過去還り 悠凪姫の願い
夜も深くなった頃。悠凪姫の部屋には、彼女と、長年仕えてきた側近の二人しかいなかった。机の上には、流翻族へ嫁ぐための衣装と、あの翠葉と同じ首飾りが置かれている。
側近は、姫の顔を見つめた。
「……姫。本当に、明日、流翻族へ向かわれるのですね」
「ええ」
悠凪姫は静かに答えた。
「ですが、一つだけ。あなたに話しておかなければならないことがあります」
「何でしょうか」
悠凪姫はしばらく黙っていた。そして、そっと自分の腹部に手を添えた。
「私は……すでに子を身ごもっています」
側近の目が見開かれる。
「……え?」
「まだ、誰にも話していません」
「なぜ……」
「今それを公表すれば、私の立場が悪くなるからです」
悠凪姫は悲しげに微笑んだ。
「私はこれから、流翻族へ嫁ぎます。もし妊娠していることを知られれば、私が何をしようとしているのか、余計に疑われるでしょう。子どもを利用される可能性もあります」
「しかし……」
「だから、このことは秘密にします」
悠凪姫は首飾りへ視線を落とした。
「私は流翻族へ嫁ぎます。そして、あちらで子を産みます」
「……それでは、その子は……」
「流翻族の王家の子として生きることになるでしょう」
側近は言葉を失った。悠凪姫は、ゆっくりと続ける。
「それが必要なのです」
「何のために……?」
「私の血を、想いを、未来へ残すために」
悠凪姫は首飾りを手に取った。
「この首飾りの持つ滅びの力は、私が死ねば終わるわけではありません。私が命を使って滅びの力を封じたとしても、首飾りそのものを壊さなければ、再び力が目覚める可能性があります」
「では、首飾りを壊してしまえば……」
「それができれば、どれほどよかったでしょうね」
悠凪姫は寂しそうに笑った。悠凪姫は、静かに首飾りを見つめていた。手に取れば簡単に打ち砕くことのできる脆弱な細工。けれど、彼女はその首飾りを壊さない道を選んだ。
悠凪姫は首飾りを胸元に抱いた。
「私は、首飾りを壊すのではなく、私自身の命と一緒に封じます」
「姫…………これ以上、一人で背負う必要はありません」
悠凪姫は首を横に振る。
「これは、私が選んだことです。これ以外に方法はないのです・・・・・・私が死んだ後、この首飾りは私の子孫へ受け継がれていくでしょう」
側近は愕然とした。
「それでは……いつかまた、滅びの力が……」
「ええ」
悠凪姫は否定しなかった。
「私は願っています。私の子孫が、この力を使うことがありませんように、と」
少しだけ間を置いて、悠凪姫は微笑んだ。
「私の子どもには、その子どもたちにも、世界を滅ぼす使命など背負ってほしくありません。役割とか、使命とか、そんなもの、無くなってしまえばいいのです。ただ普通に生きてほしい。笑って、泣いて、誰かを好きになって……誰かと一緒に生きてほしい」
側近は俯いた。
「では、なぜそこまでして……」
「私がここで血筋を絶やしてしまえば、この首飾りは途絶えます。覚えていてほしい...」
彼女のたったひとつの祈りだった。何百年という途方もない年月が流れようとも、その存在が形としてこの世界に残っていれば、人々は問い続けることができるはずだから。
かつて、ここで何が起きたのか。
世界を滅ぼすとは、一体どういうことなのか。
そして、私たちが目指すべき「よりよい世界」とは何なのか。
彼女が託したのは、未来への攻撃的な力などではなく、過去を忘れまいとする静かな思索の種だった。
しかし、運命はあまりにも皮肉だった。
時を超えて残されたそのささやかな想いは、いつしか歪められ、かつての悲劇をなぞるための拠り所となっていく。世界を救うための問いかけとして灯されたはずの光は、いまや皮肉にも、この世界を再び終末へと導くための凄惨な引き金として使われようとしていた。
「何百年経っても、この存在が形としてこの世界に残っていれば、人々は問い続けることができます。世界を滅ぼすとは、一体どういうことなのか。そして、私たちが考え、追い続ける『よりよい世界』とは何なのか。それは争いのない世界のことなのでしょうか。忘れないでほしいのです。私が生きられなくても、私の願いだけは残したいのです。いつか、この首飾りを受け継いだ誰かが、この力を使わない世界を選んでくれることを……私は願っています」
その光景を見ていた美並たちは、誰も言葉を発することができなかった。
悠凪姫は流翻族へ嫁ぎ、そこで子を産んだ。流翻族は大きな歓喜に包まれた。流翻族の大王自身も、そして族の誰もが、その幼子を疑うことなく祝した。悠凪姫と大王の二人が睦み合い、授かったと信じて疑わなかったのだ。
その子孫は、流翻族の王家の血を受け継いだ。
そして、悠凪姫が亡くなった後も、首飾りは壊されることなく、密かに子孫へ受け継がれていった。
やがて王家そのものが隠されるようになっても、首飾りだけは残った。
何代も。
何代も。
そして百年後。
それは、翠葉のもとへ辿り着いた。
悠凪姫が「二度と使われませんように」と願いながら残したものが、今まさに、滅びの儀式を行おうとしている少女の首元にある。
美並は、誰に聞くでもなく呟く。
(……悠凪姫も、怖かったのかな)




