伯は続けて指示を出した。
「ですが、まずは少しでも息がしやすくなるよう、専用の薬をお出しします。それと、熱が下がるかは分かりませんが、こちらの薬をさっきの薬と合わせて、毎晩食後に飲ませてください。食欲もないようですので、こちらの調理法でご飯を作って食べさせてあげてください。これは薬ではありませんが、今の翠葉さんの体を内側から支えるための食事です。まず、お米を普段の十倍以上の水で、形がなくなるまでじっくりとお煮なさい。そこに、細かく刻んだ生姜をほんの少しと、すりおろした梨のしぼり汁、そして乾燥させた相橘の皮を加えて、弱火でじっくりと香りを引き出します。炊き上がったら具材はすべて濃し取り、残った上の澄んだ重湯だけをすくって、ぬるめの温度で一口ずつ含ませてください。胃に負担をかけず、火照った胸の熱を冷まし、少しずつですが体力を補ってくれるはずです」
東陽一の町医者である環伯の病院を後にした美並の胸の中に、モヤモヤとした重い塊が居座り、胸のムカムカとする吐き気と激しい眩暈が襲ってきた。
「原因も病名もわからない。具体的な対処法すら、名医もわからない・・・何もできないってこと?翠葉は・・・治らないの?・・・・・・翠葉は、死んじゃうの……?」
これまでずっと奥底に押し込めていた不安が一気に溢れ出し、目からボロボロと溢れた涙が頬を濡らした。
今晩は翠葉の様子をもう少し観察し、何か分かることがないか診てみるということで、翠葉はそのまま一晩入院することになった。環伯自身、医者でありながら何もしてあげられないことに深い申し訳なさを感じていた。美並が遠くからやって来たと知った環伯は「今夜はここに泊まっていきなさい」と提案してくれたが、美並はその申し出を断った。もう、感情の限界だった。
けれど、泣いている顔を翠葉に見せるわけにはいかない。「友達の家があるから」と嘘をついて、逃げるように病院を飛び出してきたのだ。
静まり返った夜道を一人歩く。美並の細い足はもつれ、何度もつまずきそうになる。
「翠葉……嫌だよぉっ……! 翠葉……っ!生きてっ!生きてよぉっ!死なないでっぇ!!」
美並は声を上げて泣いた。大切な翠葉が死んでしまうかもしれないという恐ろしさ。病名も、原因も、治す方法すら分からない絶望感。翠葉を絶対に治すんだと決意して、山を越え、はるばる東陽の街まで出てきたのに、自分は何もできなかった。自分がこうして立ち止まっている間も、翠葉はあの寝台の上で苦しんでいるのだと思うと、涙はどこまでも溢れて止まらなかった。
美並はそのまま道端で倒れた。




