15歳の冬
三年という月日が流れた。
三年前の冬、俺は『過去還り』を経験し、隠されていた真実を知ることになった。それからの三年間、剣士である俺の身は常に戦争の中にあった。国の前線を張り巡らせ、大王の兄の土台を守り抜くこと——それが俺に課された使命だった。戦地へ向かっては戻り、再び前線へ赴く。ただひたすらに、剣を振るい戦い続けることばかりの日々だった。そして想像以上に早く、三年という月日が流れた。
美並と初めて出会ったのは、三年前の夏のことだ。あの日、彼女は本気で、そして死に物狂いで、姉である『翠葉』を救ってほしいと俺に懇願していた。翠葉の命を救うためだけに、必死になって走り回り、動き続けていた。そんな美並の姿を目の当たりにして、俺は知ったのだ。見返りや理由などなくても、誰かのためにここまで動き、尽くし、真っ直ぐな愛情を注げる人間が、この世界にいるということを。
過去還りから戻ったあとも、美並は変わらなかった。翠葉が十五歳を迎えるあの冬が訪れるまで、ただじっと、いつもの日常を送っていた。翠葉に対しては何ひとつ態度を変えることなく、ごく当たり前の景色の中で、変わらぬ温もりをもって接し続けていたのだ。
戦地から無事に戻ると、美並は必ず『おかえり』と温かい声と微笑で出迎えてくれる。夜、寝る前に本を読んでいると、『何読んでるの?』とどこか嬉しそうに寄り添う。
美並と過ごす中で気づいたことがある。彼女は普段、ずっとハイテンションで元気いっぱいに振る舞っているわけではないということだ。俺と二人でいる時は、意外と落ち着いていて、普段のように威勢よく喋るのではなく、自分が感じていることをしっかりと言葉にして伝えてくれるのだ。
「そろそろ雪降るかなぁ……」
寝台に二人で腰掛け、美並と俺は静かに話していた。
「あぁ。そろそろだろう」
最近はよく脈略もない話をする。美並も俺も、翠葉の十五歳の冬がもうじき来ることは、わかっていた。
けれど、そのことやこれからの未来について、俺たちが触れ合うことは一度もなかった。
美並の頭の中には常にそのことがあって、何度も何度も思いを巡らせているのだろうと察している。
「・・・はい!これあげる!」
美並が懐から月見餅を取り出して、俺の手を開き、握らせる。
「私が作ったんだよ」
美並はパクッと一口食べる。俺も美並が食べているのを見てから、食べる。美並は美味そうに食べる。
「美味い……」
「よかった」
美並は小さく笑う。
「知千、美味しいって、私が聞かなくても自分から言ってくれるようになったよね!嬉しいな」
「…………」
美並は美味しそうに、月見餅を平らげた。
「おまえ、料理上手いから……」
「褒めてくれてるの?知千は・・・」
カクッといきなり美並の頭が横から倒れてきて、俺の肩に寄りかかった。突然のことに驚き、どうしたのかと思えば、美並はすでに深い眠りに落ちていた。手元に残された、わずかな月見餅に目を落とし、俺はすべてを理解する。この中に、強力で即効性のある睡眠薬が仕込まれていたのだ。
「——くそ。この時が来てしまった……」
ハッと気づき、美並が不安定な姿勢のまま崩れ落ちないよう慌てて身体を支え、どうにか対処しようとしたその瞬間、突如として俺の頭にも猛烈な眠気が襲いかかってきた。まずい。どうにかしなければ……。焦る思考とは裏腹に、身体は言うことを聞かない。俺は美並を腕の中に抱き留めたまま意識が遠のいていき、抵抗する術もないまま、かくりと眠りへと落ちていった。
初雪がしんしんと降っていた。
目を覚ましたら、そこは見知らぬ場所だった。身動きを取ろうとした瞬間、身体がまったく動かないことに気づく。両腕も両脚も、椅子の後ろで頑丈に固定されていた。視線を向けると、何重にも深く巻きつけられた縄によって、厳重に拘束されているのが目に入る。
上を見上げると、頭上からは僅かな光しか届かず、冷たく重苦しい空気が肌を刺した。そして静かに周囲へと視線を巡らせる。左右を挟む壁面は不自然なほど垂直に切り立っており、ゴツゴツとした岩肌には太古の地層の筋がはっきりと刻まれていた。足元は平坦ではなく、上から崩れ落ちてきたと思われる砕石が散乱している。上を見上げれば、見上げるほど高い位置にある左右の岩肌が今にも合わさらんばかりに狭まり、細く長い隙間からかすかに空が覗いているだけだった。風の吹き抜け方、そして左右の壁面が滑らかに同じ曲線を描いて頭上へと伸びている歪な構造。それらを冷静に観察し、ここが建造された地下室などではなく、空にせり出した巨大な岩盤の「裂け目」の内部であることを理解した。
ここが『滅びの儀式』の舞台だ——。
「おいっ……!!美並っ!!起きろ!!」
二メートルほど離れた場所で、美並は頭をカクンと前に垂らしたまま、俺と同じように拘束されていた。
「美並……!」
叫んで声をかけるが、返事はない。まだ睡眠薬が切れていないらしく、深い眠りの中にいるようだった。
美並の腕や脚を縛っている縄を観察すると、俺のものほど厳重ではないことに気づく。翠葉にとって俺は危険分子であり、剣の腕前を警戒されているのだろう。だからこそ、俺の身柄だけが異常なほど何重もの縄でガチガチに固められているのだ。逃げられるとしたら、美並だけだ……。
俺はなんとか手を動かそうと力づくで暴れてみたが、身動きひとつ取れなかった。縄はぴくりとも緩まない。ならば椅子ごと倒れ込んで強行突破できないかと考え、全身に力を込めた。しかし、椅子そのものが地面へがっちりと固定されており、揺らぐことすらなさそうだった。
「……おまえ、今から俺たちを殺す気だな。俺が暴れないように、美並が作った餅に密かに睡眠薬を忍ばせた。俺たちの意識を失わせ、目を覚ましたら、滅びの儀式の場だ。ふざけるなっ!!自分が行おうとしていることを、理解しているのか!?!」
薄暗い空間の中央、俺と美並の間の真ん中前に、一つの大きな壺が佇んでいる。あの中に血を入れるつもりだ。
そしてその奥には、右手に剣を固く握りしめた翠葉が立っている。翠葉はただまっすぐに俺を見つめていた。
俺が睨みつけようと、怒鳴り散らそうと、どんなに暴れようと、翠葉の表情には、何の感情も浮かばなかった。
翠葉が少しずつ近づいてくる。激しい憤りが胸の奥から湧き上がっていた。こんなところで死ねるわけがない。俺がこんな不条理を大人しく受け入れるわけがないのだ。絶対に生きる。死んでたまるか。俺は絶対に屈しない。
俺はすべての感情と意志を瞳に込め、凄まじい眼光で翠葉を睨みつけた。揺るぎない眼力で彼女を動揺させようと試みる。しかし、俺の激しい視線を受け止めながらも、翠葉はただ静かに、さらに距離を詰めてきた。
「知千。あなたをこんな形で拘束したのはごめんね。だけど、わかってよ。わたしにも事情がある。役目がある。みんなのために、次の世界のために、今よりもいい世界のために、知千、美並、そしてわたしが命を使い果たすことが、必要なの。わたしは儀式を行う。滅びの儀式には三人の王家の血が必要で、王家の血は集まった。二人を殺さなければ儀式は完成しない」
「翠葉、おまえは呪いによって、洗脳されている。わずか五歳のおまえは、超幻族によって、約百年後に再び争いが起きるという一つの未来と運命を見せつけられ、呪いをかけられた。世界を滅ぼし、より良い世界を作ることがおまえの使命だと。呪いは、おまえの心と身体を、じわじわと蝕み続けた。気づいているのか……?それらは一つの未来と運命にすぎない。未来と運命は、他にある。……おまえに、美並を殺せるのか……美並はおまえことを心の底から慕い、愛している。翠葉を助けたいと必死になって、ずっとこの三年間を生きてきたんだ。その理由はただひとつ……もう一度、お前に元気になってほしい、笑ってほしい。それだけだ。見返りも理由もなく、ただ自分を思って動いてくれる妹のような大切な存在を、お前は自分の手で、その命を奪えるっていうのか」
「美並はわたしのことを心の底から慕い、愛してくれた。私が何もわからなくなっても、美並の私への気持ちは何も変わらなかった。ずっと大好きだと、翠葉は翠葉だからと、わたしの大切なお姉ちゃんと、そればかり言っていた。美並に感謝の気持ちはある。もしも普通に美並と生きられるなら、記憶喪失していなかったら、わたしはきっと美並へ何百倍もの感謝と想いを返す……返せていただろう。だが、いくら大切な存在だと、大好きだと言われても、記憶を失っているわたしは、もう以前の翠葉ではない。これが現実。美並がどんな存在なのかがわからない。何もできないわたしに無償の愛をくれる美並がいて……わたしには何もわからないけれど、わたしは、消えてしまった『翠葉』は、幸せだったと思う。まずはおまえからだ……」
「おまえの考える『より良い世界』って何だよ……争いのない世界か?誰か一人を犠牲にして成立する『より良い世界』なんて、そもそも本当に良い世界なのか?今よりもいい世界を望み、そのために争うくらいなら、いっそ世界を滅ぼして争いそのものを失くしてしまおう。そんな極論に一体何の意味があるというんだ?俺たちが果たすべきは、そのような破滅ではない。与えられたこの地でただ必死に生き、様々なことを経験し、時に痛みを知る。そうやって泥を這いずりながらも『より良い世界』を模索し続けることこそが、本の意味で世界を前へと進めていくのではないのか……」
翠葉は剣を持ち上げた。腕が震えている。
・・・翠葉はこれまで狩猟しかしてこなかった。人を殺したことなんて一度もない。いくら覚悟を決めていようと、動揺せずに一発で仕留められるはずがない。間違いなく手元が狂い、急所を一撃で捉えることはできず外す。
俺は戦場で何度も刺され、瀕死の重傷を負ってきた。だから、その痛みなら耐えられる。だが、二発目は本気で仕留めに来るだろう。
その時美並が目覚めた。
「翠葉、美並だけを解放しろ。縄を解け」
「・・・わかった。だが、美並がおまえを助けに行こうものなら、美並からやるからな」
美並は解かれた。二人の張り詰めた呼吸と、冬の冷たい空気が交錯する。美並の常人離れした運動神経なら、翠葉の手から一瞬で剣を奪い取ることもできた。けれど、美並が選んだのは力を振るうことではない。
「翠葉」
いつものように優しく名前を呼び、ゆっくりと歩みを進める。翠葉と知千の間に立った。
「美並、何をしている」
「翠葉と話す」
「……は……?」
「来ないで、美並。わたしの邪魔をしないで……」
「翠葉、話そう」
「やめて」
翠葉が恐怖と混乱に震える剣先を美並に刺した。剣は美並の腹部をグサリと貫いた。血が滴る。衣服に滲んでいく。
「美並……!!」
知千は助けようとしたが、固く縛られた縄のせいで指一本動かすことすらできない。何もできないことが悔しくて、腹が立って、歯噛みすることしかできない。
「痛いな……」
激痛に顔を顰めたが、美並の眼差しはまっすぐに翠葉をとらえていた。
「翠葉。私は翠葉と生きる未来を、まだ諦めてないよ。ないなら今から探す。我儘って思うかもしれないけど、これが私の気持ち。私、翠葉がいない未来なんて嫌だ!でも私はここで死にたくない!だから翠葉と一緒に生きたい!
翠葉はずっと……考えられないくらい辛くて、残酷で、酷すぎる使命を、ずっと一人で負わされていたんだね……。過去に行って、初めてその事実に触れたよ。こんなにも苦しかったのに、ずっと助けてあげられなくてごめん……。でも、私は今もずっと翠葉を信じているよ。確かに五歳の頃、夢を見て、役割を与えられ、私を儀式に使おうとしたのかもしれない。決意したんだと思う。だけど翠葉の心の中にあったのは、残酷な気持ちだけじゃなかった。もうひとつ大切な気持ちがあったことを私は知っているよ。それはね、『私のことが大好き』っていう、優しくて温かい気持ち。翠葉は私に沢山の優しさと幸せと温かさをくれた……」
「おかしいよ...!」
翠葉は怒鳴る。
「おまえは過去に行き、全てを知った。わたしがおまえと知千を利用しようとしてることも含めて知った。本当に生きたいと思うなら、さっさとわたしを殺せばよかったんだ!そうだろ!?なのに全てを知った後のおまえの態度は変わらなかった。おまえはずっといつものように変わらず、わたしに接したんだ!もう翠葉ではない奴に、なんでそんな情を持てるっ!?!」
「ううん。翠葉は何も変わってないよ。翠葉は翠葉だよ」
「綺麗事を言うな……」
「私だって怖かったよ。私がずっと翠葉を信じて、翠葉は大丈夫だよって言い続けることが、翠葉を苦しめてるんじゃないかって。私のことを嫌になってるんじゃないかって……。でも、翠葉は一度も私を拒まなかった。私が何を言っても、嫌だって言わなかった。だから私は、信じ続けていいんだって思った。私は、ただ生きたいんじゃない。翠葉と一緒に生きたいの。翠葉がどれだけ否定しても……翠葉は私の大切な翠葉なんだよ……」




