みんな
「美並」
自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。肩を揺さぶられて、美並は「眠いよ、翠葉...」と寝ぼけながら呟く。
「眠い...まだ寝たい」
まぶたは重く、眠気に抗うことなんてできなかった。肩をそっと揺さぶる人物のぬくもりを感じながら、美並の身体はそのままその胸の中へと倒れ込む。包み込まれるような暖かさに満たされ、美並の意識はゆっくりと深い睡魔の底へと沈んでいった。ここなら、何にも脅かされることなく、安心して眠れそうだった。
「美並、大丈夫か...?」
床にすべり落ちるように体勢を崩した美並の背中に、そっと手が回される。優しく包み込むようなその感触に、美並は身を委ねるようにして、深いまどろみの中へと沈んでいった。
「ん・・・?」
そっと目を覚ますと、真っ先に視界に飛び込んできたのは、見慣れないほど豪華で綺麗な寝台の天井だった。まるで王が眠るベッドを思わせるような、装飾の施された天蓋が広がっている。固い床の上で眠りについたはずなのに、包み込まれるような柔らかい布団の感触に、美並はゆっくりと意識を覚まし、呆然とその天井を見上げていた。
「あれ・・・私・・・」
「気が付いたか」
重い目蓋をこすりながら、まだ頭に霧がかかったような状態で、美並は視界に映る知千のの姿をぼんやりと見つめた。知千が見下ろしていた。朝の光の中で見る知千の横顔は、なんだかいつもよりずっと凛として見えた。
・・・知千って、こんなにかっこよかったっけ……。
半分寝ぼけた頭の隅で、美並はそんなことをぼんやりと考えていた。
「かっこいい......」
「ぁ?」
「知千が、ここに運んでくれたの?」
「廊下で寝落ちしているおまえを側近が見つけた。風邪をひかれると、面倒だからだ」
「ありがとう」
知千は別に、と言って、美並の肩までかかった白い布団を優しく引き上げ、そっと掛け直してくれた。
「疲れているのだろう。まだ寝とけばいい」
布団からは、綺麗で心地よい香りがふわりと漂ってくる。立ち去りかけた知千の腕を袖の上から、美並はキュッと握る。知千は、何の用だと足を止めた。
「知千は、優しいね」
「普通だ」
「心配してくれてるの?」
「してない」
「まだここにいて。私、知千と一緒にいると、ホッとできるの。だから、私もう少し、知千と一緒にいたい。少しでいいから、このまま手を握っていてもいい?」
知千はそのまま気の済むように手を握らせてくれた。
知千はふと手を伸ばし、美並の頬にそっと触れると、優しくその目元を撫でた。あまりにも近くて、どこか色っぽい知千の距離感に、美並の胸はドキッとする。
「美並」
「……なに?」
赤くなる顔を隠すように美並が尋ねると、知千はハッとしたように手を引っ込めた。
無意識に触れていたことに、知千は気まずそうに視線を逸らすと、...寝ろ、とだけ短く言い残し、部屋を出ていってしまった。
数ヶ月後。
「美並!久しぶり〜会いたかった」
美並は白馬と会う約束をしていた。予定の時刻に、門の前に来ると、馬車で来た白馬と実歌が手を繋いでいる。美並を見つけた実歌が駆け出し、ぎゅっと美並に抱きついた。
「実歌!会いたかった!元気だった?」
「うん!」
美並は実歌を抱き上げて喜ぶ。実歌のことは妹のように可愛がっている。手紙でのやり取りはしていたものの、何ヶ月かぶりの再会は嬉しい。白馬も笑顔でやってきた。美並とハイタッチした。
「久しぶりだね!美並。元気だったかい?王宮での生活は慣れたかな?翠葉が記憶喪失したと聞いて心配しているよ。大丈夫なのかい?」
「うん。翠葉は病気が治った後、記憶喪失してしまっている。昔のことは何も覚えてない。記憶喪失が治るまで、まだ山に帰る予定はないよ」
「そっか。あっ...!頼まれていた例の薬草書、持ってきたよ!記憶を取り戻す薬草の調合方法などを調べてみた。いくつか載っているから、使えそうなものを探して、一緒に検討してみよう」
「ありがとう!白馬!」
古い薬草書を受け取って、お礼を言う。翠葉の記憶喪失のことは、白馬との手紙のやり取りのことで、伝えていた。
「記憶をもとに戻す方法は三つある。一つ目は、月影草の蒸留酒だ。新月の夜にしか咲かない「月影草」の葉をすり潰し、高純度の蒸留酒に浸して抽出した薬液。患者の額に垂らしながら、特定の香りを嗅がせることで記憶を呼び覚ます。二つ目は、銀涙の木の脂と塗布薬だ。銀色の樹液を出す樹木から採れる脂に、乾燥させた紫ハーブを混ぜて作る軟膏。こめかみと胸元(心臓の近く)に塗り込んで使用する。三つ目は、焔心果の燻煙療法。赤く熱を持ったような実を付ける「焔心果」の乾果を、専用の香炉で焚き、その煙を患者に吸わせる方法だ。しかしどれも記憶喪失の原因が物理的ショックや、トラウマでないといけない。月影草の蒸留酒は、急激な衝撃によって、魂と肉体を繋ぐ『気』が歪んだ者にのみ効くと記されている。衝撃によって「一瞬で途切れて歪んだ気」を整えることで、記憶の繋がりを修復するのだ。それ以外(病気や老衰、呪いなど)の場合は、歪みではなく「緩やかな喪失」であるため、この薬を飲むと存在しない歪みを補正しようとして強烈な頭痛や幻覚を引き起こし、逆効果となる。銀涙の木の脂と塗布薬の作用は「外圧や恐怖から身を守るために、心が自ら固めてしまった『記憶の防壁』を一時的に溶かす」というもの。ショックから脳や心が身を守ろうとして作った防壁(自己防衛本能)を和らげ、隠された記憶を引き出す。それ以外(毒など)だと、防壁そのものが存在しないため薬が作用せず、ただ肌が激しく痺れるだけだ。焔心果の燻煙療法は、「あまりの衝撃(恐怖や打撃)に驚き、脳の奥深くに逃げ込んで眠ってしまった記憶の欠片を起こす薬」と説明されている。強烈な刺激の煙が「眠っている記憶」を急速に覚醒させ、元の場所へ引き戻す。それ以外(生まれつきの健忘や、じわじわ進行した病など)の場合は、起こすべき「眠った記憶」が存在せず、無理に脳を刺激することになるため、正気を失う危険性がある禁忌の処方となる。
美並、そもそも翠葉が記憶喪失した理由や原因はわかるかい?何か心当たりは?」
「いや、それがわからない。翠葉は薬のおかげで回復したけど、四日後に突然昔見た日没の話をしていたら、何のことかわからないって言って、記憶喪失していたんだ。原因に心当たりはないよ。物理的ショック・・・頭をぶつけたとか、殴られたとか、大怪我したとか、そんなことはないし、何かトラウマになるような恐ろしいことも起こってない」
「そうか・・・・・・そもそもの原因が物理的ショックやトラウマでないと、これらの薬を安易に用いるのは危険だね。記憶の原因さえわかればいいんだけど。そしたら対処法もわかる。不思議だ。原因不明の重病の後は、記憶喪失。美並、翠葉には生まれつき病気があったとか、そういうのはない?身体が弱かったとか」
「ないよ。翠葉は健康そのもの。翠葉が寝込んでいるところはほとんど見たことがない。寝込んだのは、小さい時にちょっとした風邪をひいただけだよ」
「生まれつきの健忘は?」
「ない。翠葉は物覚えのいい方だ。私よりも薬草の種類いっぱい知ってるし、物知りだ。一度聞いたことは忘れないよ」
「じゃあ毒は?誤って毒が含まれている植物を口にしたとか」
「記憶喪失させる毒を持った植物があるの?白馬。回復してから、私は翠葉の近くになるべくいたし、毒を飲んだりはしてないと思う」
「あぁ。霜枯れ苔とか凍氷百合とか・・・・・前者はじわじわと大切な人との思い出や自分の名前から消えていき、最終的には思考できなくなる。後者は、一瞬で記憶が飛ぶ即効性が特徴で、毒を受けた瞬間の前後の記憶が完全に抜け落ち、気づいた時には何も分からなくなる。だけど、君が教えてくれた話では、翠葉は自分の名前は忘れてないんだよね。それに、翠葉が毒を飲んだ可能性もそもそも低い。君がそばにいたし、その三日間、山にも行ってないんだから。原因はなんなんだろう」
「もしかして、『呪い』・・・とか?」
「呪い?そんなものこの世界にあるのかな」
白馬は信じられない、と言った。
「でも、それ以外に心当たりがないんだよ。呪いがあるかはわからないけど、ないとも言えないじゃん」
「まぁ確かに。それはそうだ。だとしたら、何の呪いだろう。記憶喪失させる呪い?何のために?誰が?」
「わからないよ・・・白馬。呪いについて詳しくないの?」
「僕は魔術師じゃないんだよ、薬師だ。薬草と医学のことしか知らない。それか、翠葉が見てきた今までの記憶を見るのはどうだろう。記憶を見て、翠葉が記憶喪失した原因を探せるかもしれない」
「ダメっ!翠葉の私事を覗くの?もし翠葉の恥ずかしい記憶を見てしまったらどうするのっ!!どう責任とるの?白馬、あんたただじゃすまされないよ!!」
「え?そんなまずいこと言ったかな、僕。てか翠葉の恥ずかしい記憶って?美並心当たりあるの?」
「ないよ」




